ある一群の前提から論理的に導出可能な結論は、常に複数ありうる。しかし、現実の推論では、その中から一つの命題が結論として選択されている。この選択によって推論は、現実の物となる。では、この選択はどのように行われるのだろうか。この選択について、従来の論理学は何も説明していません。
この選択は、問いに対する答えとなる命題を結論に選ぶことして行われているのではないだろうか。私たちが推論するときには、何らかの目的があるだろう。その目的は、真なる記述を手に入れることや、適切な命令や依頼を決定することであったり、適切な約束を決めること、などであるだろう。こうした目的は、問いに対する答えを求めることとして理解できる。したがって、推論は、問いに対する答えを求めるために行われているといえるだろう。そこで、<現実の推論は、問いの答えを求めるプロセスとして成立する>というテーゼを提案したい。
問いQを理解するということは、どのような発話がその答えとなりうるかを理解することである。もしどんな発話が答えとなりうるのか分からなければ、問いを理解しているとはいえないだろう。(そこで、問いQの意味を、それの答えとなりうる命題の集合で定義しようとする研究者(Hambling)もいる。ただし、私はそのような定義を採用しない。なぜなら、ある問いの答えとなりうる命題の集合を、具体的命題の枚挙や、条件の列挙によって、決定することは、不可能だからである。問いQの意味についてどう考えるかは、後日説明したい。)
問いQの答えとなりうる(と分かっているものの)命題の集合が、{A1, A2, A3…}であるとしよう。他方で、rとsから論理的に結論として導出可能な命題の集合が、{p1、p2、p3・・・}であり、かつ、A2=p3とき、問いQを問う者は、r、s┣p3という推論に基づいて、Qの答がp3であると考えることになる。
「考えるとは、どういうことだろうか?」という問いに対して、おそらくは「考えるとは、問い答えることである」とか、あるいは「考えるとは、推論することである」と答えることが多いだろう。では、「問答すること」と「推論すること」はどう関係しているのだろうか。その答えが、ここで述べたことです。