03 学問の意義(第二の有用性)(20190619)

前回述べたように、学問は、ある目的を実現するという有用性(第一の有用性)だけでなく、その目的を理解し正当化するという有用性(第二の有用性)をもつだろう。そして、人文社会科学は、自然科学より以上に、この第二の有用性にかかわっている。

学問研究は、多様な目的の実現に役立つ。自然科学は、例えばロケットを作ることにも役立つ。そしてロケットを作ることは、より上位の様々な目的をもつ。それはミサイルを作ること、人工衛星をあげること、宇宙基地を作ること、月にゆくこと、など無数にあるだろう。ある自然科学研究が一つの目的にしか役立たないということはあり得ない。自然科学と工学によって何かが実現したとすると、それは多くの他の目的の実現にも役立つ。自然科学の成果は、汎用性を持っている。

ある自然科学研究の成果は、他の自然科学研究にも役立つ。物理学の研究は、化学の研究や生物学の研究にも役立つだろう。さらに、自然科学の成果は、社会科学、人文学の研究にも役立つだろう(例えば、炭素の同位元素による年代確定が、考古学に役立つ)。

学問研究の成果は、一方では他の学問研究に役立ち、他方では学問研究以外の目的にも役立つ。これは、社会科学にも、人文学にも成り立つだろう。

歴史学は、領土問題や戦争責任問題の解決に役立つだろう。女性史研究は性差別の撤廃に役立つだろう。制度史死や思想史は、現在の制度を理解し、改良するのに役立つだろう。「人権」や「プライバシー」の概念やそれにかかわる制度がいつどのように成立したのかを知ることは、人権やプライバシーに関する問題を解決するのに役立つだろう。学校制度の歴史を知ることは、現在の学校制度を理解し、改良するのに役立つだろう。

漱石の研究は、西洋文明にであった非西洋の知識人の反応の研究に役立つだろう、また非西洋における西洋文学の受容、生産の研究に役立つだろう。日本の近代史の研究に役立つだろう。現代小説の理解にも役立つだろう。このように人文学研究もまた汎用性を持つ。

人文学研究は、他の人文学研究に役立つことが多く、学問外の利用は自然科学に比べて少ないと思われているかもしれないが、そうではない。私たちの日常生活は、歴史的社会的に形成されたものであり、経済システムや政治システムや学校制度などは、私たちにとって常識となっている人文社会学的な知識によって構成されている。民主主義や試験制度や免許制度や選挙制度などについての常識的な知識なくして、日常生活はなりたたない。そして、日常生活への信頼は、常識的な人文社会学的知識の吟味によって正当化されている。それゆえに、日常生活を維持し、理解し、修正し、正当化するために、人文社会学は不可欠である。

人文社会科学が社会の役に立たないと思っている人がいるとすれば、その人は、社会についての常識的な理解が、(この理解によって社会が構成されているのだから)つまりは社会そのものが、人文社会科学の成果によって構成されていることに気づいていないのである。例えば、西洋近代に登場した民主義の理論や憲法の理論や国家論などがなければ、現在の社会はなりたたない。それは、電気の理論がなければ、現在の電化生活が成り立たないのと同様である。

最後に述べた人文社会科学の第一の有用性が、このようなものであるとすれば、第一の有用性と第二の有用性の区別は、自然科学では明確であるが、人文社会科学ではそれほど明確ではない。例えば、民主主義の研究は、社会をより民主的なものにするという目的の実現に役立つだろう。しかし、「民主的な社会とはどのような社会なのか」に答えなければ、この目的を実現できない。そして、この問いに答えることは、「民主主義とはなにか」「それをどう正当化するか」「それをどう評価するか」という問いに答えることと密接に関係している。民主主義の研究に関しては、第一の有用性と第二の有用性を明確に区別することが難しい。

人文社会科学研究では、その研究対象が政治システムであれ、経済システムであれ、文化システムであれ、研究対象そのものが価値判断で構成されていることがおおく、事実認識と価値判断を明確に区別することが困難な場合がおおい。

この二つの有用性の区別が難しいと言うことが、自然科学に関しては、科学と技術が区別されることが多いのに対して、人文社会科学ではそれに対応する区別がほとんどなされないことに表れている。政治学と政策学、経済学と経営学、などの区別は曖昧で或る。(原理的には、自然科学においても、科学と技術の区別は困難である。)

02 学問の意義(有用性)(20190612)

(6月12日にupしたつもりでしたが、されていなかったので、upします。)

学問の有用性とは何だろうか?

第一に、それは学問が何かの目的を実現するのに役立つということである。

自然科学は、例えばより便利な道具を作るという目的に役立つ。医学は、例えば病気を治すという目的に役立つ。経済学は、経済活動の予見やコントロールという目的に役立つ。法学は、法制度の研究とそれに基づく改訂を通して、公正な社会の実現という目的に役立つ。歴史学は、現在の社会の成立過程の研究を通して、未来社会の予見とコントロールに役立つ。芸術研究は、芸術の歴史研究をつうじて、未来の芸術の創造とコントロールに役立つ。哲学は、これらの諸学問の基礎的な概念の分析や方法を分析して、諸学問の改訂や正当化に役立つだろう。

 多くの場合、目的はより上位の目的をもつ。哲学がこれらの諸学問の目的に役立つとするとき、諸学問の目的はさらにより上位の目的を持つだろう。自然科学が、たとえば便利な道具を作るという目的をもつとき、便利な道具をつくることは、生活をより快適にするというより上位の目的を持つだろう。生活をより快適するというその目的はさらにより上位の目的をもつだろう。

学問を有用なものとするこれらの目的のより上位位の目的を遡っていけば、何に行き着くのだろうか。おそらくは、社会が存続する目的、人間が生きる目的、人類が存在する目的などに行き着くだろう。では、社会や人間や人類は、何のために存在するのだろうか。学問もまた、究極的にはこの目的のために有用なのである。

 「社会や人間や人類は、何のために存在するのだろうか」というこの問いは哲学的な問いである。なぜなら、この問いは、学問の有用性を考えるときに普通に考える問いより深く広い問いだからである。従って、この問いに答えることは、哲学の仕事である。

この問いに答えることもまた、有用性をもつだろう。たとえば「社会が存続する目的は何か」に答えられたならば、その答えは社会の存続に役立つだろう。「人間が生きる目的は何か」に答えられたならば、その答えは人間が生きることに役立つだろう。「人類が存在する目的は何か」に答えられたならば、その答えは人類の存在に役立つだろう。なぜなら、これらの目的がわからなければ、社会の存続や、人間が生きることや、人類が存在することのための活動の意味や動機が失われるからである。

しかしこの有用性は、ある目的の実現に役立つという通常の意味の有用性とは異なっている。この有用性は、社会や人間や人類の活動や存在を理解し正当化するに役立つという有用性である。目的の実現に役立つという有用性ではなく、目的を理解し、目的の実現を正当化するのに役立つという有用性である。

学問には、このような意味の有用性もある。次にこの第二の意味の有用性について考えよう。

01 学問の意義(知的好奇心) (20190602)

イメージ 1

学問の意義は(哲学であれ、自然科学であれ、人文社会科学であれ)、知的好奇心を満たすこと、および有用性にあるだろう。

知的好奇心とは、「・・・を知りたい」という欲望である。しかし、「長生きするための方法を知りたい」とか「お金儲けの方法を知りたい」というのは、普通は知的な好奇心とはいわない。なぜなら、それは「長生きしたい」とか「お金を儲けたい」という欲望から生じる欲望であり、「長生きしたい」とか「お金を儲けたい」という欲望を実現するのに有用だから、それを知りたいと思っているからである。知的な好奇心とは、単に知るという喜びのために、知を求めることであって、何かの実現のために何かを知ろうとする欲望ではない。

では、ドラマを見ていて「この後どうなるのか知りたい」と思う場合はどうだろうか。その後のストーリーを知っても何かの役に立つわけではない。では、このような欲望は、知的好奇心だといえるだろうか。普通は、このような欲望もまた、知的好奇心とは呼ばない。なぜなら、知的好奇心は、世界についての真理や事実を知りたいという欲望であるのに対して、ドラマは虚構であり、「この後どうなるのか」の答えを知っても、それは虚構の中の出来事についての知識だからである。

では、世界についての事実と虚構との中間であるように思われる、詰め将棋の答えや数独の答えを知りたいという欲望はどうだろうか。これらは知的好奇心だろうか。その答えは、将棋の世界や数の世界の中での真理である。将棋のルールや数学や論理学の規則は、私たちの取り決めによって構成されたものである。その限りにおいて、ドラマの中の出来事と同じである。自然科学もまた、構成されたものである。理論の内部でしか何が存在するか、何が真理であるか、何が事実であるか、を語れない。内部実在論(世界に何が存在するかは、一定の理論の内部でのみ語ることができる、とする立場)において、構成主義的に科学を理解するとき、ドラマに対する「この後どうなるのだろうか?」という好奇心も、科学的な好奇心も、原理的に区別できないことになる。このように考えるとき、ドラマについて「この後どうなるのか知りたい」という欲望もまた、知的好奇心の一種だといえるかもしれない。

知的好奇心がこのようなものであるとして、このような知的好奇心はなぜ生じるのだろうか。あるいは、そのような知的好奇心は、本当に存在するのだろうか。フロイトは真理への愛というようなものを否定した。そこには隠された欲望が働いているということになるだろう。フロイトならば、知的好奇心を満たすことが哲学の意義であるという主張を否定するだろう。

もし学問の意義の一つが、知的好奇心を満たすことだと考えようとするならば、「知的好奇心があるのかどうか」、「あるとすれば、それはなぜあるのか」、「それはどのようなときに生じるのか」などに答えなければならない。しかし、これらに答えるにはまだ準備が足りないので、とりあえずは、学問のもう一つの意義だと思われる「学問の有用性」のほうから考えることにしよう。「学問の有用性とは何だろうか?」