[カテゴリー:問答と懐疑]
ここからローカルな懐疑について考えたいが、ある主張を疑うことと、ある主張を批判することは同じだろうか。
命題pの主張を疑うことは、「pは真であるか?」と問うことであり、場合によっては、「それは真ではないかもしれない」「それはおそらく偽であるだろう」などの推論をともなう。それに対して、命題pの主張を批判することは、「pは真ではない」と主張することである。
ある主張の懐疑を経て、場合によっては批判に至ることがある、という仕方で懐疑と批判は関係している。その意味では、懐疑は批判に先行するプロセスである。
批判は、ある主張が偽であることを主張することなので、「全面的な懐疑主義」とは相いれない。批判に先行するのはローカルな懐疑である。
ところで、ローカルな懐疑とは異なるものとて、「ローカルな懐疑主義」というものを考えるならば、それはどのようなものになるだろうか。それはおそらく、ある対象(ないしあるクラスの対象)についてのある種の主張について、その真理性(適切性)を問うだけでなく、その真理性(適切性)については、不可知である主張する立場になるだろう。
例えば、現象の背後にある「物自体」について、それがどのような性質を持つかを知ることはできないと主張することは、ここにいう「ローカルな懐疑主義」である。また、物自体がそもそも存在するのかどうかについて、不可知だと主張するのも、ここにいう「ローカルな懐疑主義」にあたるだろう。人生の意味は不可知だと主張するのも、「ローカルな懐疑主義」にあたるだろう。
まとめると、
・懐疑は批判に先行するプロセスである。
・ローカルな懐疑とローカルな懐疑主義を分けることができる
ところで、ミュンヒハウゼンのトリレンマを用いて、全面的懐疑主義を論証しようとすると、前回のべた3つの反論が持ち上がるが、ローカルな懐疑主義(特定領域の全ての命題や、特定の命題についての懐疑)を主張することに対しては、この3つの反論は無効である。つまり、ミュンヒハウゼンのトリレンマは有効であるように見える。
ます、ローカルな懐疑およびローカルな懐疑主義と、ミュンヒハウゼンのトリレンマの関係を考えてみよう。