感情について2 矛盾する感情と人格

前回の発言に対して、Facebook Kim Senseiから啓発的なコメントをいただきました。
それは次の二つです。
「感情が互いに衝突するとき、私たちはそれらの違いを、客観的な仕方でどのように解決するのでしょうか。」
「もし感情が能動的であるならば、それらは合理的(つまり、広い意味で何らかの「論理」に従うもの)なのでしょうか?」
 
2つとも、私がまったく予期しなかったようなコメントで、しかもどちらも非常に重要な帰結をもたらすコメントだと思います。その帰結の1つは、人格の理解に関わります。
 
欲望と意志の違いについては、次のように語ることが一般的であると思います。
<私たちは、しばしば互い矛盾する複数の欲望を同時にもつ。例えば、美味しそうなケーキを見て食べたいという欲望を持ち、同時に、禁欲的な生活を送りたいと欲望する。あるいは、週末に、山にいきたいと思い、同時に、海に行きたいと思う。これに対して、意志については、互いに矛盾する意志を同時に持つことはできない。週末に山に行くことを意志し、同時に、海に行くことを意志する、ということはできない。>
例えば、Davidsonも行為論に関する論文のなかでこのようなことを述べていたと思います。欲望と意志をこのような仕方で区別することは、たいていの日本人にとっても受け入れられることだと思います。そして、欲望が、感情と近いものであることも、たいていの日本人は認めるでしょう。おそらくは西洋人も認めるでしょう。
(西洋史思想史や東洋思想史の中での、「欲望」と「感情」の関係についての歴史を確認する必要があります。しかし、言葉の違いという問題があるので、これはなかなか複雑な問題です。また「欲望」と「感情」という言葉の歴史も確認する必要があります。小学館国語大辞典によると、「欲望」の所出は、幸田露伴のようですから、「欲望」は翻訳語なのかもしれません。それに対して「感情」は室町時代から使われているようです。)
 
①私たちは矛盾する複数の欲望や感情を同時に持つことができる。
 We can have contradictory plural desires or emotions simultaneously.
②欲望や感情は、受動的なものである。
 Desires and emotions are passive.
③互いに矛盾する欲望や感情の原因は、人格の外部にあり、外部からの異なる影響が、異なる矛盾する感情を生じさせるのである。
 The causes of desires or emotions which are contradictory with each other are located outside of a person and different influences from outside cause different contradictory emotions.  
 
おそらく西洋では、①と②を調和させるために、③のように考えるのでしょう。
これに対して、私が前回主張したことに基づくと、日本語話者は次のように考えることになります。
 
①私たちは矛盾する複数の欲望や感情を同時に持つことができる。
  We can have contradictory plural desires or emotions simultaneously.
④欲望や感情は、能動的なものである。nt>
  Desires and emotions are active.
 
もし④をつぎのように言い換えられるとしましょう。
⑤欲望や感情は、人格の内部に発生原因を持つ。
  Causes of desires and emotions are located inside of a person.
そうすると、①と⑤から次の⑥が帰結します。
⑥人格の内部には、矛盾がある。
  Contradictions are inside of a person.
 
この⑥は日本語話者にとっては、有りそうなことです。( seems very much plausible for Japanese.) 戦後の日本、あるいはここ20年ほどの日本では、「自分探し」の本が沢山書かれ、沢山読まれています。それは、私達にとっては、「自分」というものが、西洋人の個人や主体のように確固として存在するものではないからです。私たちは常に根本の所で、自分が何かわからずに苦しんでいるところがあるようにおもいます。それは仏教の「無我」の教えとも一致します。私たちは、自我が確立していないから、自分がわからないことに困るのではなくて、無いはずの確固とした自我を求めるから苦しむのだといわれて、納得してしまう仏教文化の中に生きているのです。
 
ドイツの若い世代の人に、「ドイツ人は「自分探し」のようなことをするのですか」と尋ねた時に、彼女は「私たちは、「自分がない」ということに悩んだりはしません。私たちにとって、自分が何であるかは問題になりません。むしろ、どうやってその自分を実現するか、が問題になるのです」と答えてくれました。おそらく、このように応える彼女にとって、人格の内部に矛盾を抱えている、というようなことは考えられないのでしょう。
 
しかし、もし人格というものがあるとすれば、その人格の内部に、しかもその深部に矛盾が潜んでいる、ということは、私にはむしろ大いに有りそうなことだと思われます。
 
次回にKim Sensei のコメントに応えたいと思います。
(Kim Sensei, I am sorry, I should have written in English.)
 
 

 
 

 

理性は能動的で、感情は受動的なのか?

(写真がなくて、すみません。写真のupは時々にします。)
 
理性は能動的で、感情は受動的なのか? (20130319)
 
しばしば「理性は自発的(能動的)で、感情は受動的である」という記述を目にします。特に哲学の文献に多いのかもしれません。これは、欧米の言語の使い方にもとづく理解であると思われます。欧米の言語では、感情は殆どの場合受動形で表現されます。しかし、日本語では感情は殆どの場合能動形で表現されます。
 
  I am pleased.    私はうれしい。
  I am pained   私は悲しい
  I am satisfied.    私は満足だ
  I am annoyed     私は腹が立つ。
  I am disappointed. 私は落胆した。
 
英語でも、感情表現が自動詞の能動形で表現されることはあるでしょう。また日本語で感情が受け身で表現される事があるかもしれません。しかし、感情は、欧米の言葉では他動詞の受動形で、日本語では自動詞の能動形で表現されることことが多いようにおもいます。
 
つまり、日本語話者にとって、感情は能動的な態度なのです。
このような出発点をとると、感情に関する哲学的な議論は違ったものになってくるはずです。
 
哲学の仕事ではありませんが、ホックシールドが提唱した「感情労働」という概念があります。日本語話者にとって、私達が仕事の場面で感情をコントロールしたり、作りだしたり、抑制したり、変形したりして労働していることはほぼ自明のことですが、それは欧米の人にとっては、斬新な視点だったのかもしれません。
 
 
 
 

01 問答としての商品交換

  

                      遠近法に吸い込まれそうな職場です。
 
01 問答としての商品交換 (20130312)
 
 商品交換は、一言も話さなくてもできます。例えば、果物屋さんの店先で一個100円で売っているリンゴを一つ掴みあげて、果物屋さんに100円玉を一つ差し出せば、何も話さなくても、リンゴを買うことができます。
 しかし、果物屋さんは、一個100円という値札を、リンゴの籠に置くことによって、「このリンゴを一個100円で売ります」「このリンゴを一個100円で買いませんか」と呼びかけている。私が黙ってリンゴを一個手にとって、100円を差し出すとき、私は「このリンゴを一個100円で買います」といっているのです。商品交換は、常に問答によって可能になり、問答を伴っています。
 これは当たり前のことですが、この当たり前のことについて、すこし分析してみたいとおもいます。
 商品とは、これから交換されるもの、あるいは先行する交換によって得られたもの、として考えられた時の財やサービスのことだと言ってよいでしょう。
 商品交換とは、財やサービスの所有者(個人ないし共同体)が、自分が所有している財やサービスを相手に与えて、その代わりに、相手が所有している財やサービスを手に入れることです。(交換には、商品交換以外の交換もありますが、交換一般についての定義は難しいので、必要になったときに考えることにします。)
 貨幣とは、このような商品交換の際の媒介物で、価値尺度、流通手段、価値貯蔵の3つの機能を持つものであると、一般的に言われています。
 この3つの機能について分析したいと思います。