海の中のような森の中
決定論を理解できないというストローソンの主張への批判は、とりあえず前回で終わりました。
最初の問題に戻りたいとおもいます。
つまり「物理主義の世界」で道徳や法は可能だろうか、という問題です。
仮に、ストローソンの主張、(道徳的な)怒りと物理主義は両立しないを受け入れたとしましょう。しかし、そのときそこから帰結するのは、<物理主義は理解できない>という選択肢だけではありませんでした。もう一つの選択肢は、<道徳的な怒りは理解できないという物理主義者の主張>です。
そうすると、問題は、「怒りがなくても、道徳や法律は成立するのか」と言うことになります。この物理主義者は、<我々は、不道徳な行為に怒りを感じるかもしれないが、その時には、その怒りを幻想的な「擬人化」によるものだと反省して、消去する>と主張することになるでしょう。
このとき、(すこし論理的な飛躍がありますが)次の可能性を考えてみたいと思います。それは、「悪は病気の一種である」と考えるという可能性です。
ここから、仕切り直しです。
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