森のなかは涼しいです。今日は大阪に戻りましたが、また森のなかに戻ります。
14 「内面」の登場と「近代家族」の「愛情」(20140828)
近代における生活と労働と教育の分割、個人が複数の役割を生きることによって、それらを一つにまとめるために個人の内面が生じたのではないかと推測する。「近代家族」にとって夫婦や親子の「愛情」による結合が重要になったと言われることもまた、生活と労働と教育の分割が原因になっているのだと思われる。つまり、役割分割による家族の分離を補償するものとして「愛情」が必要になったのだと思われる。もちろん、生活と労働が分離することによって、大家族から核家族に変化したこともその一因であろうが、それだけでは「愛情」の重視を説明できない。ルネサンスに描かれ始める愛らしい子どもや女性の表情は、「愛情」の重視の現れである。ルネサンス期の肖像画や自画像は同時に個人の「内面」を描こうとしている。
ところで、役割分割は更に進み、分人主義に行き着いている。このことは、「近代家族」の崩壊と結合しているに違いないが、どのように結合しているのだろうか。役割分割が分人化にまで進んだ背景には(以前に述べたように)社会の多元化があるのだとすると、「近代家族」の崩壊の背景にも社会の多元化があるのだろうか。「近代家族」の崩壊は、「無縁社会」と関係し、「無縁社会」は社会の多元化と関係している。グローバル化のもたらす厳しい競争が、人間関係をすりつぶし、家族を破壊し、無縁社会を作り出し、個人を分人化させ、分人としてかろうじてアイデンティティを保持しているのだだろうか。分人主義にはポジティヴな側面もあると思うのだが、現代日本ではそのネガティヴな側面ばかりが目についてしまう。
分人主義は、「私とは何か」への答えになりうるのだろうか?
平野啓一郎は、「私とは何か」の問いへの答えとして、分人主義を提案した。しかし、それは答えになりうるのだろうか。確かに複数の異なる分人を生きている人に、「対人関係ごとに見せる複数の顔が、すべて「本当の自分」である。」「たった一つの「本当の自分」など存在しない。」ということが救いになるのかもしれない。
しかし、それでも自分がどのような分人を行きており、それら複数の分人の関係を調整する必要があるのではないだろうか。それとも複数の分人の関係を調整することが必要だと考えることが、そもそも唯一の「本当の自分」があると考えることに由来する間違いなのだろうか。
子どもたちが教室で割り振られたキャラを演じようとしたり、演じることを強制されたりする、という斉藤環の指摘(斎藤環『承認をめぐる病』日本評論社)を読むと、教室でのキャラを「本当の自分」だと考えられる子どもたちはむしろ少ないのではないか思われる。そのような子どもたちには、複数の分人の調整が必要になるだろう。
逆に次のようにも言えるだろう。現代社会における分人化の進行によって、自分とは何かという問いに答えることは、より困難になり、より切実なものになってきたと言えるのではないか。分人化が「自分探し」ブームの原因になっているのではないか。