[カテゴリー:問答推論主義へ向けて]
(焦点位置を最初は、下線で表示していたのですが、それが反映されないので、[ ]Fで表示しなおしました。)
(更新が遅れてすみません。拙著の執筆のために、他の論点をいろいろ考えているうちに、ここでの話になかなか戻ってくれなくなってしまいました。科研の実績報告書の締め切りとか、GPT4のことを考えたりとか、もありました。)
前回は、4種類の矛盾を、通常は、論理的矛盾を基礎に据えて、それをもとに意味論的矛盾を説明し、さらにそれらをもとに語用論的矛盾を説明し、さらにそれらをもとに問答論的矛盾刷ることが想定されるが、逆に、問答論的矛盾を基礎にして、そこから語用論的矛盾、意味論的矛盾、論理的矛盾を説明することもできると述べました。
この後者の説明順序を採用するとき、問答論的矛盾や問答規則によって、語用論的規則や意味論的規則や論理的規則を説明することになるだろうという予測を述べました。この予測を具体的に証明することがここでの課題です。
この課題には、『問答の言語哲学』第四章ですでに少し取り組みはじめていました。基本的な論理法則である同一律や矛盾律の正しさは、その正しさを問う問いに、否定的に答えることが問答論矛盾になる、ということから背理法によって説明できます。ただしこの論法は古典論理を前提するので、限界があります。(これについて『問答の言語哲学』第四章で論じました)。
そこで少し違ったアプローチで、この課題に取り組んでみたいと思います。(ブランダムが推論関係の基礎と考えていた)「両立不可能性」と「帰結」について、問答関係の観点から、説明を試みたいと思います。
まず両立不可能性について。コリングウッドは、二つの主張が矛盾することは、それらが同一の問いに対する答えである場合に成り立つと考えました。その根拠は、<命題の意味は、問いに対する答として成立する>ということと、<同一の文でも相関質問が異なれば意味が異なる>ということにあります。二つの主張が同一の問いに対する答である場合に、両立不可能性が成立するのです。
これをもう少し具体的に説明します。命題は、問いに対する答えとしてのみ意味をもつ、とすると、問答のセットが意味を持つことになります。それは、焦点付き命題です。もし二つの主張が同一の問いに対する答としてのみ矛盾するとすれば、次の二つの答えは矛盾しません。
①「[どれ]Fがリンゴですか?」「[これ]Fがリンゴである。」
②「これは[何]Fですか?」「これは[リンゴでない]F」
この二つの答えが矛盾すると考えるとき、私たちは次のように考えています。
①「[どれ]Fがリンゴですか?」「[これ]Fがリンゴである。」
という問答の答えから改めて次の問いを立て、次の答えを得ます。
③「これは[何]Fですか?」「これは[リンゴ]Fです」
こうすると、③は、上の問答セット②の問いと同じであり、③の答えと②の答えは矛盾します。文の発話の焦点は、このように別の問いを立てその答えとして同じ文の発話をおこなうとき、焦点位置を変更できます。
(「矛盾」と「両立不可能性」は厳密には異なります。pとrが矛盾するとは、pとrの真理値は常に逆になる、ということです。それに対してpとrが両立不可能であるとは、pとrが共に真となることはあり得なませんが、pとrが共に偽であることはありえます。コリングウッドは「矛盾」についてこのことを語っているのですが、「両立不可能性」についても同じことが成り立つと思います。)
次に、「帰結」について。(コリンウッドは帰結についてはこのように述べていませんが)私たちは、<ある命題が別のある命題から帰結するということが成り立つのは、それらの命題が同一の問いに対する答である場合である>と言えると思います。それを具体的に説明しましょう。
例えば、「これは銅である」から「これは電導体である」が帰結します。今仮にこの二つの発話を次の問答によって得たとしましょう。
④「これは[何]Fですか」「これは[銅]Fである。」
⑤「[どれ]Fが電導体ですか」「[これ]Fが電導体である」
この場合には、④の答えから⑤の答えが帰結するようには見えません。そこで、⑤の問答に続いて次の問答をしするとしましょう。
⑥「これは[何]Fですか」「これは[電導体]Fである」
このとき、この⑥の答えは、④の答えから帰結するといえます。上記の場合と同様に、文の発話の焦点位置については、このように別の問いを立てその答えとして同じ文の発話をおこなうことによって、焦点位置を変更できます。このようにして焦点位置を揃えるとき、二つの命題は「帰結」関係になりえます。
(ここでの「帰結」関係は、論理的帰結関係ないし意味論的帰結関係であり、因果的帰結関係ではありません。)
ここで或いは次のような批判があるかもしれません。<二つの命題の「両立不可能性」や「帰結」の関係が明示化されるためには、同一の問いに対する答えであることが必要であるけれども、それらが異なる問いの答えになっているときにも、「両立不可能性」や「帰結」の関係は暗黙的に成立しているのではないか。>
この批判について、次に考えたいと思います。