132 行為の様相概念は、実践的問答関係から作られる(Modal concepts of action are created from practical question-and-answer relationships)(20241027)

(これまで論理的概念、様相概念、規範概念が、理論的な問答関係や実践的問答関係に「内在する」と述べてきましたが、その説明では、それらの概念が問答関係に先立って成立していると述べているようにも見えます。しかし、私が提案したいことは、問いと答えの関係が明示化されることによって、論理的概念が作られるということです。例えば、「pですか」「いいえ、pではありません」という問いと答の関係を明示化しようとするとき、「否定」という概念が作られるということです。この提案をより明確なものにするには、論理的概念や論理的関係が、「問答の中に暗黙的に内在する」というこれまでの言い方はよくないようなきがしてきました。)

 

 理論的問いと答えの関係を明示化しようとするとき、「可能性」「現実性」「必然性」などの様相概念が作られることを説明しようとしました。これらの様相概念は、実践的問答にも関係しますが、その意味は少し異なります。ここでは、事実の可能性、現実性、必然性ではなく、意思決定ないし行為の可能性、現実性、必然性になります。

 「可能性」「現実性」「必然性」という様相概念は、このように二種類に区別できます。事実命題の成立の可能性、現実性、必然性などを「真理様相」と呼び、行為の可能性、現実性、必然性、などを「行為様相」と呼びたいと思います。真理様相は理論的問答から作られ、行為様相は実践的問答から作られます。

 

 例えば、次の実践的問答があるとします。

  「何にしますか」「うどんにします」

実践的問答では、答えの候補となりうるのは、現実にある事実ではなく、まだ行われていない<可能な行為>です。

実践的な問いに対する答えの候補が、「うどんにします」「そばにします」「カレーにします」であるとすると、これらはまだ実現されていない行為、<可能な行為>です。そして、これらの可能な行為のなかから、うどんを食べることを選択して「うどんにします」と答えるとき、その意思決定は<現実的な答え>あるいは<現実的な意思決定>となります。そして、現実に意思決定がなされることによって、うどんを食べることは、<可能な行為>であるだけでなく、<現実的な行為>になります。

 「うどんを食べよう」と意図決定するとき、その意図は事前意図であり、まだ行為は始まっていません。注文したうどんが、目の前に置かれたとき、私は箸をとって、うどんを食べ始めます。その時事前意図は「うどんを食べる」という行為内意図になります。事前意図が行為内意図になることは、一定の条件がそろったときには、常に(必然的に)生じます。意図決定によって、一定の条件下で、<必然的な行為>になります。

 理論的問答の場合、正しい答えは、反復して問うても常に答えとして反復される答えです。間違った答えの場合には、常にその答えがなされるとは限りませんが、正しい答えの場合には、常にその答えがなされるし、また常にその答えがなされるべきです。この意味で、正しい答えは、<必然的な答え>です。

 実践的な問答の場合、答えの候補はすべて正しい答え、つまり実現可能な答えです。それゆえに、反復して問うた時に、同じ答えが反復されるとは限りません。なぜなら、答えの候補がすべて正しいのだから、どれを現実の答えとすることも可能だろうからです。ただし、選択された現実の答えは、現実的意思決定であり、上に述べて様な意味で<必然的な行為>となります。

 実践的問いと答の関係から、可能な行為、現実的な行為、必然的な行為などの区別が生まれ、その区別を明示化するとき、行為の可能性、現実性、必然性の概念が生まれます。

 実践的問答から、規範概念がつくられることについては、次回に説明したいと思います。

131 実践的問答に内在する条件法とアブダクション (Conditionals and abduction inherent in practical questions and answers)(20241017)

(事実について問う理論的問いと答えの関係の中にすでに論理的関係が含まれているということを見てきたが、意思決定を求める実践的問いと答えの関係の中にも、すでに「否定」や「条件法」などの関係がふくまれています。「否定」については、前回見たので、今回は「条件法」について考えたいと思います。)

 #条件法の関係は、実践的問答に内在する

 理論的問いに答えるときは、問い以外の言語的な前提を用いない場合と用いる場合の二つに区別できました。前者では、問Qの前提全ての連言をΓとすると、Γ→pという条件文が成り立ち、後者では、問Q以外の前提の連言をΔとすると、(Γ∧Δ)→pという条件文が成り立ちます。この後者の場合にも、問答関係は、条件法「→」を暗黙的に含んでいます。

 実践的な問答の場合も同様に二種類のパターンに分けることができます。実践的な問いの前提以外の言語的な前提に依拠しないで答える場合と、問いの前提以外の言語的な前提に依拠して答える場合の二種類です。

 後者では、実践的推論によって答えることになります。例えば「Aを実現するために、どうしようか」という問いに、実践的推論で答えるとき、「Bするならば、Aが実現する」という形式の条件法を前提して用いることになります。この条件法は、時間的な依存関係を表現しています。それは単なる意味論的依存関係や単なる論理的依存関係ではなく、そこに時間の経過が含まれ、因果的な要素(これが何であるかが問題ですか)が含まれます。

 これに対して、前者では実践的推論の形式をとりません。例えば「うどんにしますか」と問われて「はい、うどんにします」と答えるとき、うどんを想像して、それを食べたいと感じて、「うどんにします」と答えたとしましょう。このとき、問いの前提以外に言語的な前提はないのですが、問いの前提として、「うどんを注文できる」「うどん以外にも注文できるものがある」などが成立しています。これらの前提が成立して、「うどんにします」と言うことが可能になります。ここで暗黙的に次の条件法が成立しています。「問いの前提が成立するならば、答えは正しい(答えは実現可能である)」。

 実践的問いに関して、<問いの前提以外に言語的前提を付け加えることなく答えるとき、その答えが正しい>ということは、<問いの前提にコミットするならば、結論に資格付与する>ということです。

#アブダクションは、実践的問答に内在する

 実践的問答に実践的推論で答えるとき、一般的には次のような形式をとります。「Aを実現するためにどうしようか」という問いに「Bしよう」と答えるとき、ここでは「Bしたら、Aを実現できる」という条件法を前提とした次のような推論を行っています。

  Aを実現しよう(あるいは、Aするために、どうしようか)。

  Bしたら、Aを実現できる。

  ゆえにBしよう。

具体例を挙げれば次のようになります。

   痩せるために、どうしようか。

   ダイエットすれば、痩せる。

   ゆえに、ダイエットしよう。

このような推論は理論的問答で用いられた分離則(「p、p→r┣r」)ではありません。ここでの推論は、形式的に表現すれば、

  「p、r→p┣r」

あるいは、

  「Aを実現しよう。Bを行う→Aを実現する。┣Bを実現しよう。」

となります。これは、結果から原因を推理する推論(アブダクション)です。

 このような実践的推論が正しいとは、<前提にコミットするならば、結論に資格付与する>ことだと考えられます

 実践的推論の正しさは、語や命題の意味が与えられたら、その意味だけに基づいて言えることかもしれません。もしそうならば、ある実践的推論が正しいかどうかは、理論的な問題です。もしそうだとしても、「Aを実現するために、どうしよう」の答えは、次のようにおそらく複数可能です。、

  「Aを実現しよう。Cを行う→Aが実現する。┣Cを実現しよう。」

  「Aを実現しよう。Dを行う→Aが実現する。┣Dを実現しよう。」

このように複数の実践的推論が可能であるとしたら、「Bを実現しよう」だけでなく、「Cを実現しよう」「Dを実現しよう」も答えの候補となります。これらの中から「Bを実現しよう」を選択して、実際の答えが行われています。この答えを選択することと、「Bを実現しよう」と意思決定することは同一のことです。

 実践的推論が正しいかどうかは、理論的な問題であるかもしれませんが、それを用いて行う「Aを実現するために、どうしよう」「Bを実現しよう」という問答は、実践的問答

です。

*予測誤差最小化メカニズムで行われる推論もアブダクションである。

ちなみに、理論的問答でもアブダクションは使用されます。予測誤差最小化メカニズムとは、<仮説を立て、それに基づいて現象を予測し、現実の観察された現象を比較して、差異があるならば、その差異が小さくなるよう仮説を修正する>というメカニズムです。経験的認識、理論的認識が、このメカニズムでお行われているとき、これは現象から新しい仮説を設定するアブダクションです。

#アブダクションは非単調です。

アブダクションは、実践的推論だけでなく、理論的推論の場合もあります。いずれの場合も、アブダクションは、非単調です。例えば、

  「p、r→p┣r」

このアブダクションに、s→pという前提が追加されて、

  「p、r→p、s→p┣s」

というアブダクションが行われることがあり得ます。つまり、アブダクションの場合、新しい前提が加わることによって結論が変化するということが可能です。

・理論的な問いの場合には、答えの候補がすべて正しいことはあり得ませんが、実践的な問いの場合には、答えの実行可能だと思われている意思決定が、答えの候補となります。もし実行可能だと思われる答えが正しい答えであるとするとき、実践的な問いの場合には、答えの候補はすべて実行可能だと考えられている答え、正しいと考えられている答えです。

・実践的推論は演繹推論ではなく、帰納推論でもなく、アブダクションです。実践的推論は、意思を決定するための推論である。ある目的を実現する方法は複数あるので、その中でどれを選択するかは、<自由>です。

 次回は、実践的問答において様相概念がどのようにかかわっているのかを考えたいと思います。

130 実践的問答に内在する「否定」と「矛盾律」(Negation and the Law of Contradiction Inherent in Practical Questions and Answers)(20241010)

理論的問答関係の中に、論理的語彙、論理的規則、様相概念、規範概念、などがすでに内在していることを、このカテゴリーでも、前回リンクした研究会での私の発表原稿でも論じました。そのときには、気づいていなかったのですが、同じことは、実践的問答関係、宣言的問答関係でも言えるだろうと気づきました。それを証明することが、ここでの課題です。

#実践的問答関係の中に、論理的語彙や論理的規則が内在しています。実践的問答とは、意思決定を求め、それに応える問答です。理論的問いに対する答えが正しいとは、その答えが真であるということです。それに対して実践的問いの答えは、意思決定であり、意思決定に真理値はありません。しかし、意思決定にも正/誤の区別はあります。実践的問いの答えが正しいとは、その答え(意思決定)が実行可能であることです。

 実践的問答は、例えば次のようなものです。

  「うどんにしますか」「はい、うどんにします。」

 この問答の中にすでに、否定の関係と矛盾律が暗黙的に含まれています。

#否定関係、矛盾律は、実践的問答にも内在する

  「うどんにしますか」

という実践的問いに対しては、「はい、うどんにします」と「いいえ、うどん以外のものにします」(あるいは、「いいえ、そばにします」「いいえ、カレーにします」など)という肯定と否定の答え方があります。この二つの答えの候補は、共に実行可能です。どちらの答えも、他者にとっては、正しい答えです。(もちろん、その答えが嘘の答えであること、つまり答える者が、うどんを食べるつもりがないことはありえます。それは問答の規範性の問題であるので後で論じます、)

 肯定と否定の両方の答えの可能性があることは、問い自体に含まれています。したがって、この実践的問い自体に、否定の関係が内在しており、肯定と否定の両方を同時に応えることはないこと(なぜなら、それを認めるならば、問うことは無意味になるからです)、つまり矛盾律も内在しています。(場合によっては、うどんを食べた後で、そばも食べることができるかもしれません。しかし、同時に二つを食べることは出来ません。もしできるとすれば、その場合には「うどんとそばを同時に食べる」は、第三の別の行為になります。この場合には、答えの候補には、「うどんを食べる」「そばを食べる」「うどんとそばを同時に食べるか」が含まれることになるでしょう。)

 では、ここでの否定や矛盾律は理論的問いに内在するそれらとどう異なるのでしょうか。

 

*理論的問答に内在する否定と矛盾律と、実践的問答に内在する否定と矛盾律

 実践的問答に内在する否定関係や矛盾律は、理論的問答に内在する否定関係や矛盾律と本質的に同じものであり、後者が基礎的であり、それを行為に適用したものが前者であると考えられるかもしれません。しかし、実践的問答は理論的問答に依拠して成立するのではなく、両者は等根源的です。あるいは、発生の上からすると、実践的問答の方がより原初的であるかもしれません。それゆえに、実践的問答に内在する否定関係や矛盾律は、理論的問答に内在する否定関係や矛盾律からは独立に成立したものと考えられます。この二つには、次のような異質なところがあります。

・理論的問答:「これはりんごですか」「それはリンゴです」

                 「それはりんごではありません」

・実践的問答:「これを食べますか」「それを食べます」

                「それを食べません」

 理論的問答のこれらの二つの答えも、実践的問答の二つの答えも、どちらも両立不可能です。

どちらも、二つの答えの両方にコミットすることはできません。ただし、理論的問答の場合のコミットメントは、事実の在り方についてのコミットメントであり、実践的問答の場合のコミットメントは、行為に向かうコミットメントです。

 事実へのコミットメントが両立不可能であることは、事実が両立不可能であることによるのではありません。なぜなら、二つの事実があって、その二つが両立不可能なのではないからです。一方が現実の事実であるなら、他方は可能な事実です。このような限定によって「事実」を区別するならば、現実的事実にコミットし、同時に、可能的事実にコミットすることが可能です。

 これに対して、実践的問答の肯定と否定の答えがコミットしているのは、(これから行う未来の)行為です。両立不可能なのは、(これから行う未来の)行為です。未来の二つの行為はともに可能ですが、しかしこれから同時に行うことは不可能です。

 理論的な問いに内在する両立不可能性は、現在の事実に関するものであり、両立不可能性自体も、現在の事実的な両立不可能性です(これを「理論的両立不可能性」と呼びたいとおもいます)。実践的な問いに内在する両立不可能性は、未来の行為に関するものです(これを「実践的両立不可能性」と呼びたいと思います)。。

   条件法とMPについては、次回に述べます。

129 「論理的関係は問答関係に内在する」(”Logical relationships are inherent in question-and-answer relationships.”)(20241003)

前回10月下旬に研究会での発表があると書いたのは、9月下旬の間違いでした。それは科研共同研究の中での発表でした。その時の発表原稿「論理的関係は問答関係に内在する」を私のHPにupしました(https://irieyukio.net/ronbunlist/presentations/PR49.pdf)。

次のような目次で話しました。

1 推論規則の従来の正当化の限界

2 論理的関係は、問答関係に内在する

3 様相関係は、問答関係に内在する。

4 規範関係は、問答関係に内在する。

5 規則に従うということ、論理法則への驚き

 1,2,3の内容は、このカテゴリーで話してきたことと重複していますが、その時の話より整理されたものになっています。

 全体の趣旨はこうです。まず言いたかったことは、論理規則を規約によって設定することは出来ますが、なぜそのような論理規則を設定することになるのかについての説明は従来為されていません。論理的概念やその使用法である論理規則は、問いと答の関係の中にすでに含まれている、ということです。さらに、この考えを、様相関係や規範関係にも拡張できるだろうということを断片的に示しました(こちらは、より説得力のある議論にしたいと思っています。)最後の5では、規則とそれへの気づきとの関係について書きましたが、もう少し一般的な形で拡張して議論する必要があると思っています。

 この5につづけて、最後に次のような付記をしました。

「付記:

論理的概念や推論規則といえば、世界を正しく記述するために必要なものとして理解されがちである。しかしそれは、論理的概念や推論法則にとって最も重要な働きではないだろう。しかし、そもそも言語は、群れでの共同生活のために作られてきたのだと思われる。つまり、決定疑問や補足疑問は、他者と問答するため、コミュニケーションするために作られたのだと思われる。したがってそれらに含まれる論理的関係は、他者との問答が成立するために、必要だったのであり、当初は世界についての正しい認識のために必要だったのではない。論理的規則や様相概念や規範概念は、原初的には他者との問答のなかに内在するものである。」

今回、<論理的関係や様相関係や規範関係が、問答関係に内在すること>を論じていた時、理論的な問答、あるいは認識における問答を念頭において論じていました。しかし、原稿を仕上げて全体を振り返ったときに、論理的関係や様相関係や規範関係が、内在している問答関係は、理論的な問答に限らず、他者との原初的な問答の中に内在するはずだと気づきました。そして、それらばな、実践的問答や宣言的問答にも当てはまるはずであることに気づきました。

<論理的関係や様相関係や規範関係>が、三種類問答(理論的問答、実践的問答、宣言的問答)に内在するとするとき、<論理的関係や様相関係や規範関係のそれぞれは、問答の種類が異なるとき、内容が少し異なるものになる>ということが、予想されます。もっとも違い大きいのは、規範関係であるかもしれませんが、論理的関係や様相関係でも違った内容になるだろうと予想します。

 次回から、これについて考察したいと思います。