17 人の生存は、目的そのものである (20220509)

[カテゴリー:哲学的人生論(問答推論主義から)]

(今回の議論は、前回最後の問い「では、ある人Xの生存が、その人自身にとって、あるいは他の人にとって、価値があるとはどういうことでしょうか」への直接的な答えには成っていません。)

「全ての人は生きているだけで価値がある」と仮定しましょう。このとき、人の生存は、何かの役に立つがゆえに価値を持つのではなく、それ自体で価値をもつのです。人の生存は、何かの目的のための手段でなく、目的そのものです。

  「人の生存は、目的そのものである」

Xの生存が目的そのものであるならば、Xの生存はより上位の目的を持ちません。そうすると、Xの生存以外のものは、Xの生存のための手段となるのでしょうか。Xの活動と能力は、Xの生存のための手段となりそうです(たとえば、狩りをしたり食べ物を買ったりすることは、生存のためです)。Xの生存以外のものが人でなければ、それらもまたXの生存のための手段となりそうです(たとえば、食べ物は、Xの生存の手段となります)。しかし、Xの生存以外のものが、人であれば、その人の生存もまた目的そのものですから、それはXの生存の手段となることはありません。ただし、X以外の人の活動と能力は、Xの生存の手段となるかもしれません(たとえば、Xがレストランでコックに食事を作ってもらうことは、Xの生存の手段になります)。

 しかし、そのコックさんの生存は、Xの生存の手段にはなりません。では、二人の人間の生存の間には、どのような関係があるのでしょうか。

 XとYの二人がいるとき、Xの生存とYの生存は、一方が他方の手段になるのではなありませんし、互いに無関係でもないでしょう。前者は、今回の話の仮定によります。後者の理由は、Xの活動の目的とYの活動の目的が両立しないとき、例えば、同一の木の実をとって食べようとすること、同一の場所を住処としようとするとき、二人の活動の目的は両立不可能になるということです。他者の活動の目的を妨げることは、場合によっては他者を死に至らしめることがあります、つまり他者の生存を否定することがあります。したがって、XとYの生存は互いに無関係ではありません。 XとYが互いの生存を尊重するためには、双方の活動を制限する必要があります。

(補足:他者の活動の目的を尊重することから、他者の生存を尊重することが帰結するでしょう。なぜなら、これの対偶(他者の生存を尊重しないならば、他者の活動の目的を尊重しない)が、帰結するように見えるからです。

 しかし、他者の生存を尊重することから、他者の活動の目的を尊重することは帰結しないでしょう。なぜなら、これの対偶は成り立たないからです。つまり、他者の活動目的を尊重しないとしても、他者の生存を尊重することはありうるからです。たとえば、パターナリスティックな態度がそれです。子供を教育する場合などです。)

では、Xの生存とYの生存は、どう関係するのでしょうか。Xにとって他者Yの生存もまた価値を持つとすれば、Yもまた目的そのものです。Xの生存もYの生存も、Xにとって目的そのものです。ここで、次の3つが成立しています。

  ①全ての人の生存が、Xにとって目的そのものである

  ②Xの生存は、全ての人にとって目的そのものである。

  ③全ての人は、全ての人にとって目的そのものである。

(②は、前回最後の問い「では、ある人Xの生存が、その人自身にとって、あるいは他の人にとって、価値があるとはどういうことでしょうか」への(不十分な)答えになりそうです。)

この後考えるべきことはいくつかあります。

・③は、カントのいう「目的の国」に似ています。「目的の国」の中で目的同士はどう関係するのでしょうか。カントの「目的の国」とヘーゲルの「相互承認」は、正当化の方法が異なるだけであり、最終状態は同じものなのでしょうか。

・前々回説明した「「生存価値」の問答論的論証」は、「全ての人は生きているだけで価値がある」の論証として十分なのでしょうか。

(ここには、まだまだ多くの考えるべき論点がありそうですが、まだ整理できないので、考えが進んだら、また戻ってきます。)