[カテゴリー:問答の観点からの認識]
(前回の話しには、曖昧な表現があったので、再説します。)
例えば、カエルは、舌を伸ばしてハエを捕まえる能力を持っていますが、そのことを意識してはいません。動物は、反射や条件反射によって、反復的で規則的行動をすることが出ますが、反復していることを意識してはいません。人間の行動には、反射や条件反射もありますが、人間の場合には、反復的で規則的であり、かつ意図的な行為があります。このような行為の場合には、行為を反復するだけでなく、反復していることを意識しています。ただし、この意図的で自己意識的な反復的な行為の中には、<規則の表象に従って行っている行為と、規則的に行っており、反復していることも意識しているのですが、その規則の表象を持たないで反復している行為>があります。例えば、「は」と「が」の使い分けのような行為です。語「赤い」を使用する時や、自転車に乗る時も、箸を使う時も、規則の表象を用いてはいません。前回考えていたのは、このような三種類の行動ないし行為です。)
ところで、この三種類の中の、中間の行為、つまり<規則の表象を伴わない規則的行為>の場合、私たちはそれをある種の技能(ノウ ハウ)として行っていると言えます。そして、技能知は反復可能であり、しかも反復であることの気づきを伴うとすれば、そこには反復性、規則性から外れたときの気づきも可能であり、そこに正しく反復べきであるという規範性が生じます。技能は成功することも失敗することもあるので、技能知の規則性の意識には、規範性の意識が生まれます。
以上は、前回考えていたことを、繰り返しただけです。
前回の最後に、ブランダムは、カントが概念の使用の規範性に気づいたことを、カントの画期的な仕事だと高く評価したが、カントが概念と対比した直観についても、規則性や規範性を見つけることができるのではないと述べました。その時考えていたのは、直観の規範性は、技能知の規範性の間には、密接な関係があるのではないか、ということでした。
そこで前回のup以後、直観の規範性についての考えていたのですが、現代においてカントにおける「直観」概念をそのままの形で議論することが難しいということがわかってきました。 まず、知覚のエナクティズムや知覚のアフォーダンスを考えるとき、それらの知覚は概念的に構成されされているということを、カント的な直観と概念の二分法で説明することが難しいということがあります。ここで気になるのは、セラーズとマクダウェルの議論です。彼らがカントによる直観と概念の二分法についてどう考えているのか、あるいは直観の規範性についてどう考えているのか、を調べるために、彼らの本を読み直したいとおもいます。読み直しつつ、紹介し検討することになりそうです。