157 語の使用における共同注意と共有基盤あるいは背景基盤)(Joint attention and common ground (or background) in word use)(20250519)

[カテゴリー:問答の観点からの認識]

これまで見てきたように、語の定義とその学習の段階では、語の使用は、<その語の前の使用を参照し、照応すること、つまり前の使用に参照し、その発話で表示していたものを表示する>という仕方で成立しています。では、このような語の学習プロセスが修了するとは、どういうことでしょうか。それは、ある語の先行する使用例を想起しなくても、その語を正しく使用できるようになるということです。では、このとき語を使用するあたって、何を参照しているのでしょうか。

 語「赤い」の使用について言えば、学習段階では、先行する「これは赤い」という正しい発話の指示対象の色を想起して、現在の「これは赤い」の正しさを、現在の指示対象の色に関して判定していたのに対して、学習修了後は、先行する個々の使用例ではなく、他のものに依拠することになります。この他のものとは何でしょうか。

 学習プロセスとは、別の観点から見れれば、教える者の理解と、生徒の理解が擦り合わせて同一のものにするというプロセスです。語の使用法を学習するとは、生徒の語の使用法の理解が教師のそれと同一のものになり、その理解を共有するということです。この学習のためには、「赤い」の使用法に対する共同注意が必要です。

#語の学習と共同注意

 大人が机の上の一個のリンゴに注意を向けているのを、幼児が見て、幼児も亦そのリンゴに注意を向けるときに、共同注意が成立します。幼児は大人の視線がリンゴに向かっていることを見て、自分もまたそのリンゴに視線を向けます。このとき、幼児は、大人と自分が共にリンゴを見ていることを理解しています。

 厳密に言えば、ここで「共同注意」が成り立つためには、大人も亦、幼児がリンゴを見ていることに気づいていることが必要であり、大人も、幼児と自分が共にリンゴを見ていることを理解していることが必要です。さらにそのことを幼児も大人も理解しており、さらにそのことを幼児も大人も理解しており、…という事態も成立している場合もあります。

 このような共同注意は、照応に似ています。独話の中での照応ではなく、対話の中での照応関係は、このような共同注意に似ています。Aが「これは赤い」といい、Bは「それは赤いですか」と問い、Aが「はい、これは赤いです」と答え、Bは「わかりました。それは赤いのですね」とAの答えを確認するとします。このような問答でBが、Aから「赤い」を学習するとき、Bが使用する「赤い」はAが使用する「赤い」を照応しており、Aがいう「赤い」が表示するものを表示しようとしています。それは丁度、幼児が大人が視線を向けるものを見ようとするのと同じです。(照応と共同注意との類似性は、固有名の学習の場合のほうがより明白ですが、普遍的対象や普遍的性質や普遍的関係を表す普遍名詞、形容詞、動詞、などの学習の場合にも、成り立ちます。)

#学習後の共同注意と共有基盤(あるいは背景基盤)

学習後の語の使用では、語の使用法はすでに共有されており、「共有基盤」(これは会話参加者に共通の背景知識である)の一部になっているので、「これは赤い」という「赤い」の使用を行うとき、「共有基盤」の中の「赤い」の一般的な使用法に依拠しているといえるでしょう。これはサールの言う「背景基盤」(これは非志向的であるといわれる)に属するのかもしれません(サール『志向性』第7章、Stalnaker, Context )。

会話の中で一方が「これは赤い」というとき、相手はその発話に注意し、両者はその発話に共同注意します。「これは赤い」や「赤い」の理解は、おそらく技能知(know how)となります。それは、「これが赤い」が成り立つ場合と成り立たない場合を判別する能力、「赤い」の使用が適切である場合と不適切である場合を判別する能力です。この理解は、会話の中で「これは赤い」が成り立つかどうかの判断、会話の中で「赤い」の使用が適切であるかないかの判断が成り立つための前提となるのものです。

語の使用法を共有することは、技能知を共有することです。言語の使用法の共有は、技能知の共有、行為の仕方の共有の一種であることになります。問答ができるということも、技能知の一種だと言えそうです。これについて、次に考えたいと思います。