机に腹を立てる

 
野分けすぎ、鈴虫も待つ、名月かな
(季語ばかりになってしまいました)
 
 
前回の(a)(b)(c)を考えてみます。
 
まず(a)「この前提の上で、(3)が成立するのかどうか」を考えましょう。
 
くどいですが「この前提」とは、(1)「物理的現象であること」を認め、かつ(5)「人間が自由であること」を認めないということでした。(3)は「他者の振る舞いに怒りを感じること」でした。
 
まず、(1)と(3)の関係を考えましょう。
 
<(1)と(3)は(心理的に?、主観的に?)両立不可能であり、しかも(3)は我々が体験している事実である。> ゆえに、(1)を想像することはできない、とストローソンは主張します。(1)と(3)は、我々にとって本当に両立しないのでしょうか。
 
反例になるかもしれない事実を考えてみましょう。
 
反例1:二匹の犬が喧嘩しているとき、犬は互いに怒っているように見えます。物理現象である犬は、別の物理現象である別の犬に対して怒っています。したがって、(1)と(3)は両立するのです。
 
予想される批判1:犬は怒っているように見えるだけであって、怒ってはいない。それは人間が犬に感情を投影しているのだ。
 
予想される批判2:犬は怒っているかもしれないが、その怒りは、人間の怒りとは異なる。人間は、自然現象である犬に対しては怒らない。もちろん、人間が犬にかまれたら犬に対して怒りを覚えるだろうが、そのときには犬を擬人化しているのである。
 
反例2:我々は、犬にかまれて犬に怒るだけでなく、机の脚に足の小指を思いっきりぶつけてしまった時に、思わず怒りおぼえて、机の脚を蹴りたいと思うけれども、余計ひどいことになるので思いとどまる、というようなことがあるのではないでしょうか。我々は明らかに人ではない机に対しても怒ることがあり、その時には、擬人化していないように感じられるのです、それはいわば生理的な反応のようなものです。
 
予想される批判3:そのような生理的な反応としての怒りがあることがみてもてよいが、それはストローソンが問題にしている怒りではない。それは別種の怒りであり、反例にならない。
 
反例3:手元にテキストがないので、記憶で言うのですが、プラトンは、古代の刑罰では、倒れたために人間を殺すことになってしまった家具などを、国外追放などにして罰するという記述があったようにおもいます。(そのような心性は、古代ギリシアにかぎらず、他の社会にもありうることです。)つまり、怒りの対象や刑罰の対象を、理性的で自由な人間に限ることは、近代的な刑罰観なのであり、理性的で自由な人間を前提しない刑罰観もありうるし、歴史的にはあったと思われるのです。それゆえに、(3)は(1)や(4)と両立するし、(3)は(5)の否定とも両立するのです。
 
この反例3、に対してストローソンならば、何と答えるでしょうか。
次回に考えてみたいと思います。