05 貨幣の流動性と自由な個人

 
05 貨幣の流動性と自由な個人 (20130616)
 
 封建社会というのは、おおよそ身分制の社会であり、身分制の社会とは、おおよそ生まれで身分が決まっている社会だといえるでしょう。つまり、そこに職業選択の自由はありません。また住所選択の自由もありません。結婚の自由も身分性によって制約されていたでしょう。こういう社会の中では、おそらく、個人に許された選択の自由が非常に少なかったと言えるでしょう。これらの個人の社会的な自由は、資本主義社会になって可能になったものであり、労働力や土地を含めてあらゆるものが商品として、おおよそ市場で自由に売買される社会において可能になったといえるでしょう。資本主義社会こそ自由な個人を創りだしたのです。(私は歴史研究者ではないので、このあたり全くの推測です。)
 個人の自由の核にあるのは、いわゆる「意志の自由」です。そして意志の自由の核心部分は、他行為可能性(他の行為をすることができた)にあります。この他行為可能性とは、職業選択、居住の自由、結婚の自由などの社会的な自由についていえば、多くが契約の自由と結びついています。雇用契約、賃貸契約、婚姻契約などです。そして、契約の多くが売買契約です。
自由な売買契約ができるのは、お金が何とでも交換できるからです。お金のこの流動性と個人の自由は、深く結びついています。流動性をもつお金が支配している世界だからこそ、個人の自由が成り立っているのです。
 ヘーゲルは、古代では一人の君主だけが自由であり、その後の貴族制の世の中では少数の人間が自由であり、近代国家において全員が自由になると考えましたが、資本主義社会の市民たちは、古代の王様よりはるかに自由な存在です。この自由は、資本主義社会が可能にした自由なのです。
 もちろん、お金がない人は、資本主義社会では不自由な生活を強いられます。そして、そういう人が多いことも事実です。お金がある限りで、私たちは自由なのです。私たちの自由は、貨幣の流動性とほとんど同義なのです。