いよいよ本題へ

                                     サクランボ またの名を 桜桃 またの名を ゆすらうめ
 
12 いよいよ本題へ (20120626)
 
以前にも書きましたが、私の仮説は、「社会の規則や組織などは、一人では解決できず集団で取り組まなければ解決できない問題(社会問題)を解決するために作られたものであり、またそのようなものとしてのみ正当化される」ということです。この仮説の説明ないし証明が、この書庫の本来の課題でした。
しかし、それに先立ってこれまで、次の二つの課題を論じてきました。
課題1「人間社会そのものが、一人では解決できず集団で取り組まなければ解決できない問題を解決するために作られたものである」を説明すること
課題2「人格は、個人(あるいは個体)では解決できない社会問題を解決するために作られた制度である」を証明すること
 
どちらも明晰に説明ないし証明ができたとはいえません。それにもかかわらず、まずこれを論じたかったのは、「社会」や「個人」を前提したうえで、当初の仮説(テーゼ)「社会の規則や組織などは、一人では解決できず集団で取り組まなければ解決できない問題(社会問題)を解決するために作られたものであり、またそのようなものとしてのみ正当化される」の証明をするということを避けたかったからです。「社会」や「個人」がどのようなものであり、どのようにして成立するのかをも、このテーゼにもとづいて論じたいと考えたからです。その試みは、現段階では不十分ですが、私が考えようとしていることのあらましを理解してもらえれば、一応の意図は達成できたことになります。
 
―――――――――――――― 
というわけで、いよいよ本題です。次のテーゼの説明をしたいと思います。そして、このテーゼを出発点にして、社会の全体についての包括的な説明を追求したいと思います。
 
テーゼ「社会の規則や組織などは、一人では解決できず集団で取り組まなければ解決できない問題(社会問題)を解決するために作られたものであり、またそのようなものとしてのみ正当化される」
 
 このテーゼを次の図をもちいて説明したいと思います。(以下は拙論「社会問題とボランティアの公共性」の一部からの転載です。)
 

 
 <社会的出来事と社会問題の関係>の説明
 ある社会的出来事は、社会問題の現れ、一事例として「解釈」されたり、「説明」されたりします。逆に、社会的出来事は、ある社会問題があることを確かに示す「証拠」となります。
 ここで、<社会的出来事・社会現象>と<社会問題>を点線の四角形で囲んであるのは、これらが別の現象ではなくて、同一の現象の異なる捉え方だからです。これに対して、<社会問題>と<社会運動>と<社会制度>の3つは社会を構成する、別の現象であって、単なる見方の違いなのではありません。
 <社会的出来事>の説明
 社会の中のすべての出来事が、つねに社会的出来事であるわけではありません。ある出来事を「社会的出来事」として捉えることは、すでに一つの「解釈」です。また、ある出来事を、単なる個人的な出来事とか私的な出来事としてとらえるのも一つの「解釈」です。たとえば、「ニート」(NEET=“Not in Employment, Education or Training”の略語で、英国の労働政策の中から生まれた言葉だといわれる。「無業者」ともいう)について考えてみましょう。この出来事は、当初は単に個人的な出来事と見なされたことでしょう。しかし、類似の出来事が多く観察されるようになると、それはある「社会現象」として理解されるようになります。そして、「社会現象」として捉えられることによって、それは「社会的な出来事」として解釈されるようになります。(もちろん、ある出来事が社会的出来事として解釈されるときに、それが頻出して見られる「社会現象」として解釈されるということを常に介するわけではありません)。また「社会現象」や「社会的出来事」のすべてが、問題を孕んだ困った出来事であるとは限りません。しかしこれが問題を孕んだものと理解される場合、この「社会的出来事」は、「社会問題」の一事例として理解されるようになります。「ニートの増加」は、最近社会問題として認知され始めている。すべての社会問題は、具体的に誰かある人(人々)が困窮するという社会的出来事として現象するはずです。この「ニート」の場合には、その当人や家族が常に困っているとは限らない。しかし、もし多くの場合に当人も家族も困っており、しかもその解決には何らかの社会的な取り組みが必要だと考えられているのだとすると、それは「社会問題」として「解釈」され、「社会的に構成」されていくのです。
 
 <社会問題と社会運動の関係>の説明。
 社会問題とその解決方法についてのある信念が一般的に広まると、その解決の実現を求める社会運動が起きます。大きな事件や災害など一回の社会的出来事が、社会運動を活性化するきっかけになるということもありますが、その場合にも、その社会的出来事が社会問題の現れとして解釈され、その解決方法についての信念が共有されるということが必要です。こうして社会問題は、社会運動の「原因」となります。逆にいうと、社会運動は、社会問題によって「正当化」されることになります。社会運動は、①ある問題が社会問題であることの認知をもとめる活動、②社会問題の解決のための直接的な活動(災害救援など)、③社会問題の解決方法を政府や企業などに政策提言する活動、などに区別することが出来ます。ところで、これら①②③に関して、人々の合意が得られるとは限りません。ある現象を社会問題として認めない人もいれば、解決方法に反対の人もいることが予想されるからです。そのとき、この考えの対立自体が、深刻な社会問題となることもありえます。(このような場合に、公共の議論が必要になります。)
 
 <社会運動と社会制度の関係>の説明
 社会運動は、社会問題の解決の為にある制度の創設や改廃を目標にするということがあります。しかし、社会運動の中には、制度の創設・修正を目標にしないものもあります。たとえば、災害救援のボランティア活動のように、運動そのものが、社会問題の解決である場合があります。したがって、社会運動がすべて社会制度の創設・改廃へ向かうとはかぎりません。また、社会問題は、いわゆる社会運動を経由せずに、直ちに社会制度の創設・改廃によって解決される場合もあります。ところで、社会運動が、社会問題によって「正当化」されるのと同様に、社会制度は、社会問題の解決策としてのみ「正当性」を獲得することができます。ある社会運動自体が別の社会問題を引き起こすことがあると述べたのと同様に、従来の社会制度自体が、社会の変化のために、社会問題の解決のために適切に機能しなくなるということや、別の社会問題を引き起こすということもありえます。この場合には、社会制度は「正当性」を失ったということであり、その制度の修正や廃止が「正当化」されることになるでしょう。
 
 

変な論証の終わり方

                台風で倒れた自転車たち
 
 
11 変な論証の終わり方 (20120620)
 
 「こいつ」「あいつ」などの指示詞、「このひと」「あのひと」などの指示詞+一般名と、ひとの固有名たとえば「ユウちゃん」の違いは、前者は持続的な人格の同一性を必ずしも前提しないということです。
 しかし、人類は、言葉を使用する前に、おそらく持続的な人格の同一性を認識(?)していたとおもわれます。なぜなら、あるTV番組で、雄猿が、自分とメスザルがいるところを撮影したビデオを見て、自分を認識できず、自分が知っている雌猿が別の雄猿と仲良くしているとおもって、興奮するシーンを見たことがあるからです。もしそれのシーンが、本当にそのように理解できるのなら、雄猿は、自己の覚知はできないが、他の個体についてはある程度の長い期間持続する個体の認識ができていることになります。
 したがって、人間もまた利害関心から個体を識別するようになった時、その個体を持続的な連続性をもつ存在として理解している可能性が高いと思われます。もし人間が言葉を持つ前から、持続的な個体識別をしているのだとすると、言葉をもつようになったとき、早い段階でひとの固有名を持つようになったのではないかと思われます。
 もし言語が発生した原因が、自分が敵意を持っていないこと、あるいは互いに敵意を持っていないことを確認することにあったのだとすると、固有名(あるいは人称代名詞)を用いて、自分が敵意をもたないこと表明することもまた重要だったはずだからです。また言語が発生するときには、相手が言ったことがどういう意味なのかたずねたり、自分の言ったことがどういう意味なのかを説明することは、不可欠です。そのとき、単純に聞き返したり、「それは、どういうことですか」とか「それは、こういうことです」などの言い方で説明することもできるが、よりはっきりさせようとするのならば、固有名や人称代名詞で相手や自分を指示して、それについて語ることが必要になります。
 
 ーーーーー 
 
 指示詞、固有名、人称代名詞の発生順序や、発生メカニズムについて、ここでこれ以上推測に推測を重ねることはやめにしたいと思います。おそらく次のようにいえるでしょう。
 
 ①持続的な個体の識別は、おそらく言語が発生する前から成立していた。
 ②それゆえに、言語が発生した時に、持続的な個体を指示する表現が登場した。
 
表現(指示詞、固有名、人称代名詞)のそれぞれが、個人では解決できないどのような問題を解決するために作られたのか、を特定することは非常に難しいことです。しかし、そのような問題を解決するために作られたことは、確実なことではないでしょうか。なぜなら、もしそうでなければ、なぜ作られたのか、あるいは仮にあるひとが作ったとしても、それがなぜ集団内で受け入れられ広まったのか、を説明することができないからです。
 
ということで、議論をまとめましょう。
まず次の論証を考えました。
 
  ①人格は、問答ないしその連鎖です。
  ②問答は、言語によって成立します。
  ③言語は、社会的制度です。
  ④ゆえに、人
格は、社会的制度の一つです。
  ⑤社会的制度は、個人(あるいは個体)では解決できない社会問題を解決するめに作られた制度です。
  ⑥ゆえに、人格は、個人(あるいは個体)では解決できない社会問題を解決するために作られた制度です。
 
しかし、この⑤は断定されているだけなので、それに代えて、私たちはつぎのように言い換えることにしたいと思います。
 
  ⑤-1ひとを指示する表現(指示詞、固有名、人称代名詞)は、個人(あるいは個体)では解決できない社会問題を解決するために作られた制度です。
  ⑤-2人格は、ひとを指示する表現の集団内での使用によって、社会的に構成される。
 
以上で、課題であった⑥の論証を終わります。
(以上の論証では、「ひと」「個人」「個体」「人格」などを定義せずに曖昧に使ってしまいましたので、どこかで論証が循環している恐れはないのか、という危惧がのこります。到底厳密な論証とは言えないことを認めます。もし他のご批判があったら、ぜひお願いします。)
 
つぎに問いたくなる問題は、ひとを指示する表現(指示詞、固有名、人称代名詞)が成立することによって、それ以前の個体の識別はどう変化したのか、集団のあり方はどう変化したのか、ということです。群れの遊動生活や、定住生活において、ひとを指示する表現がどのような機能を持っていたのかを、あれこれ想像することもできます。
 
ところで、これらに答えたとしても、それで探求は終わりません。社会制度としての人格のもつ機能は、その発生の時の機能のままであるとは限りません。むしろ、社会の変化に連れて、その機能が変化したと考えられます。ニーチェがいったように、起源と本質は異なる、ということです。
人格の意味ないし機能は、例えば、封建的な儒教思想でのそれと、西洋近代の国家契約論でのそれとでは、異なります。さらにこれらは、グローバル化した現代の人格のあり方とも異なります。
 
これらについては、問答としての社会の分析をもっと進めたあとで、行うのが良いと思います。そこで次にいよいよ、「問答としての社会」の本論に入ろうとおもいます。
 
 

仕切り直し

                                      梅雨の間の6月の光です。 これを俳句にすると・・・
 
10 仕切り直し (20120614
 
前回疲れきっていたのので、仕切り直しをします。
 
復習
08(20120602)から取り組んでいる課題は、「人格は、個人(あるいは個体)では解決できない社会問題を解決するために作られた制度である」を証明することです。
 
<人格は社会的制度の一つです>
これはつぎのように証明できます。
  ①人格は、問答ないしその連鎖です。
  ②問答は、言語によって成立します。
  ③言語は、社会的制度です。
  ④ゆえに、人格は、社会的制度の一つです。
 
冒頭の課題は、次のように推論を続けることで証明できます。
  ⑤社会的制度は、個人(あるいは個体)では解決できない社会問題を解決するために作られ    た制度です。
  ⑥ゆえに、人格は、個人(あるいは個体)では解決できない社会問題を解決するために作ら
    れた制度です。
 
以上の推論で、弱いところがあるとすると、前提①と⑤でしょう。
①については(まだ不十分ですが一応)書庫「問答としての人格」で説明しました。
⑤については、これを説明し、証明することがこの書庫の課題です。
 
⑤の証明が先か、⑥の証明が先か、この関係の不透明性は、そこに登場する「個人」と「人格」の関係が不透明であることに由来します。そこで、以下では、⑤を用いるこの推論によらないで、⑥の証明に取り組みたいと思います。
 
前回(09回)で考えたことは、人格が問答からなり、かつ、問答が現実認識と意図からなるとすると、人格の成立は、意図表明の発話「私は、・・・したい」を前提します。しかし、一人称代名詞「私」の使用よりも、固有名(例えば)「ユウちゃん」の使用のほうが先です。ゆえに、「ゆうちゃんは、・・・したい」という形式の意図表明の発話が先になります。すると、「ひとの固有名はどうして生じたのか」が問題になります。
私の予測では、
   ⑦ひとの固有名は、社会制度の一つであり、個人では解決できない問題を解決するために
    つくられました
ということになります。これを証明することと⑥を証明することは同一ではありませんが。まず、これを証明することが、⑥の証明に近づく重要なステップになるでしょう。
 
そこで問題はこうなります。
「なぜひとの固有名がつくられたのでしょうか」
 
ひと名前がないときにも、あるいはひとが言語を持つ前にも、ひとは個体を識別していたと思われます。それは猿も同様です。
 
  ⑧猿は、群れの中の個体を識別しています
 
これは、群れに新しい猿が来た時に、彼らの行為が変化すること、緊張しているように見えること、などから、観察できることです。サルの研究では、このような推論をすることに問題はないだろうと思います。しかし、認識論的に考えるときには、猿の行動の観察から、⑧を結論することには、大きな飛躍があるように思われます。
 
この⑧は、次の⑨を想定しているように思われます。
 
  ⑨猿は、群れがあることや、群れが多くの猿からなることを理解しています
 
まずこの想定を、どのように理解すべきかを考えたいと思います。
 
「そもそも、世界には何が存在するのでしょうか」
これは難しい問いです。世界は、素粒子からできています。世界は原子からできています。もしこれらが正しのだとすると、机は存在するのでしょうか。それは素粒子の集まりに過ぎません。素粒子が存在することと、机が存在することの間には、一枚のトランプカードが存在することと、トランプの一セットが存在することのような違いがあります。これと同様に一匹の猿は、素粒子の集まりであったり、細胞の集まりであったり、臓器の集まりであったりします。また生物の個体の集まりが、生態系であり、生態系もまた存在します。では、何が存在すると言うべきなのでしょうか。しかしここでは存在論の問題はさておいて、とりあえず、素粒子も、細胞も、臓器も、猿の個体も、群れも、生態系も、存在するといっても良いことにしましょう。
 
次に問題になるのは、「猿が、世界の中から、何を存在しているものとしてを取り出すかは、どのようにして決まるのでしょうか」ということです。センサー付きのコンピュータが、「あなたの見える世界には何がありますか」と問われた時に、どのように答えるかは、それがどのような概念枠組みで世界を記述するかに依存するでしょう。同様に、ある生物が、世界をどのように捉えるかは、その認識能力と利害関心に依存するでしょう。このことは、猿でもヒトでも同様です。そして、おそらく猿について次のように言えるでしょう。
  ⑨猿は、群れがあることや、群れが多くの猿からなることを理解しています
 
この延長上で考えるとき、
  ⑧猿は、群れの中の個体を識別しています
これもまた、猿の認識能力と利害関心に基づいて成立したのだと言えます。ただし、猿が利害関心に基づいて個体を識別している、といっても、これは人間による記述であって、猿自身は、利害関心を意
識していません。なぜなら、猿は言語を持たないからです。猿について⑧が言えるようにおもえるのですが、私たちに確実に言えるのは、猿の行動について記述だけであって、その意味では、⑧もまた猿の行動の記述の言い換えにすぎない、ということになります。脳研究が進むと、猿の脳内のプロセスの言い換えだといえるようになるかもしれません。
 
幸いにも、私たちにとっての現在の問題は、言語を持つひとの場合です。ひとの場合には、本人が利害関心を意識しているといえるでしょう。
 
  ⑩ひとは、集団の中の個人を識別している。
 
これもまた、ひとの認識能力と利害関心に基づいて成立したのだと言えます。
(もし「利害関心を意識しているとはどういうことか」と問われたならば、どう答えたらよいでしょうか。<利害関心を言語で表現できるならば、利害関心を意識している>と言えます。しかし、<言語で表現できないならば、利害関心を意識していない>と言えるかどうかは微妙です。なぜなら、言語が発生するときの、利害関心については、言語で表現されてはいないが、意識されているように思われるからです。)
 
もし人間社会に言語が成立しており、個人を識別するときの利害関心が意識されているのだとすると、個々人に関する利害を言語的に表現しているのではないでしょうか。「あいつは危険だ」「こいつは仲間だ」というようにです。「あいつ」や「こいつ」は、人称代名詞ではありません。「これ」「あれ」に類する指示詞だと考えられます。
 
――――――――――― 
話が回りくどくなったので、まとめておきます。
 
「人格は何故生じたのか」
これに答えるための、ひとつのステップとして
「固有名はなぜ生じたのか」
という問いを考えることにしました。これに答えるために、まず
「ひとが、集団のなかで個人を識別するのは、どのようにしてか」
という問いを立てました。これに対して、
「それは、ひとの認識能力と利害関心に基づいて、である」
と答えました。この利害関心にもとづいた、個人識別は、例えば
   「あいつは危険だ」
   「こいつは仲間だ」
というような発言になると思われます。
 
 
 
 

社会問題の解決としての人格

 

                            今日はつかれました。

 
 
09 社会問題の解決としての人格 (20120608)
 
別の書庫で述べたように、「人格とは、問答ないし問答の連鎖である」と考えることにします。
ではそのような人格はいつ、どのようにして成立したのでしょうか。
 
問答の成立は、言語の成立と同時だと考えられます。では、人格の成立はいつでしょうか。人格を構成する問いは、現実認識と意図の矛盾から生じるとしましょう。人格が成立するには、意図「私は・・・したい」の成立が必要になります。ところで、幼児の発達段階では、自分の名前を言うことが、「ぼく」「わたし」などの一人称代名詞の使用に先立つと言われています。人格が成立するときには、名前の成立、例えば「ゆう」の成立が最初に必要であるかもしれません。「ユウは、・・・したい」という意図が成立して、初めて人格を構成する問いが成立することになります。では、人の名前は、どのようにして発生したのでしょうか。
 
猿は、すでに群れのなかの個体を識別していると思われます。だからこそ、群れの中に新しい猿が参加することがむずかしくなります。人類も、言語を使用する前から、個体を識別していたと思われます。では、人に名前を付けるようになる理由は何なのでしょうか。名前があれば、その個体について語ることが可能になります、また特定個人に呼びかけることが簡単になります。名前は、最初は、個人について語るためよりも、個人に呼びかけるために、作られたのではないかと想像します。呼びかけることが必要なのは、より迅速、正確なコミュニケーションのためでしょう。
 
個人の名前は、物の名前と同様に、集団の中でその使用が承認されることによって成立します。したがって、個人が名前を持つことは、社会によってのみ解決可能な課題です。このときの問題は、「より迅速、正確なコミュニケーションをどのようにして実現するか?」だったのでしょうか。これだけでは、理由として弱いような気がします。
 
各人が名前を持つことによって、集団は、どのように変化するのでしょうか。
 
 今日は疲れ果てて、あまりかけません。)