台風で倒れた自転車たち
11 変な論証の終わり方 (20120620)
「こいつ」「あいつ」などの指示詞、「このひと」「あのひと」などの指示詞+一般名と、ひとの固有名たとえば「ユウちゃん」の違いは、前者は持続的な人格の同一性を必ずしも前提しないということです。
しかし、人類は、言葉を使用する前に、おそらく持続的な人格の同一性を認識(?)していたとおもわれます。なぜなら、あるTV番組で、雄猿が、自分とメスザルがいるところを撮影したビデオを見て、自分を認識できず、自分が知っている雌猿が別の雄猿と仲良くしているとおもって、興奮するシーンを見たことがあるからです。もしそれのシーンが、本当にそのように理解できるのなら、雄猿は、自己の覚知はできないが、他の個体についてはある程度の長い期間持続する個体の認識ができていることになります。
したがって、人間もまた利害関心から個体を識別するようになった時、その個体を持続的な連続性をもつ存在として理解している可能性が高いと思われます。もし人間が言葉を持つ前から、持続的な個体識別をしているのだとすると、言葉をもつようになったとき、早い段階でひとの固有名を持つようになったのではないかと思われます。
もし言語が発生した原因が、自分が敵意を持っていないこと、あるいは互いに敵意を持っていないことを確認することにあったのだとすると、固有名(あるいは人称代名詞)を用いて、自分が敵意をもたないこと表明することもまた重要だったはずだからです。また言語が発生するときには、相手が言ったことがどういう意味なのかたずねたり、自分の言ったことがどういう意味なのかを説明することは、不可欠です。そのとき、単純に聞き返したり、「それは、どういうことですか」とか「それは、こういうことです」などの言い方で説明することもできるが、よりはっきりさせようとするのならば、固有名や人称代名詞で相手や自分を指示して、それについて語ることが必要になります。
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指示詞、固有名、人称代名詞の発生順序や、発生メカニズムについて、ここでこれ以上推測に推測を重ねることはやめにしたいと思います。おそらく次のようにいえるでしょう。
①持続的な個体の識別は、おそらく言語が発生する前から成立していた。
②それゆえに、言語が発生した時に、持続的な個体を指示する表現が登場した。
表現(指示詞、固有名、人称代名詞)のそれぞれが、個人では解決できないどのような問題を解決するために作られたのか、を特定することは非常に難しいことです。しかし、そのような問題を解決するために作られたことは、確実なことではないでしょうか。なぜなら、もしそうでなければ、なぜ作られたのか、あるいは仮にあるひとが作ったとしても、それがなぜ集団内で受け入れられ広まったのか、を説明することができないからです。
ということで、議論をまとめましょう。
まず次の論証を考えました。
①人格は、問答ないしその連鎖です。
②問答は、言語によって成立します。
③言語は、社会的制度です。
④ゆえに、人
格は、社会的制度の一つです。
格は、社会的制度の一つです。
⑤社会的制度は、個人(あるいは個体)では解決できない社会問題を解決するために作られた制度です。
⑥ゆえに、人格は、個人(あるいは個体)では解決できない社会問題を解決するために作られた制度です。
しかし、この⑤は断定されているだけなので、それに代えて、私たちはつぎのように言い換えることにしたいと思います。
⑤-1ひとを指示する表現(指示詞、固有名、人称代名詞)は、個人(あるいは個体)では解決できない社会問題を解決するために作られた制度です。
⑤-2人格は、ひとを指示する表現の集団内での使用によって、社会的に構成される。
以上で、課題であった⑥の論証を終わります。
(以上の論証では、「ひと」「個人」「個体」「人格」などを定義せずに曖昧に使ってしまいましたので、どこかで論証が循環している恐れはないのか、という危惧がのこります。到底厳密な論証とは言えないことを認めます。もし他のご批判があったら、ぜひお願いします。)
つぎに問いたくなる問題は、ひとを指示する表現(指示詞、固有名、人称代名詞)が成立することによって、それ以前の個体の識別はどう変化したのか、集団のあり方はどう変化したのか、ということです。群れの遊動生活や、定住生活において、ひとを指示する表現がどのような機能を持っていたのかを、あれこれ想像することもできます。
ところで、これらに答えたとしても、それで探求は終わりません。社会制度としての人格のもつ機能は、その発生の時の機能のままであるとは限りません。むしろ、社会の変化に連れて、その機能が変化したと考えられます。ニーチェがいったように、起源と本質は異なる、ということです。
人格の意味ないし機能は、例えば、封建的な儒教思想でのそれと、西洋近代の国家契約論でのそれとでは、異なります。さらにこれらは、グローバル化した現代の人格のあり方とも異なります。
これらについては、問答としての社会の分析をもっと進めたあとで、行うのが良いと思います。そこで次にいよいよ、「問答としての社会」の本論に入ろうとおもいます。