6 矛盾とコンフリクト (20130428)
Kim Sensei から、欲求の矛盾というより、欲求のコンフリクトというほうがよいのではないか、というコメントをいただきました。たしかに、そうです。これまでの箇所で、欲求や感情の矛盾と呼んできたものは、通常論理学で言う意味での矛盾とは異なるので、コンフリクトと言うほうが、より適切なものです。
(1)意図(あるいは、意志。ここではとくに区別する必要はないと思います)と意図のコンフリクトについて。
一人の人間が同時に実現することが不可能な二つの意図については、それらを同時に持つことは不可能です。ただし、実際には同時に実現することが不可能な二つの意図であるけれども、不可能であることを知らない場合には、それらを同時に持つことは可能です。したがって、正確に言うならば、ある人が、二つの意図を同時に実現することは不可能であると思っているなら、その人がその二つの意図を同時に持つことは不可能です。このような二つの意図を、これまでは「矛盾する(二つの)意図」と呼んできましたがが、「衝突する(二つの)意図」と呼ぶことにします。
では、衝突する二つの意図を同時に持つことができないのは、何故でしょうか。意図は、この語の意味からして、直接に行為に結びつくものだからです。同時に実現できないと考えている意図を同時に実現しようとすることは、通常の合理的な人間の場合には、不可能であるとおもいます。もし実現できないと考えつつ、それを実現しようと意図するのだとすると、それは、不合理な振舞い、あるいは自己矛盾した振る舞いだと思います。
(2)欲求と欲求のコンフリクトについて。
同時に実現することが不可能である二つの欲求を、(その人が、その不可能性を知っていようと、知っていまいと)、同時に持つことは可能です。なぜなら、欲求は、つねに直ちに行為に結びつくとは限らないからです。このような二つの欲求を、これまでは「矛盾する(二つの)欲求」と呼んできましたが、「衝突する(二つの)欲求」と呼ぶことにします。
(3)意図と欲求のコンフリクトについて
ある意図とある欲求の両方を同時に実現することが不可能であるとき、(その人がその不可能性を知っていようと、知っていまいと)、その両方を同時に持つことは不可能ではありません。なぜなら、意図は行為に結びつくけれども、欲求のほうは行為に結びつくとは限らないので、ある意図を実現しつつ、それと衝突する欲求を持つことは、可能だからです。
(4)意図と事実認識のコンフリクトについて
私たちが何かを意図するとき、意図は常に事実の認識と衝突するのです。なぜなら、意図するとは、何か(Aとします)の実現を意図することであり、もしAが実現しているのならば、それを実現しようとする必要はなくなるので、Aの実現を意図している限り、Aは実現していない(少なくともAは実現していないと認識している)のです。つまり、事実の認識としては、「Aでない」が真となります。意図の内容は、「Aを実現したい」です。このとき、「Aでない」と「Aを実現するつもりです」は、論理的には矛盾しません。なぜなら、後者は意図表明の行為遂行型発話(サールのいう行為拘束型発話(Commissives)であり、真理値を持たないからです。意図が実現された状態「A」と現実の認識「Aでない」が矛盾するのです。意図と事実認識は、「衝突する」というのがより正確です。
(5)欲求と事実認識のコンフリクトについて
私たちが何かを欲求
するとき、欲求は常に事実の認識と衝突するものです。なぜなら、欲求するとは、何か(Bとします)の実現を欲求することであり、もしBが実現しているのならば、それを実現しようとする必要はなくなるので、Bの実現を欲求しているかぎり、Bは実現していない(少なくともBは実現していないと認識している)のです。つまり、事実の認識としては、「Bでない」が真となります。欲求の内容は、「Bを実現したい」です。このとき、「Bでない」と「Bを実現したい」は、論理的には矛盾しません。なぜなら、後者は意図表明の行為遂行型発話(サールのいう表現型発話(Expressives))であり、真理値を持たないからです。欲求が実現された状態「B」と現実の認識「Bでない」が矛盾するのです。欲求と事実認識は、「衝突する」というのがより正確です。
するとき、欲求は常に事実の認識と衝突するものです。なぜなら、欲求するとは、何か(Bとします)の実現を欲求することであり、もしBが実現しているのならば、それを実現しようとする必要はなくなるので、Bの実現を欲求しているかぎり、Bは実現していない(少なくともBは実現していないと認識している)のです。つまり、事実の認識としては、「Bでない」が真となります。欲求の内容は、「Bを実現したい」です。このとき、「Bでない」と「Bを実現したい」は、論理的には矛盾しません。なぜなら、後者は意図表明の行為遂行型発話(サールのいう表現型発話(Expressives))であり、真理値を持たないからです。欲求が実現された状態「B」と現実の認識「Bでない」が矛盾するのです。欲求と事実認識は、「衝突する」というのがより正確です。
(6)問いとコンフリクト
私はこれまで、問いを、事実認識と意図の矛盾から生じるものとして、説明してきました。そして、そのつど、この「矛盾」が論理的な意味での矛盾ではないことを断ってきました。問いは、事実認識と意図のコンフリクト(衝突)から生じるというのが、より正確です。ただし問いは、事実認識と意図のコンフリクトから生じるものだけではありません。問いには事実認識と欲求のコンフリクトから生じるものもあります。
事実認識と意図のコンフリクトは、必ず解決される必要があります。しかし、私たちは日常生活でたくさんの問いを立てていますが、それらの全てに答えているわけではありません。つまり、問いを立てるけれども、答えのないままに放置している問いがたくさんあるのです。それが可能なのは、その問いが事実認識と意図のコンフリクトから生じているのではなくて、事実認識と欲求のコンフリクトから生じているということです。私たちは、多くの欲求を持ち、その多くを実現しないままに放置しています。