137 「私的言語批判」の乗り越え方(How to overcome the “criticism of private language”)(20241209)

[カテゴリー:問答の観点からの認識]

前回の最後に次のように書きました。

「<規則に従うこと>と<規則に従わないこと>の区別、<規則に従っていると信じていて実際に規則に従っていること>と規則に従っていると信じていて実際には規則に従っていないこと>の区別を理解していることが必要なのではないでしょうか。これらの区別を理解していなければ、他者から指摘されても間違いに気づくことは不可能であるように思われます。」

このように書きましたが、その後、これはあまり説得的ではない、と思いました。なぜなら、このような区別を理解していなくても、他者から間違いを指摘して気づくことはあり得るかもしれないからです。

ただし、次のように言うことは出来ると思います。

「<規則に従うこと>と<規則に従わないこと>の区別、<規則に従っていると信じていて実際に規則に従っていること>と規則に従っていると信じていて実際には規則に従っていないこと>の区別を行うことは、私的に言語を用いるときにも暗黙的に行っていることである」

これは、次のように説明できます

私が、ある感覚を感じて、「この感覚は、あの時の感覚と同じだ」と考えて、カレンダーに「E」と書き込だとしましょう。このとき、「この感覚は、あの時の感覚と同じだろうか」と自問し、「同じだ」と自答したとしましよう。このように自問するとき、私は、答えが「同じだ」と「同じではない」のどちらかになることを想定しています。つまり、<規則に従うこと>と<規則に従わないこと>の区別を理解しています。さらに、この答えが、正しいこともあれば、間違いであることもありうる、と考えています。つまり、<規則に従っていると信じていて実際に規則に従っていること>と規則に従っていると信じていて実際には規則に従っていないこと>の区別も理解しています。

私たちが一人で自問自答するときには、これらを区別するだけで、どちらにもコミットしないのではなく、おそらく一方が正しいと予想していると思います。私たちは、多くの場合は、「自分が言語の規則に従っている」と想定しているでしょう。

「私は、言語の規則に従っているだろうか」「私は言語の規則に従っていない」と自問自答することは、問答論的矛盾です(これに入江幸男『問答の言語哲学』(p.233)を参照してください)。したがって、この問いに答えるとすれば、「私は言語の規則に従っている」と答えることが必然的です。言語の規則一般ではなく、カレンダーに「E」を記入する規則であれば、「私はそれに従っていない」と答えることは問答論的矛盾にはなりません。しかし、言語の規則一般であれば、私たちはたいていは、言語の規則に従っていますし、そう考えることが必然的である。

(ちなみに、ウィトゲンシュタインが『哲学的探求』で「E」の記入の規則を決めた時、またそれを私たちが理解するとき、私たちは、公的な言語の中で、私的言語のゲームの規則について、それを対象言語として説明し理解している。この構造についても考えなければならないかもしれない。)

私的言語の成立は、不確実です。しかし私たちは、ある語の定義ができたと想定して、自問自答したり対話したりできます。私たちは、知覚プロセスの場合に、モデルの設定、チェック、修正を反復しているように、語の設定の場合には、モデルの設定、チェック、修正を反復していると考えられます。

次回はこれまでの議論をまとめます。