167 新年のご挨拶:帰結による正当化:(New Year’s Greetings: Justification by Consequences)(20260102)

[カテゴリー:問答の観点からの認識]

(昨年の続きを話す前に、新年のご挨拶です。

あけましておめでとうございます。昨年私の哲学研究にとって重要な前進は、次のようなことでした。

 ・論理規則は問答関係から帰結すること

  ・発話の規範性もまた問答関係から帰結すること

  ・広松の四肢構造を、入れ子型二重問答構造で説明できること

  ・人権宣言は社会契約論とは異なること、つまり人権は宣言によって成立するのではなく、それ以前から存在しているということ

・基礎づけ主義が不可能であるので、帰結による正当化しかないということ。

(これはローティの言葉です。この言葉に意外性はないのですが、しかしこれをこれまで(少なくとも私は)真剣にとらえてこなかったことに気づきました。これを問答の観点からどうとらえるかは、考え中です。)

 今年は、これらのアイデアを中心に本をまとめたいです。)

根拠による正当化は、「なぜ」の問いを多用することになります。これに対して、帰結による正当化を求めるときには、「pから何が帰結するのか」という問いを多用することになるでしょう。

#問いの理解と問の正当化の循環

 ところで「pから何が帰結するのか」という問いは、pの理解を前提しています。しかし、pの意味を理解するためには、(推論主義意味論によれば)pの下流推論を理解していなければなりません。つまり「pから何が帰結するのか」という問いの答えを知っていなければなりません。ここに循環が生じます。この循環は、「p」を理解することと正当化することの循環です。(これと同じ循環は、「p」の根拠(上流推論)を問う場合にも生じます。)

 もしこの循環を避けようとするならば、次のように考える必要があります。「p」を正当化しようとして、「pから何が帰結するのか」と問う時、pを理解していないことがありうるということです。「pから何が帰結するのか」という問いが、pの理解を前提していないとしたら、「p」を正当化しようとするときに、「p」をまだ理解していないことありうるということです。(これは、発話の意味の理解よりも、発語内行為の理解がより基底的であるということを意味します。)

 しかし、「p」の意味を理解していないのに、「p」を正当化しようとするとは、どういうことでしょうか。「p」の意味を理解していないけれど、「p」の発話が何かを主張していることは理解しており、主張内容を理解していないが、主張内容を正当化しようとしているということです。pの内容を理解していないのに、その内容を正当化しようとするということは、信頼する人物の発話の場合には容易に想定できます。私がAさん(の判断力や誠実性)を信頼しているとき、Aさんの主張の内容を理解していないが、その主張の内容を正当化できると予想し、正当化しようとすることがあります。

他者の発話でなく、自分がこうかもしれないと考えた命題(問いに対する答えは、こうかもしれないと考えた命題)の場合にも、その予想を正当化しようとするとき、その予想の内容を修正することがあります。つまり、自分の発話についても、その理解と正当化は循環します。

 理解と正当化の循環は、平叙文の場合だけでなく、疑問文の場合にも生じるとおもわれます。帰結による正当化は、根拠による正当化よりも、曖昧でとらえどころがないのですが、限定する方法を探ってみます。

投稿者:

irieyukio

問答の哲学研究、ドイツ観念論研究、を専門にしています。 2019年3月に大阪大学を定年退職し、現在は名誉教授です。 香川県丸亀市生まれ、奈良市在住。