04 Nagarjunaの答え?

04  Nagarjunaの答え? (20150608)

仏教の「空」の思想を展開したといわれるNagarjunaの中論Middle Wayの答えは、おそらく次のようなことである。

<もしすべてのものが空ならば、生滅や因果関係ということはなく、輪廻転生ということもなく、四聖諦も成立しなくなるだろう>というような中論への反論は、それは「空」の中途半端な理解に基づくものである。実体として存在するものについては、その変化や因果関係を説明できない。変化や因果関係は、むしろ空によって理解可能になるのである。このことは、自我についても同様であり、もし自我が実体として存在するのならば、それの生滅を説明することはできなくなる。自我が生滅することは空によって説明可能になるのである。(参照、『中論』「第24章 4つの優れた真理の考察」(中村元『龍樹』 講談社学術文庫、378-384, Fundamental Wisdom of Middle Waytranslation and commentary by Jay L. Garfield, Oxford UP

 

ここで仮に、変化を説明するには、何らかの意味で空を認めなければならない、ということを認めたとしよう。このとき問題となるのは、そのときの空をどう理解したらよいのかである。Nagarjunaは空についてポジティヴには語らないので、隔靴掻痒である。

「業と煩悩が滅びてなくなるから、解脱がある。業と煩悩は分別思考から起こる。ところでそれらの分別思考は形而上学的論議(戯論)から起こる。しかし戯論は空においては滅びる。」(第18章5 『龍樹』p.364

もしこれが<分別思考(conceptualthought)のあるところ、五薀や煩悩や業が生じ、煩悩や業の主体である自我も存在する。しかし、空において分別思考は消え、自我も消える>という意味であるとしよう。そして、これが「世俗の覆われた立場での真理(a truth of worldly convention 」と「究極の立場からの真理(an ultimatetruth)」(第24章8、『龍樹』379MiddleWay, 68)に対応するのだとしよう。このとき、<自我や苦や煩悩や業や縁起や輪廻転生が成立するのは、分別思考にとってであり、空においてはそれらは存在しない>ということになるだろう。

この場合、苦や輪廻転生から解脱するとは、分別思考から、空の立場に移ることである。六道とは別の世界があって、そこへ移ることではなくて、六道が実は存在しないと知ることである。

 このとき、前述の部派仏教の矛盾は、どう解決されるだろうか。

部派仏教では、自我は五薀から構成されたものであり、実体としては存在しない。k彼らにとって「無我」とはそういう意味である。しかし五薀は存在し、その限りで十二支縁起から逃れることもできない。そうだとすると、自我の構成がなくなることはなく、苦を滅することも原理的に不可能になる。
これに対して、龍樹を含む大乗仏教は、五薀もまた、本当は存在せず、空である(「色即是空、空即是色」)と考えて、この矛盾を解決したのだといえそうだ。