責任は主体を想定する?

 
2011年6月19日の羽田空港です。ひょっとして伊丹への帰路に富士山が見えるかと思いましたが、雲のために見えませんでした。もし雲が無ければ見えるのでしょうか。いつも夜ににばかり乗っているので、よくわかりません。
 
 
アンスコムのいうように、意図的な行為の場合、我々は「なぜそうするのか」と問われたときには、即座に「○○するためだ」と答えられるでしょう。このような<行為の理由>は、<行為の原因>と同一なのでしょうか、まったく別のものなのでしょうか、それとも一部重なるのでしょうか、それともこれらのいずれともことなるのでしょうか。
 
亀をいじめている子供たちを見たときに、私が思わず「やめなさい」といって止めようとしたとしましょう。「どうして、僕たちの邪魔をするのですか」と問われたとき、即座に「かわいそうじゃないか」と答えたとしましょう。このとき私が「物理主義の世界」の住人であるとして、私はこの行為をどのように理解するでしょうか。
 
私の行為は、自然的な因果関係によってすべて決定しています。私が「やめなさい」と言った行為の原因をCだとしましょう。私は、「亀がかわいそうだからやめさせよう」と考えていたとしましょう。このとき、「亀がかわいそうだ」という考えが、ここでの原因Cでしょうか。亀がかわいそうだ、という考えは、それだけでは行為を決定するに充分ではありません。したがって、<行為の理由>と<行為異の原因>は同一ではないでしょう。
 
「やめなさい」という発話行為が成立するには、そのほかの条件もはたらいていたでしょう。それらをすべて列挙することはできませんが、その原因Cが、そのような条件の集合であったとしましょう。「亀がかわいそうだ」という考えは、その原因Cの一部分であったのでしょうか。つまり<行為の理由>は、<行為の原因>の一部分になるのでしょうか。
 
ここから二つのケースに分けて考えてみましょう。
まず、<行為の理由>が、<行為の原因>の一部になっているとしましょう。
(今回は、このケースの途中までです)
 
このとき<行為の理由>の成立もまた、因果的に決定しているはずです。上の例では、私が「亀がかわいそうだ」と考えることです。この考えもまた、因果的に決定しています。
私が「亀がかわいそうだ」と考えたから(これが原因の一部となって)、「やめなさい」と発言したのだとすると、私にはその発話行為の責任があるのでしょうか。考えから行為が発生するのは、因果関係であり、しかもその考えもまた因果関係によって成立しているのだから、私の自由が介入する余地は全くないのです。しかし、「亀がかわいそうだ」という私の考えが、私の行為の原因の一部になっているということが言えるのならば、ここに「責任」について語れる余地はないでしょうか。
 
別の例で考えてみましょう。
私が楽をしようとして、「駅まで乗せてくれたら、お金を払うよ」と友人に嘘をついたとしましょう。友人が、自動車で駅まで乗せてくれたのですが、私には払うお金がなかったとしましょう。「嘘をついて、駅までのせてもらおう」と私が考え、実際に友人をだましたとしましょう。このとき、「嘘をついて、駅まで乗せてもらおう」という私の考えが、原因の一部となって、友人をだます行為が生じたとしましょう。「嘘をついて、駅まで乗せてもらおう」という考えは、完全に因果関係によって成立したのだとしましょう。私にまったく自由がないとすると、私には、私の行為の責任がないかもしれません。そもそも私にまったく自由がないとすると、「私の行為」というものも、ある現象をそのように記述できるということにすぎず、別様にも記述できることになりそうです。「私の考え」についても同様です。私に責任があるとしたら、「私」が存在しなければならないように思われます。
 
=””>「私」という<主体>について語ることが可能であるのかどうか。もし可能であれば、「私」の責任について語ることも可能であるかもしれません。
 
これを次に考えてみようと思います。