近代文学が終る理由

 
13 近代文学が終る理由 (20121202
 
 前回述べたことは、柄谷自身が述べていることです。
「小説は、「共感」の共同体、つまり想像の共同体としてのネーションの基盤になります。小説が、知識人と大衆、あるいは、さまざまな社会的階層を「共感」によって同一的たらしめ、ネーションを形成するのです」(柄谷行人『近代文学の終り』インスクリプト、45
 
では、なぜ「近代文学の終り」がやってくるのでしょうか。柄谷はつぎのように述べています。
「今日ではもうネーション=ステートが確立しています。つまり、世界各地で、ネーションとしての同一性はすっかり根を下ろしています。そのためにかつて文学が不可欠であったのですが、もうそのような同一性を創造的に作り出す必要はない。人々はむしろ現実的な経済的な利害から、ネーションを考えるようになっています。」(同書、49
 
ネーション=ステートの同一性は確立しているので、文学は役割を終えたというのです。
グローバル化によって、ネーション=ステートの有効性が失われたので、文学の有効性が失われた、とは述べていません。(柄谷もまた、どこか他のところで、このように述べているかもしれませんが、…)。
 
近代文学が終わる理由ないし原因として考えられるのは、次の3つでしょうか。(ご意見がありましたら、ぜひおねがいします。)
原因1:ネーション=ステートの同一性は確立したので、近代文学の役割は終わった。
原因2:ただし、ネーション=ステートが存続する限り、「共感」の共同性を常に維持し続ける必要があるのだとしたら、近代文学の重要度は低下するにしても、それは重要であり続けるはずである。しかし現代では、「共感」の共同性は小説よりもむしろ映画やTVのドラマやトーク番組によって維持されている。
原因3:ネーションステートの確立や維持が、現代社会の最重要の問題ではなくて、グローバリズムにどう対処するかが、最重要の問題になっているので、「共感」の共同性の確立と維持が、問題としての重要性を失った。
 
 文学の重要性が下がると文学は娯楽になる、と柄谷は言います。「文学の地位が高くなることと、文学が道徳的課題を背負うこととは同じ事」であり、「その課題から解放されて自由になったら、文学はただの娯楽になるのです」(同書46f)もしこれが正しいとすると、文学研究は娯楽研究、文化産業研究になりそうです。
 
 他方で、グローバル化の時代に必要とされる感受性や想像力を形成するという役割を文学に見ようとしている人(スピヴァク)もいます。もしこれまでと同様に、「道徳的課題」を背負ったグローバルな文学というものが可能であるとすると、文学研究はこれまでと同様に続いていくのかもしれません。