13 選択の問答論的必然性と自由のデフレ主義の関係は?(What is the relation between the necessity in question and answer and the deflationary liberty?) (20230820)

[カテゴリー:自由意志と問答]

これまで(08回から12回まで)論じてきたように、<選択は常に自由な選択であり、この自由な選択は、問答論的必然性によって生じる>としましょう。このような自由理解から、(07回に説明した)自由のデフレ主義が帰結するのでしょうか。

前々回と前回に述べたように、「Aを行うか、行わないか」という選択を意識したときには、どちらかを選択せざるを得ません。この選択が、自然な欲求や無意識の欲望によって決定しているとしても、そのことは、この選択に対する責任を免除しません。この選択は自由に行われたのです。選択せざるを得ないことを意識していて、またどちらを選択するもことも可能であることを意識していたことが、この選択を自由な選択、選択の結果に責任を負うべき選択にします。

意識している選択や行為は、すべて自由な選択や自由な行為です。行為者因果を引き起こすような不思議な力が働いて、自由な選択や自由な行為が可能になるのではありません。自由な選択は選択可能性を意識したときに、不可避に成立するのです。このような自由は、デフレ的です。

前回最後の問い「私たちが問答する限り、選択する限り、自由であるとすれば、自由は偏在するのであり、自由のデフレ主義というよりも、自由のスーパーインフレ主義と呼ぶ方がよいのでしょうか」について。

自由のインフレ主義は、選択や行為を、自由な選択や自由な行為にするものを、特別な能力や作用として理解します。たとえ自由が偏在するとしても、その場合には、その特別な能力や作用が偏在することを主張することになります。しかし、上記の自由理解では、選択や行為を自由な選択や行為にするものは、特別な能力や作用ではありません。あえて言えば、問答論的必然性ですが、これが問答が成立するための超越論的条件であり、何が特別な能力や作用ではありません。すべての問答が成立するための条件です。たしかに、問答は常に自由な問答であるので、問答の能力自体が特別な能力であると言えるかもしれません。例えば、もし<人間の探索や行為は自由であるが、人間以外の動物の探索や行為は自由ではない>と考えるならば、探索や行為を自由にするものは、特殊な能力や作用であることになります。しかし人間以外の動物の探索や行為は、見かけ上の探索や行為であって、探索や行為とは言えない物であると考えるならば、探索や行為自体が自由であり、不自由な探索や不自由な行為は存在しないことになります。次に「選択の不可避性」「問いの不可避性」とよく似たメカニズムである「指示の不可避性」や「伝達の不可避性」について見ておきたいと思います。

投稿者:

irieyukio

問答の哲学研究、ドイツ観念論研究、を専門にしています。 2019年3月に大阪大学を定年退職し、現在は名誉教授です。 香川県丸亀市生まれ、奈良市在住。