05 哲学の意義(20190713)

先日、植木屋さんのおかげで大変きれいになりました。

05 哲学の意義(20190713

残念ながら「ノイラートの船」の議論が有効で有る限り、私たちたちは、自然科学も人文社会科学も基礎づけることはできないし、その第一の有効性も第二の有効性も基礎づけることはできない。

今言えそうなことは次の二つである。

一つは、学問の基礎付けにかんする懐疑論や懐疑論批判の議論は、哲学の仕事であるということである。学問の意義に関するこうした原理的な議論は、哲学の仕事であり、それに意義があるとすれば、それは哲学研究の意義の一つである。

 二つ目は、(第二の有効性についての議論に限らず)原理的な基礎付けができず、かと言って、全面的な懐疑に身を委ねることもできないとしたら、とりあえず試みるべきことは、個別的な提案の正当化であろう。

「書庫(カテゴリー)」の説明文で次のように述べた。

「哲学とは、普通よりもより深くより広く問うことだとすると、普通よりもより深くより広く問うことの意義はなにだろうか?たとえば、哲学研究では、「世界には何か存在するのか?」「知識とはなにか?」「価値とはなにか?」などを問うが、これらの問いを問うことの意義は何だろうか。」

これらの問いを問うことは、どんな目的のためなのだろうか。カントならば、「人間とは何か」を知ることが哲学の目的だと言うかもしれない。そして、「人間とは何か」を問う目的は、「人間は何のために存在するのか」を知ることかもしれない。

私の現時点の暫定的な提案:

<哲学の(あるいは哲学を含めた人文社会科学の)意義は、「人間とは何か」と「人間は何のために存在するのか」という問いを問うこと、およびその答えを得ることにある>

これらの問いの答えを得ることに意義があるだろう。そして仮にこれらの問いの答えが見つかっていないとしても、その答えが見つかる可能性があるかぎり、これらの問いを問うことにも意義があるだろう。

この提案の正当化

私個人としては、「人間とは何か」や「人間は何のために存在するのか」を知ることに劣らず、「世界には何か存在するのか?」「知識とはなにか?」「価値とはなにか?」を問うことそのものにも意義があると考える。しかし、人々の税金を使用して哲学研究することの意義を説得しようとするならば、たとえば「「知識とは何か?」を問うことになぜ税金を使用するのか?」と問われたとき、うまく答えることができない。しかし、「人間は何のために存在するのか?」を問うことであれば例えば、次のように説明できるだろう。

<あなたは何のために税金を払うのでしょうか?それは、あなたの住む国家や地方公共団体が、あなたの生活を守り、幸せに生活することや、よく生きることに役立つようにするためでしょう。その目的を実現するためには、「人間は何のために存在するのか」に答える必要があります。>

科学技術研究によって生活が便利になったり経済発展したりするならば、それに税金を使うことを国民は支持するだろう。人文社会学研究によって、社会がより民主的、自由、平等、になるならば、それに税金を使うことを国民は支持するだろう。これと同様に、

哲学によって、「人間とは何か」や「人間が存在する意味は何か」(この問いは、「人生の意味は何か」「人類の存在の意味は何か」などの問いに書き換えることもできる)に答えられるならば、それに税金を使うことを国民は支持するだろう。

04 学問の意義(「ノイラートの船」人文社会科学バージョン)(20190701)

先日、キュウリとトマトを植えました。楽しみです。

#前回の復習

前回のupは曖昧だったので、整理しておきたい。学問の有用性は、ある目的を実現することに役立つという第一の有用性と、その目的を理解し正当化を行うという第二の有用性に分けられることを前々回指摘した。これを受けて、前回は第二の有用性について説明しようとしていた。しかし、その過程で、自然科学ではこの二つの有用性を簡単に区別できるが、人文社会科学ではこの二つの区別が曖昧になることに気づいた。その理由をとりあえず2点あげることができる。

第一に、自然科学の研究対象は、自然科学研究とは独立に存在しているのに対して、人文社会科学の研究対象(社会、文化など)は、人文社会科学とは独立に存在していない。人文科学研究がなければ、現在の社会、文化などは成立していないということである。たとえば、民主主義は、民主主義についての思想から独立には成立し得ない。たとえば、貨幣制度は、狭い意味の経済学が学問領域として成立する以前から成立しているが、貨幣制度は、交換的正義の思想から独立には成立しない。交換的正義に関する研究は、経済学の発生以前から、哲学や伝統的な宗教の中にもあった。

第二に、自然は、目的や価値なしに成立している(これは近代科学的な自然理解であるが、いまはこれを採用しておく)が、社会や文化は、目的や価値判断を不可欠な要素として成立しているということである。人文社会科学は、社会や文化を構成する目的や価値判断もその研究対象とする。たとえば、ある社会学研究が持続可能な社会の実現のために有用であるとしよう。このとき、その目標(持続可能な社会)が、社会の目標でもあるとき、この社会の目標は、社会学の研究対象となる。

(この第一の理由と第二の理由は、密接に関連していて、その区別は曖昧であるかもしれない。)

#「ノイラートの船」の人文社会学バージョン

社会が、学問によって構成されているとすると、学問は社会の一部である。したがって、社会の目標について検討し、その正当化を行おうとするとき、私たちは社会の外に出て、それらを行うことはできない。

ここで、科学哲学で議論される「ノイラートの船」が思い出される。ノイラートは、プロトコル言明による科学の基礎付けを批判して次のように言った。「決定的に確立された、純粋なプロトコル言明を科学の出発点とすることはできない。ターブラ・ラサは存在しない。公海上で船を造り直さなければならない船員と同じように、それをドックのなかで解体したり、最良の材料を用いて新たに建造したりすることは決してできないのである。」(ノイラート「プロトコル言明」竹尾治一郎訳(『現代哲学基本論文集 I 』(坂本百大編、勁草書房)p. 169)観察報告のような言明も、他の言明に依存しており理論負荷的である。それゆえに、「ターブラ・ラサ(白紙)」の状態から出発することはできない。

これは、科学の基礎づけないし正当化を巡る議論であるが、これと同じことが、人文社会科学についても言えるだろう。社会の目標について検討し、それを批判したり、正当化したりしようとしても、私たちは、社会という船の外に出て、船をチェックしたり修理したりすることはできない。

 では、学問にとって第二の有効性は可能なのだろうか? あるいは、どうしたら可能なのか?