(150回から、宣言の問答を念頭に置きながら、語の命名や定義の問答における照応を考えてきました。照応が非常に基礎的なものであることは予想どおりで、それがまた解明が難しいことの予想通りでした。語の定義や学習における照応の問題は、共同注意、共同基盤、背景基盤などに関係していることもわかりました。そして前回技能知との関係にも触れました。今回は、言語使用のすべての局面が、つまり規則遵守行為のすべてが、技能知に依拠することを説明したいと思います。)
言語を使用するときには、その使用規則に従わなければなりません。さもなければ、言語の使用にならないからです。言語の使用規則は、言語の構成規則であって、それに従うことで言語は成立するからです。言語を使用するためには、言語の使用規則に従わなければならりません。それは、ちょうど、将棋をしたければ、将棋の規則に従わなければならないのと同じです。
しかし、言語の使用規則に従うことは、一人ではできないおそれがあります。それが、ウィトゲンシュタインが指摘した「規則遵守問題」です。
言語行為においては、規則に従っていても、規則の表象に従っていないことがあります。例えば、日本語の「は」と「が」の区別、英語の定冠詞と不定冠詞の区別を、人々は規則的に行っているのですが、しかしその規則を明示することは難しいとされています。
このような場合には、たとえその規則を明示することが出来なくても、その規則は規範性を持っているといえます。日本語話者は、その規則に従っているときと反しているときを判別できますし、英語話者は定冠詞と不定冠詞の使い分けができます。この判別ができることは、具体的には次のような問答で確認できます。「この場合「は」でいいのですか」という問いに、「はい、よいです」とか「いいえよくないです」と正しく答えることができる。これは命題知に基づいた推論ではないので、「技能知」の一種だと言えます。この技能知があれば、私達は規則の表象を持っていないくても規則に従うことができるのです。しかし、部屋に独りでいるときには、これについて規則に従っていることと、規則に従っていると真ていることの区別が出来ないでしょう。ウィトゲンシュタインの例、ある感覚を感じたときにカレンダーに「E」と書く例は、これと同じく、規則の明示的な記述を持たない場合です。なぜならその感覚を明示的に記述できないからです。
では、規則の表象を持っている場合には、つまり規則の明示的な記述を持っている場合には、独りでいても、その規則に従っているかどうかを判定できるのでしょうか。例えば、ウィトゲンシュタインの別の例、「1000+2」の場合は規則を明示化できるのでかもしれません(たとえば、ペアノの公理系のような仕方で)。ただし、たとえ規則を明示化できても、その規則を適用する規則は明示化されておらず、技能知になっています。したがってこの場合にも、独りでは、規則に従うことと、規則に従っていると信じていることの区別が出来ません。
このことは、言語の規則の場合だけでなく、行為の規則一般にあてはまるでしょう。行為の規則を明示できたとしても、規則の適用の規則を明示できなければ、規則の適用は技能知に頼らざるをえません。そしてどのような行為でも、行為の規則、の適用の規則、の適用の規則の、…と続ければ、最終手には、明示化できない規則にたどり着きます。どのような行為であっても、行為の規則に従うことは最終的には技能知に依拠することになります。
したがって、言語の規則に従うこともまた、最終的には技能知に依拠することになります。それゆえに、独りでいるときには、規則に従っているのか、従っていると信じているだけなのか、区別できないことになります。
この「技能知」と、言語の規則の「規範性」とはどう関係するのでしょうか。それを次に考えたいと思います。