個人言語の不可能性、私的記憶の不可能性

カニバサボテンです。寒さのためか元気がありません。
 
「個人言語の不可能性、私的記憶の不可能性」
 
 前回述べたように、ウィトゲンシュタインによる私的言語批判を援用して、私的記憶の不可能性を主張したい。しかし、私が前回述べたことは、私的言語と個人言語を混同しているという批判があるかもしれないので、それについて言及しておきたい。
 
 ウィトゲンシュタイン研究者である友人S氏は、次のようにいう。<ウィトゲンシュタインが私的言語というのは、公共的に通用している言語ではなくて、ある人が新しく作った言語であり、独自の文法や語彙を持つものである。それに対して、個人言語というのは、ある人が全く一人で日本語で日記を書いているときのような言語である。ウィトゲンシュタインは、私的言語を不可能であると考えているが、個人言語は可能であると考えている。>
 私は、ウィトゲンシュタインがどのように考えていたのかを判断する知識を持たないので、ここではウィトゲンシュタイン解釈を問題にするものではない。私は個人言語も不可能であると考えるので、それを以下に説明しよう。
 
 私は昔日記をつけていた。その日記は何年も読み返していないが、しかし読み返せば、それを私は理解できるだろう。またそれを他の人が見つければ、読むことができるだろう。しかし、私がそれを実際に読み返えしてみるまでは、それが理解できるかどうかは、不確定である。私が読み返して理解できたとしても、他人がそれを読んで理解することができるかどうかもまた、実際に他人がそのようにしてみるまでは、不確定である。(ドアの向こうに廊下があるかどうかは、実際にドアを開けてみるまでは、不確実である、と言う観念論的な主張と似ている。)
 
 どうしてこういうことになるのだろうか。私は部屋に一人で、この文章を書いているが、これを他人が読めば理解できるだろうと思って書いている。私が書いているのは、通常の日本語であり、他の人も読むことができると思っている。しかしそのことを保証するのは、私の記憶である。つまり、私が一人で使っているのが、通常の日本語であることを確認するまえには、ある言語が、(上で説明したような意味での)私的言語であるのか個人言語であるのかを区別できない問ことである。私が一人で書いた日本語が、本当に日本語であるかどうかは、他人に読んでもらうまで不確実である。そして他人に読んでもらったなら、そのときそれはもはや個人言語ではない。
 
 次に、これとよく似た仕方で、私的な記憶の不可能性を説明しよう。
 
 私が小さな子供が写っている古い写真を見て、「これが小さいころのぼくだ」と思ったとしよう。それの発言の証拠は何だろうか。それは、私がその写真を昔も見たことがあり、そのとき私の写真だと考えていたという記憶であるかもしれない。しかし、私が今手にしている写真が、本当に昔見た写真と同一であることをどうやって保証すればよいのだろうか。写真の裏側に撮影の日付と私の名前が書いてあればよいのだろうか。しかし、その記載が内容が真実であることを保証するものは何だろうか。私の母親にたしかめたらよいだろうか。しかし、母親の記憶が正しいことを誰が保証するのだろうか。
 
 もちろん、こんなことを疑えば、ほとんどのことは疑わしくなる。私たちは、そんな疑念を無視してもそれほど困らない。私たちは私たちの大抵の記憶が正しいことを他者の記憶によって確認し、他者の記憶が正しいことを、さらに他者の記憶によって確認することができる。そして、必要な範囲でいつでも、そのように確認することができるだろう、と思っている。
 
 ただし、このような「常識」にもとづくのでは、原理的に先の疑念を晴らすことはできない。同じ疑念は、言語の公共性についても生じる。つまり、原理的には公共的な言語は成立しないかもしれない。とりあえず、ここでいえるのは、一人ではなくて、二人いることが、記憶の信憑性や言語の成立にとって、充分条件ではないにしても、必要条件であるということである。
 
(どなたでもご批判をお願いします。) 
 
 さて以上の話を問答と関係づけるために、次に三角測量の話をしよう。