集団的自衛権を認める解釈改憲が閣議決定されてしまいました。
8 分人主義と役割論の比較2
(20140630)
分人主義と役割論との比較をしようとしているのだが、ある種の困惑を感じる。それは、一方で、分人主義は、現代社会において登場しあるいは強化されている、現代に固有の、自我(主体、個人、自己)のあり方を主張しており、他方で、役割論は、時代や社会を限定せず、人間ないし人間社会に普遍的に成立している主体のあり方を主張しているのではないかという疑念である。もしそうならば、これらの前提の違いを無視して単純に比較することはできない。そこで、まずこの疑念を確かめたい。
廣松が、『存在と意味』第二巻などで「実践的な世界」を分析するとき、それは特定の時代や社会を超えて、一般的に妥当に妥当する事柄を分析しているのだと思われる。 廣松は、『世界の共同主観的存在構造』(1972)の「II」の「一 共同主観性の存在論的基礎」の冒頭で、考察対象について次のように述べている。
「世界観の地平は歴史的・社会的に相対的であり、学問的な世界観といえども当代の「日常生活体験」に根ざした「民衆的先入見」(マルクス)の大枠を端的に超出することは不可能であって、結局のところ“世人の日常的な世界了解の構図”を準拠枠frame of referenceにせざるをえない。[…]われわれとしては、それ故、日常的な世界像に流目するところからは始め、そこにおける存在論以前的Vor-ontologischな了解の構えに遡って問題点を剔抉しておく必要がある。」(『世界の共同主観的存在構造』135)
廣松は、とりあえずは「当代」の「日常的な世界了解」を準拠枠にせざるを得ないという。つまり、1970年前後の日本社会についての“常識的な理解”を準拠枠にするということである。しかし、その考察は、「歴史的・社会的に相対的な」側面を「超出」して、時代や社会に限定されない原理的一般的な考察を目指しているのだろう。
しかし、例えば役割理論に関して、役割は、原始共同体、古代国家、近代資本主義国家、グルーバル化する現代、のそれぞれで大きく異なるのではないか、それらの社会に共通する役割のあり方を考察をしても、それぞれの社会の本質的な特徴を捉えきれないのではないだろうか。例えば、資本主義による「物象化」についての廣松の分析は、「実践的世界」の分析に生かされていないように思われる。なぜなら、その「実践的世界」は、資本主義社会に限らない、より一般的な社会として対象になっているからである。
(もしこの指摘が正しいとすると、これは廣松哲学の重大な惜しまれる点になるだろう。それは私たちの課題かもしれない。もちろん役割理論の研究の中には、時代と社会を限定した研究、現代社会や日本社会の役割論の研究がすでにあるのかもしれない。)
では、分人主義の方はどうだろうか。それは自我のあり方の現代的な特徴なのだろうか。それとも特定の時代と社会に限らない、普遍的な「自我」の理解なのだろうか。平野啓一郎はおそらく前者を考えている。彼は『私とは何か』の冒頭で次のように言う。「むしろ問題は、個人という単位の大雑把さが、現代の私たちの生活には、最早対応しきれなくなっていることである」(3)
では、ムフの「主体位置」はどうだろうか。この概念は、エルネスト・ラクラウとシャンタル・ムフの共著『民主主義の革命』西永亮、千葉真一訳、ちくま学芸文庫(2012)(原著1985ではじめて導入されたのではないかと思われる。彼らは当時の資本主義社会の分析のためにこの概念を用いているが、それをローザ・ルクセンブルクの分析を参照しつつ導入するので、1980年代の資本主義にかぎらず、20世紀の資本主義に通用する概念として考えているのかもしれない。彼らは、おそらく時代と社会を越えて人間に普遍的に妥当する概念だとは考えていないだろう。
廣松の役割理論は、普遍的な社会理論であった。それに対して分人や主体位置の概念は現代社会ないし現代資本主義社会における自我論ないし主体論として考えられていた。これを考慮した上で、アプローチの仕方を再考したい。まずは、大きな見取り図を示すことにする。