[カテゴリー:『問答の言語哲学』をめぐって]
いちろうさん から2022年3月15日に沢山の質問をいただきました。丁寧に読んでくださり、ありがとうございました。少しずつそれに答えてゆきたいと思います。
#質問1は次の通りです。
「質問1 世界哲学の日のイベントでの朱さんの指摘は興味深かったです。
僕は、朱さんの指摘とその後の入江さんのブログから次のようなことを考えました。このような理解でよいのでしょうか。
①ブランダムはどこまでも推論にこだわり、認識を推論の中に取り込むことで、世界の認識という認識論的な問題を無効化しようとしている。(実際にはブランダムに要素主義的な残滓があり、不徹底だとしても。)
②入江さんは、推論で全体論的な大方針を示し、そのうえで要素主義的なアプローチも認めるという両面作戦を展開しようとしている。だから真理条件意味論的に真偽(妥当性・非妥当性)を判断することも認め、世界の認識(世界と言語の対応関係)のようなものを直接的に取り込むことができている。(入江さんは、ブランダムよりも、要素主義的なことをもう少し確信的にやっている。)」
入江の回答:
①について。たしかにブランダムは、ローティの認識論批判を継承しようとしているのだとおもいます。最近のブランダムは、おそらく認識論に代わるものとして、「概念実在論」を考えているのだろうとおもいます(A Spirit of Trust(『信頼の精神』)2019)。彼は、「概念実在論」で、客観的事実とは何か、それをどう考えるべきかについて、説明しようとします。(『問答の言語哲学』やその他の私の書くものには確かに要素主義的な残滓があり、それを注意深く取り除いていきたいと思っているのですが、ブランダムにもそのような残滓があるかどうかは分かりません。)
②について。デイヴィドソンは、語による対象の指示と見えるものは、実際には、その語を含む文の発話によって行われているので、語が対象を指示するということはないと考えます(デイヴィドソンの論文「指示なき実在論」)。私は語による対象の指示と見えるものは、文の発話ではなく、問答によって行われると考えます(例えば「マダガスカルはどれですか」「あれです」のように)。このような仕方で、言語の意味に関する要素主義を批判できるだろうと考えています。
#いちろうさんからの質問2は次です。
「質問2 関連しますが、勝手な先読みかもしれませんが、入江さんは朱さんに対して、自分のアイディアは問答主義ではなく問答推論主義だ、と応じていられましたが、もし僕の理解が正しいとすれば問答主義でもいいような気がします。なぜなら入江さんはブランダムの規範的語用論と推論的意味論という二つのアイディアの間にも、相互依存性というか問答性のようなものを読み込んでいるように思えるからです。(入江さんがやっている全体論と要素主義の両面作戦とは、問答的な両面作戦でもあるということです。)もしそうだとしたら、問答というアイディアは推論というアイディアを大きく超えてしまっているような気がします。そのあたりは僕の誤読でしょうか。」
入江の回答:
大変好意的に捉えていただいてありがたいです。私は「問答推論主義」という用語について、推論は問いに対して答えるプロセスとして成立するという立場から、(ブランダムに限らず)推論主義が主張されている場合には、それを「問答推論主義」として捉えなおせると考えています。これに対して、「問答主義」という語の使い方については、まだ迷っています。
「問答主義」という語を、問答推論主義をも含むものより広い意味で用いるようになるかもしれません。問答関係は多くの論点で重要な働きをしています。指示を可能にするのは問答です。命題の統一を可能にするのは問答です。発語内行為を可能にするのは問答です(この場合には、ブランダムが「命題主義」と呼んだものに対する対案として「問答主義」を使うことになりそうです)。推論に統一を与えるのは問答です。(これらは、『問答の言語哲学』で不十分ながら示したことです。次は次の本で示したいことです。)知識と呼びうるのは、問答です。真理は、問答関係の性質です。事実は問答関数です。
いちろうさんからの質問3は次です。
「質問3 ブランダムにも共通するのかもしれませんが、上流(問答)推論と下流(問答)推論の区別について、ちょっとイメージがわかないところがあります。上流推論は既に行われた推論なので、イメージがわくのですが、下流推論はこれから行う推論なので、その発話された時点では、下流推論は、まだ存在しない、行われていない推論ということのように思えます。推論の妥当性を判断するためには上流推論と下流推論の両方を参照する必要がある場合、その妥当性はいつ決定するのでしょうか。下流推論が実際に行われてからでしょうか。
なお、この疑問は、推論が問答推論に拡張されることで、より明確になるように思います。例えば次のような例では、発話Bの妥当性は、発話Aの適切な答えになっていること加え、発話CDという適切な問答を引き出しているという点にも依拠していると言えると思います。この場合、発話CDが終わるまでは、発話Bが妥当なものだったかどうかはわからない、ということになるのでしょうか。
(土曜の朝の夫婦の会話)
A妻 「明日はどこに行きますか。」
B夫 「明日は雨です。」
C妻 「明日、美術館は閉館日ですか。」
D夫 「明日は、美術館は開いているから、美術館に行きましょう。」
(以上は適切な場合だが、C「テレビの天気予報なんて見てないで、ちゃんと私の話を聞いて、明日のお出かけの計画を立ててよ。」という展開がありえ、この場合はBの発言は不適切なものになりうる。) 」
入江の回答:
ブランダムによれば、ある発話の意味を理解するとは、その発話の正しい上流推論と正しくない上流推論、正しい下流推論と正しくない下流推論を判別できる能力を持つということです。したがって、実際に行われた発話を理解するときに、その発話の現実に行われた上流推論とその後行われるであろう下流推論を理解することではないのです。現実に行われた推論またこれから行われるであろう下流推論も含めて、それら様々な可能な推論を正しいものと正しくないものに判別する能力がある、ということなのです。私が、発話の意味を上流と下流の問答推論関係で説明するときも、同様です。(これで疑問の解消になっているとよいのですが)。
ご質問後半のA、B、C、Dという会話の部分は、「会話の含み」の問題になり、それについては二重問答関係で説明出来ると考えています(参照、『問答の言語哲学』第二章「2.3会話の含み」)。