約束の誠実性と人格の同一性

 
 
 
■脇道:カントのうっかりミス2つ
 
うっかりミス1:カントは『純粋理性批判』序論で、数学の全ての命題は、アプリオリな綜合判断であると言う。カントにとって、数学とは幾何学と算術のことである。しかし、前回引用したように「三角形を作るには三本の線を引かなくてはならない」は分析判断である。それゆえに、<数学の全ての命題は、分析判断であるか、アプリオリな綜合判断である>とすべきだったことになる。
 
うっかりミス2:前回引用したように、カントは、「[三角形の]その二本の長さの和は三本目よりも長くなければならない」をアプリオリな綜合判断であると述べている。この命題はユークリッド原論の「命題20」にあたる。「命題」は「公理」から論理的に導出されたものである。ところで、「公理」がアプリオリな綜合判断であるので全ての「命題」(定理)はアプリオリな綜合命題になる、とカントは考える。これはよいだろう。しかし、この命題が定理である以上、これは公理から導出可能である。つまり理性の推論によって証明可能である。この点が、前回の引用部分「理性の推論によって証明することが不可能である」は、うっかりミスではないだろうか。(もちろん、前提をさかのぼって、公理まで行けば、理性の推論によっては証明できないので、究極的には証明不可能である。しかしそのような意味で「証明不可能である」と言ったのではないだろう。もし、そう言うならば、形式論理学においても、公理はもはや証明可能ではないのだから、全ての命題は、証明不可能になる。)
 
(念のためにいうと、前回は、約束をするときの誠実性と、約束を履行する義務を区別するために、カントに言及したまでであって、それ以上ではない。ここではカントの主張に依拠するつもりはない。なぜなら、カントの道徳論も法論も、「人格」を前提しているからである。それに対して、この書庫での私の課題は、「人格」概念を分析することである。
 ロックのような経験論では、全てが感覚に還元されてしまうので、人格の同一性をどう考えるかが、問題になったのだが、カントを含むドイツ観念論では、「超越論的な統覚」としての自我を想定するので、「人格の同一性」はほとんど問題にならなかった。)
 
■約束の誠実性と人格の同一性
以前に確認したように「約束の拘束力は、人格の同一性を義務にする」そこで、前回の最後に宿題「約束を守る義務をどう説明するのか」を立てたが、ここでは、その前に次の問いを考えておきたい。
 
問い「約束の誠実性は、人格の同一性とどう関係するのか?」
 
 たとえば、「来週の日曜日1時に会いましょう」と誠実に約束をすることは、少なくとも来週の日曜日までの人格の同一性を前提している。Davidsonの「三角測量」の議論が正しいとすると、私たちが何らかの信念を持つためには、他者とのコミュニケーションが必要である。したがって、私が計画を立てるためにも、潜在的には他者とのコミュニケーションが必要である。三角測量の議論では、「来週の日曜日に一時にyさんに会おう」という発話が有意味であるためには、私的言語であってはならず、公的でなければならず、したがって他者とのコミュニケーションが必要だ、と言うことであった。
 
 しかし、約束が成立するときには、計画の信念を持つために他者とのコミュニケーションを必要とするのとは、別の意味で、他者とのコミュニケーションを必要とする。「来週の日曜日1時に会いませんか?」と問われて、「はい、そうしましょう」と答えることによって、約束が成立する。約束するには
相手が必要であり、約束の発話は他者との会話の中で、より明確には上のような問答において成立する(あるいは、約束が曖昧であった場合には確認の必要があるが、それは問答によって可能になる)。
 
 これについては、二つの解釈が可能である。
 第一の解釈:xさんがyさんから「来週の日曜日の1時に会いませんか」と問われて「はい、そうしましょう」と答えるときに、yさんの問いとxさんの答えの間に、次のようなxさんの自問自答が行われている。「来週の日曜日1時にyさんに会おうかどうしようか」「会うことにしよう」
 第二の解釈:他者に問われてこたえるときに、上記のような自問自答が行われる場合もあるが、しかし他者の問いを理解し、それを自問しなおすことなく、直接に返答することもあるだろう。迷う必要のないような簡単な問いかけの場合にはそうである。
 
 おそらくは、第二のあり方がより基底的である。他者との問答を、自分一人で再現することによって、一人で考えることができるようになり、第一のあり方が可能になるのだろう。(もっとも、これが正しいかどうかは発達心理学での検証を待たなければならない。)
 
 この書庫では、<人格は問答であり、人格の同一性は問答の連鎖である>を説明し証明しようとしてきた。その際<問いは、現実認識と意図の矛盾から生じ、その現実認識と意図はそれぞれ別の問いの答えとして成立している>と考えてきた(これはこの書庫での前提であり、証明はしていない)。約束の発話「来週の日曜1時に会いましょう」というxの意図は、問いへの答えとして意味をもち得るのだが、もし第二のあり方がより基底的だとすると、その問いは、他者からの問いかけである。その問いは、「ある事柄を月曜日までに決めたい」というxとyの意図、しかし「土曜日まではxさんは出張している」というxとyの現実認識、そこで出てきた解決策の一つが「日曜の1時に相談する」である。「日曜の1時に会いませんか」という問いは、次の矛盾から発生する。「ある事柄を月曜日までに決めたい」というxとyの意図と、その意図を実現するための方策が未決定であるというxとyの現実認識との矛盾である。このように、他者の問いに答えるためには、問の共有が必要であり、そのためには問の前提である現実認識と意図(欲望、課題、計画など)の共有が必要である
 
 もちろん、現実認識や意図が全く違っているのに約束するということ(同床異夢)もありうるが、それは約束の基本的なあり方ではない。(これに対しては、「同床異夢こそが約束の基底であり、約束はいつ底割れするかわからない」という反論があるかもしれない。しかし同床異夢の場合であっても、約束によって、互いの行為調整ができている限りにおいて、何らかの現実認識や意図を共有していると言える。)
 
もし前々段落のように言えるとすると、約束は、現実認識と意図の共有に基づく共同計画として、成立することになるだろう。約束することは、共同計画の一部として人格を構成することである。誠実に約束するとは、誠実に共同計画の一部となることであり、不誠実に約束をするとは、共同計画の一部となっている振りをすることである。
 
 
(考えながら書いているせいで、結論から書き出せなくて、話が必要以上に複雑になってしまってすみません。)