おみやげ京都より来る、また樂しからずや
11 二階の欲求による意志の自由の定義 (20130807)
前回述べたことを訂正したいと思います。
前回「お金が欲しいという欲望は、パンを食べたいという欲求を満たしたいという欲望です。それは二階の欲求です」と述べましたが、これは、フランクファートが定義する意味での「二階の欲求」ではありませんでした。
フランクファートは「二階の欲求」を「ある欲求をもつこと(あるいは持たないこと)を欲すること」と定義します。これは、「ある欲求を満たしたいという欲求(ないし欲望)」とは異なります。Aさんが欲求xをもつことを欲するとすれば、Aさんはまだ欲求xを持っていないはずです。しかし、Aさんが例えば欲求x「パンを食べたい」の満足を欲するとすれば、Aさんはすでに欲求xを持っているのです。仮に欲求xを持っていなくても、パンを食べることはできますが、そのときAさんは<欲求xの満足>を得ることはできません。なぜなら、欲求xをそもそも持たないからです。
私がつぎのように言うべきでした。
「パンを食べたいという欲求を満たすために、お金が欲しいと欲望する」ということは、「お金が欲しいという欲求をもちたいと欲する」という二階の欲求が実現することによって成立する事態です。したがって、ここにはもはやこの二階の欲求はありません。
以上が訂正です。
さて前回の繰り返しになりますが、物への欲求があるなら、それを手に入れるためのお金への欲求は、二階の欲求の実現によって成立します。逆に、もしお金への欲求がすでにあるならば、それを手に入れるための(労働などの)行為への欲求は、二階の欲求の実現によって成立すると言えます。
殆どの人は、前者のお金への欲求はすでに持っているので、お金への欲求を持ちたいという欲求は、すでに実現しています。多くの人が、お金に関係して通常持っている二階の欲求は、後者です。ある目的のために、やりたくないことをやらなければならないとき、人は二階の欲求をもつことになります。
フランクファートは、行為の自由との類比にもとづいて、意志の自由を定義します。彼によると「行為の自由」とは、「人が欲していることをする自由」である。これと類比的に考えると、「意志の自由」とは、「自分が欲したいと欲していることを欲する自由」であり、「より正確には、彼には自分が意志したいと欲していることを意志する自由があるということ、あるいは、自分の欲する意志をもつ自由があるということ」である。「意志の自由についての問いは、その意志が、彼がもつことを欲している意志であるかどうかに関わる。」(邦訳、116)
フランクファーとの「自由な意志」の定義は、次のように説明できるでしょう。
<「欲求xを持つことを欲する」という二階の欲求があって、それによって(それが原因となって?)欲求xを持つことになったとき、そのような欲求xは、「自由な欲求(意志)」である>
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したがって、お金を稼ぐために、「労働への欲求xをもつことを欲する」という二階の欲求をもつ生真面目な労働者が、実際に労働への欲求xをもつようになったとき、その欲求は自由な欲求(意志)です。
なんだか、悲しい自由です。