病気としての悪

紅葉の始まる山の中です。紅葉のはじまりは、山の中ではFallの始まりです。まるで雨のように、一日中、ハラハラ、ハラハラと松葉などの木ノ葉が落ち続けます。
 
もし「物理主義の世界」の中で、道徳や法が成り立つのだとすると、そのとき、それに対する侵犯である「悪」は、人間の自由な意志の所産ではありません。それにもかかわらず、それが排除されるべき行為として理解されているのだとすると、それは「病気」として理解されているのかもしれません。
 
これは「物理主義の世界」において、「悪」が成立する場合の、一つの有力な可能性です。というわけで、悪を病気として理解することが、果たして整合的であるかどうかは、検討に値するでしょう。
 
しかし、どうも、このところ、このテーマに気が乗らないのです。
私としては、できれば物理主義を批判して、自由の可能性を追求してみたいと考えているということも、気が乗らない理由の一つなのですが、もう一つは、自分が納得していない物理主義を前提して考えることに、少し飽きてきたということがあります。
 
そこで、「病気としての悪」を考える前に、人格について考えてみたいと思います。たとえ物理主義を採用するにしても、道徳や法が成立するのなら、そこでは人格も成立しているはずです。したがって、「病気としての悪」をかんがえるためにも、「人格とは何か」を考えておく必要があるでしょう。
 
この問題については、すでに書庫「人格とは何か」で少し論じました。しかし、そこでは、明確な人格論を提案できていません。そこで、もう一度それを試みたいとおもいます。
 
という訳で、新しい書庫「問答としての人格」を始めます。
 
そのあとで、また「病としての悪」に戻ることにします。