代わり映えのしない写真ですみません。
「人格とは何か」の書庫でのべたことの復習です。
(1)人格の同一性が、身体の同一性によるのだとすると、次のような困難がある。
①身体を構成する分子は新陳代謝によって、入れ替われるので、身体の同一性とは、身体の物質の同一性ではない。
②身体の同一性が、分子が作る構造の同一性だとするとしても、身体の構造は、年齢とともに変化するので、身体の同一性は、身体構造の同一性ではない。
します。
(前の書庫で述べたのは、ここまででした。次の3を付け加えました)
③身体が同一性であるとは、身体の物質と構造が連続的に変化しているということであるとすると、その連続的変化を何によって保証するのか、ということが問題になる。
これを保証するのは、当事者の記憶や周りの人の記憶であろう。
つまり、身体の同一性は、記憶の正しさに依存することになる。これと似たことが意識の同一性についても生じるので、次に意識の同一性について考えよう。
(2)人格の同一性が、心ないし意識の同一性によるのだとすると、次のような困難がある。
①人格の同一性は、心の内容(ないし意識内容)の連続的変化によって成立するのだとしよう。このときには、心の内容が連続的に変化していることを保証するのは、記憶である。つまり、昨日の私の心の内容と今日の私の心の内容の連続性を保証するためには、昨日の私の心の内容についての記憶の正しさを前提する必要がある。
この記憶の正しさを記憶によって保証することはできない。しかし、他にはその保証の方法が見つからないとすると、①は循環論法に陥る。
(3)さて、そこで考えられるのが、身体と心の結合体として人格をとらえて、その両方の連続的変化として、人格の同一性をとらえるというアプローチである。(エイアーがそうであり、おそらくストローソンもそうである)
さて書庫「人格とは何か」では、この(3)のアプローチもうまくゆかないので、人格を構成されたものとして考えるというアプローチに可能性がありそうだ、と言うあたりで、終わっていました。
ここでは、この(3)からもう一度考えてみたいと思います。