[カテゴリー:自由意志と問答]
問答論的必然性とは、<問いQに対する答えAが問答論的矛盾になるとき、Qを問われたときには、「¬A」と答えることが必然的になる>ということです。これを選択問題に応用すると、次のようになります。
「今Aを行うか、行わないか、という選択が可能であるが、私はどちらかを選択するのだろうか」という問いに、「いいえ、わたしはどちらも選択しません」と答えるとき、私はAを行っていません。したがって、Aを行わないことを選択したことになり、矛盾します。これに対して、「はい、私はどちらかを選択します」と答えるとき、私はAを行っていません。したがって、Aを行わないことを選択したことになります。この場合には、矛盾は生じません。つまり「はい、わたしはどちらかを選択します」と自答することが、問答論的に必然的です。
このように、「Aを行うか、行わないか」という選択を意識したときには、どちらかを選択せざるを得ません。このとき、その選択は自由に行われたのでしょうか。何らかの選択をすることは、問答論的に必然的です。しかし、どちらを選択するかは、問答論的に決定していません。この選択の結果に責任を負うことになるでしょう。つまり、その選択は自由に行われたのです。
ところで、何かを問うことは、常に何らかの選択を求めることだとすると、問いに答えることは、常に選択することであり、問いに答えるのは、常に自由に答えることです。さらに、問うこと自体も、ある問いを問うかどうかの選択の結果だとすると、あるいは、その問いを問うことを選択することだとすると、問うことは常に自由に問うことです。
ところで、私たちが問答する限り、選択する限り、自由であるとすれば、自由は偏在するのであり、自由のデフレ主義というよりも、自由のスーパーインフレ主義と呼ぶ方がよいのでしょうか。