窓からの眺めが水槽の水草の眺めに似ていることに、最近気がつきました。
地球の表面は、水の中も陸上も緑の世界だったのかもしれません。
ストローソンの主張は、次のようなものでした(以下は私の勝手なまとめです)
<人間は、他者の振る舞いに対して怒ることがあるが、自然現象に対しては、怒らない。したがって、他者に対して怒ることと、他者を自然現象と考えることは両立しない。したがって、他者を自然現象として考えるということが、どういうことなのか、理解できない>
これに対する反論として、前々回に挙げたのが、以下の二点でした。
①動物や家具に対して怒るときがある。
②動物や家具に刑罰を与えることもある
①に対するストローソンからの批判としては、次の二つないし三つが予想できます。
(i)怒りの種類を分けるべきだ:動物や家具に対する怒りと人間に対する怒りはことなる。前者の怒りは自然現象に向けられるが、後者の怒りは自然現象には向けられない。したがって、人間を自然現象と見なすことは、理解できない。
(ii)動物や家具に対する怒りは擬人化にもとづく:動物や家具を自然現象と考えているときには、それに対して怒ることはありえない。
(iii)上記二つの批判は、両立可能であるので、場合によって両方を使い分けて用いることもできる:動物に対して、思わず生理的に(?)怒りを感じるときもあるが、そうでない怒りを感じるときもある。そうでない怒りの時には、動物を擬人化している。
さて、このようなストローソンに対して、どのように批判することができるでしょうか。
物理主義者ならば、つぎのように批判するかもしれません。
<ストローソンの主張:≪人間は、他者の振る舞いに対して怒ることがあるが、自然現象に対しては、怒らない。したがって、他者に対して怒ることと、他者を自然現象と考えることは両立しない。したがって、他者を自然現象として考えるということが、どういうことなのか、理解できない≫の最初の二つの文章を認めて、そこから次の文を導出することも可能である。<したがって、他者に対して怒るということがどういうことか理解できない>。
ストローソンも、動物に対して思わず怒ることがあるだろう。そのとき、彼は動物を擬人化していたと反省して、動物に対する怒りを不合理な振る舞いだったと考えて、撤回するのだろう。
私は、それと同じことを人間に対しても行う。私は人間に対して思わず怒ることがある。その時私は人間を「擬人化」していたのだと反省して、人間に対する怒りを不合理なふるまいだったと考えて、撤回する。
この場合の「擬人化」とは、人間に対するある種の幻想化である。それはよく考えようとしても理解できない幻想である。>
これで、ストローソンの検討をいったん、終わりたいと思います。なぜなら、このような物理主義者の批判を(同意でなく)理解できるとすれば、ストローソンの、そもそもの批判、物理主義を理解できない、という批判は、回避できるからです。つまり、「物理主義の世界」で道徳や法は可能になるのか、という問題設定は、理解できることになるからです。
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