<約束>と<人格の同一性>について

                                 梅の枝 生きる力の 優しさよ
 
<約束>と<人格の同一性>について  (20120304)
 
 前回までに確認したことは、私たちは計画を立て実行することによって、自己の人格の同一性を構成するということである。この文脈では、私たちが<人格の同一性>を構成する必要は、計画の必要性に由来しており、これはさらに、計画を必要とするような欲望に由来している。(この欲望は、おそらく、<<ある未来の時点t1が来れば、行為xを行おう>という形式の意図を実現することよって実現が可能になるような欲望>であると思われるが、これの検討には入らない。)
 
 (「人格の同一性」という概念とすることと、ある種の欲望は、おそらく同時に成立する。私たちが「人格の同一性」という概念を必要とするのだとすると、その概念の獲得は、それ自体が、おそらく何らの問題の答えの獲得になっているのだろう、と推測する。これについては、今後の宿題にしたい。)
 <計画する人格の同一性>について検討すべきことは、他にもありそうだが、とりあえずこれだけにして、次に進みたい。
 
 今回から説明したいことは、<約束>と<人格の同一性>の関係、言い換えると<約束>と<問答の連続性>の関係である。
 
 ところで、約束には次のようなものがある。
  ・自分との約束(?)
  ・他人との約束
  ・組織との約束(会社との雇用契約はこれに含まれる)
 
このなかで基本的なものは、<他人との約束>だろう。<他人との約束>を次のように分けることができる。
  ①法的な契約など、国家などの組織を介して成立する他人との約束
    (法的な婚姻はこれに属する)
  ②国家などの組織を介しない他人との契約
 
ここでは、②だけを扱いたい。(①については、国家や組織を考察するときに、扱いたい)
 
 まず、②と計画の違いを、簡単な例で確認しよう。
 「明日の朝10時に会いましょう」という提案に「はい」と答えた私は、明朝10時にひとと会う約束したことになる。10時にそこに行くためには、8時半には家をでなければならず、そのためには7時半におきなければならず、そのためには、12時ころには寝たほうがよい。約束をすると、それを実行するために、このように行動計画を立て、実行する必要が生じる。約束が単なる計画と異なるのは、何らかの事情が生じても、私一人で約束を解消したり、変更したりできないということである。
 
 次に<計画する人格の同一性>と<約束する人格の同一性>の類似性と差異を確認しよう。
 <約束をし、実行し、時に約束を変更すること>は、ある意味では<計画を立て、実行し、変更する>ことと似ている。これらのプロセスを通じて<人格の同一性>を主張できるのは、それらが合理的に行われているからであり、言い換えると、問答によって行われているからである。(この点で、計画する人格の同一性と類似している)
 
 ただし、約束の場合には、一人で勝手に約束したり、勝手に変更したりできない。つまり、約束は拘束力を持つ。もし約束した人格が現在の私の人格と同一でないならば、私には約束を守る義務はなく、したがって約束を破ることもできない。私は謝罪する必要がないからである。例えば、もし私が記憶喪失のために約束したことを忘れてしまっていたら、私には約束を守る義務はないだろう。なぜなら、私は約束した時と同じ人物ではないからだ。したがって、<私の人格に連
続性がないならば、私には約束を守る義務がない>
といえる。これの対偶は、<私に約束を守る義務があるならば、私の人格には連続性がある>となる。
 
 ところで、私が約束を破ることは、物理的には可能である。その場合にも、私の身体は同一性を保っている。では、人格の同一性についてはどうだろうか。もし私が約束を破ったことを認め、謝罪するのならば、私の人格の同一性は保たれているといえるだろう。
 私が、約束したことをうっかり忘れていたのだとすると、私は約束していたことを指摘されてすぐに思い出すだろう。そのときには、謝罪するだろう。そのとき、私は(私自身にとっても、相手にとっても)約束した人物と同一人物であり、約束を守る義務を負う。
 
 <約束を守る義務を負うとは、もしその義務を履行しなかったときには、責任をとる義務を負うということである。もし責任を取らなかったならば、責任を取らなかったことについての責任をとる義務を負うということになるだろう。一旦背負った義務は、もしそれが履行されなければ、形を変えて別の義務となり、履行されるまで、どこまでも迫ってくる。>
 
 したがって、次が帰結する。
 <一旦約束をすると、仮に約束を実行しないとしても、実行しないことについての責任をとることを要求され、私は同一人物であり続けることを要求される。>
 
 つまり、<約束の拘束力>は<人格の同一性>を義務にする
 
 では、なぜ<約束の拘束力>が生まれるのだろうか。
 
 
 
 

投稿者:

irieyukio

問答の哲学研究、ドイツ観念論研究、を専門にしています。 2019年3月に大阪大学を定年退職し、現在は名誉教授です。 香川県丸亀市生まれ、奈良市在住。

「<約束>と<人格の同一性>について」への1件のフィードバック

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