73 「心像的表象」と「概念的表象」の代理表示の違い (20220601)

[カテゴリー:問答の観点からの認識]

前回は、ドレツキが漢学的表象と概念的表象として分けていたものを、前者のみを表象飛び、後者を概念と呼ぶことを提案しました。しかし、その後いろいろな文献を見ると、「概念」を「表象」の一種とみなす議論が多いことが解りましたので、私も「概念」をもまた「表象」の一種とみなすことにします。つまり、「表象(representation)とは、対象の状態を別のものの状態で代理表象すること(ないし代理表象するもの)としますその上で、その代理表象が空間的時間的広がりと位置を持つ心像(イメージ)であるとき、それを「心像的表象」と呼ぶことにします。知覚はこれの代表的なものであり、知覚を表象として捉える時には、「知覚表象」と呼ぶことにします。他方で、その代理表象が空間的時間的広がりを位置を持たない概念的なものであるとき、これを「概念的表象」と呼ぶことにします

さて、前回最後に述べた疑問は次のようなものでした。

「知覚表象が、空間的時間的な広がりを持つイメージになるのは、4次元時空の世界の断片を表示するからである。つまり、表象のイメージという性格は、表象の代理表示という性格から生じていると考えられる。ところで、概念もまた代理表示機能を持つにも関わらず、それが空間的時間的広がりと位置を持たないのは、なぜなのか?」

今回は、これに答えたいとおもいます。

「これはリンゴです」という命題は、事実を代理表示していますが、空間的時間的な広がりと位置をもつ表象ではありません。知覚表象は、空間的時間的関係の一部を保存し、表示しますが、それに対して、概念的な代理表示は、空間的時間的関係を表示するのではありません。では、それは何を表示するのでしょうか。

 概念は、他の概念との関係において成立します。その関係は空間的時間的関係ではありません。それは、両立可能/両立不可能の関係(pとrが共に成立することが可能である/pとqが共に成立することは不可能である)であり、論理的帰結の関係(pが成立するならば、rが成立する)です。論理結合子で表現すると、次のようになります。

  p≡r (同値)

  p→r (伴立)

  ◇(p∧r)  (両立可能)

  ¬◇(p∧r) (両立不可能)

論理的関係とは、文や語の意味に関する関係です。ブランダムの推論的意味論によるならば、論理的関係は、文の意味に基づく関係なのではなく、逆に、文の意味が論理的関係に基づくものです。文の論理的関係とは、例えば次のようなものです。「これはリンゴである」は「これはナシである」や「これはオレンジである」などとは両立不可能です。他方「これはリンゴである」は「これは赤い」「これは果物である」などと両立可能です。また、「これはリンゴである」から「これは果物である」や「これは食べ物である」が帰結します。したがって、「これはリンゴである」が、世界について何かを表示するとすれば、これらの推論関係が成り立つことを表示しています。

では、文が世界について何かを表示するのはどのような場合でしょうか。ある文が世界について何かを表示するのは、それが問いに対する答えとなるときです。たとえば「これは何ですか」という問いに対する答えとして「これはリンゴである」が成り立つとき、この文は世界について、上記のような推論関係が成り立つことを表示します。

(わたしは、ここで、文が世界について何かを表示するのは、「それが問いに対する答えとなるときです」とのべ、「それが問いに対する答えとして発話されるときです」とは述べませんでした。その理由は、問答関係は、推論関係と同様に論理的な関係であり、私たちがそれを考えていなくても成立する、ということです。たほうで、私は、論理学について古典論理ではなく、直観主義論理を採用したいと考えているのですが、そのことが、このことどう関係するかは、別途取り上げることにします。)

以上が「概念的表象」が何を表示するかの説明です。

冒頭の問題に戻りましょう。

「心像的表象」も「概念的表象」も同じように世界の代理表示でありながら、知覚表象と概念のこのような違い(それぞれの「代理表示」のあり方の違い)は、何処から生じるのでしょうか。この違いは、(広義の)問いの違いに由来すると答えたいとおもいます。

この二種類の表象が、世界について代理表示するのは、それが(広義の)問いに対する答えとなる時です。知覚表象が世界のあり方を表示するものとなるのは、探索に対する答えとして発見されるときです。文が世界に対の表示となるのは、上にも述べたように、問いに対する答えとなる時です。これらの探索や問いがすでに、どのようなものが答えとなるかを規定しているのです。

次に、知覚が、(言語以前のものも含めて)探索に対する答え(発見)として生じること、その探索がすでに知覚的な表象を求めていることを、より詳しく解明したいと思います。

72 仕切り直し:表象の二つの性格 (20220530)

[カテゴリー:問答の観点からの認識]

(しばらく時間が空いてしまったので、最初の問題意識に戻って出直したいとおもいます。このカテゴリーのこれまでの内容については、カテゴリーの冒頭の説明文をご覧ください。)

認識がどのように行われているのかを明らかにするには、表象、知覚、意識などについて、これらの語が何を意味するのか、そしてこれらの語が意味するものがどのようにして生じるのか、を明らかにする必要があります。勿論これらは難問ですが、それができなければ、認識論はほとんど不可能です。

まず「表象」の解明から始めます。ドレツキによれは、「表象する」とは次のようなことです。

「あるシステムSが性質Fを表象するのは、Sがある特定の対象領域のFを表示する(Fについての情報を与える)機能を持つとき、そしてその時のみである。Sは(その機能を果たすときには)、Fのそれぞれ異なる確定した値f1, f2、…fn に対応して、それぞれ異なる状態s1, s2,…snを占めることによって、その機能を果たす。」(Fred Dretske, Naturalizing the Mind, MIT Press, 1995. ドレツキ著『心を自然化する』鈴木貴之訳、勁草書房、2007年、p.2)

「表象(representation)」は、代理、代表などの意味をもつ言葉なので、representationの原義は、このようなものだと言えそうです。表象のこの性格を「表象の代理表示」と呼ぶことにします。

 他方で、日本語の「表象」には、この意味とは別に、像、イメージ、という意味もあります。表象の「代理表示」という性格は、上述の仕方で明確に説明できますが、「像、イメージ」という性格を明確に説明するには、どうしたらよいでしょうか。とりあえず、イメージは、二次元あるいは三次元の空間的広がりと空間内の位置、静止あるいは変化という時間的拡がりと時間内の位置をもつものだといえます。ただし、二次元平面をイメージするには、その平面を一定の距離や位置のところに想像したり知覚したりしなければならないので、その場合にも暗黙的には三次元が必要です。静止した像を想像したり知覚したりするには、一定の時間の中で変化しない状態を想像したり知覚したりしなければならないので、暗黙的には時間経過が必要です。

 表象のイメージという性格は、表象のもう一つの性格、代理表示という表象の性格から生じると考えられます。なぜなら、もともとの世界が4次元であるとき、それを代理表示する表象も4次元の拡がりを持つことになるからです。ただし、世界の表象は、世界全体を表象することは出来ないので、世界のある視点からのみた、世界の断片の表象になります。つまり、この断片は、4次元時空の時間断片である三次元立体になるかもしれません。三次元立体の二次元断片である二次元平面になるかもしれません。あるいは、二次元平面で時間次元を持つ動く映像になるかもしれません。イメージは、世界をある視点、ある時間、ある次元で切り取った、世界の断片(あるいは世界の断片のイメージ)になります。イメージは、空間的な広がりと位置、時間的な広がりと位置をもちます。

 イメージは、4次元世界を代理表示することによって成立するのだと考えられますが、世界の代理表示のイメージが、間違っているときには、その表象はどのような事実も代理表示していないということがありえます。さらには、虚構のように、最初から、事実を表示しないイメージをつくることも可能になります。ただし、動物の進化史における最初のイメージの登場は、世界の代理表示だろうとおもわれます(錯覚については別途論じます)。

 知覚とイメージの関係について言えば、すべての知覚は何らかのイメージですが、すべてのイメージが知覚(知覚像)であるのではありません。では、感覚とイメージ関係についても同様です。感覚もまた空間的な広がりと位置、時間的な広がりと位置をもつので、すべての感覚は何らかのイメージだといえますが、しかしすべてのイメージが感覚であるのではありません。つまり、知覚も感覚もイメージです。また知覚も感覚も何かの代理表示だと言えそうです。したがって、知覚も感覚も表象だと言えそうです。

 ちなみに、ドレツキは、表象について、代理表示の性格だけをのべ、イメージついては述べません。したがって、概念もまた表象に含めることになります。なぜなら、概念もまた「代理表示」という性格を持つからです。ドレツキは、表象を「感覚的表象」と「概念的表象」に分けています(参照、前掲訳12)。ドレツキに限らず「意識の表象理論」という立場では一般的に、概念を表象に含めて考えることになるのかもしれません(この点、私にはまだ不確かです)。これに対して、私は、「表象」を代理表示とイメージという二つの性格を持つものとして考えて、「表象」と「概念」を区別して使用したいと思います(この方針で重大な問題が生じれば、その時に考え直したいと思います)。

 「概念」は、空間的時間的な広がりと位置を持ちません。しかし、上述の箇所では、代理表示という性格から、イメージという性格が生じると説明しました。それならば、概念についても、代理表示という性格から、イメージという性格が生じることになりますが、しかし概念はこのイメージという性格を持ちません。この混乱を避けるには、表象がもつ代理表示という性格と概念が持つ代理表示という性格に違いに注目するひつようがあります。

 この違いについて、次に考えたいと思います。

38 哲学は無力? (20220514) 

[カテゴリー:日々是哲学]

哲学は無力?

ウクライナの戦争を止めるにはどうしたらよいのでしょうか。「哲学は無力だ」と考える人がいるかもしれませんが、私はそう考えません。何故なら、戦争を支持している人もまた、ある哲学に依拠して戦争を正当化しているからです。つまり、ここには哲学同士の争いがあり、戦争に反対する哲学が、戦争に賛成する哲学に負けているのです。

秩序よりも自由が大切です。

プーチンは、自由主義は古い、自由よりも秩序が大切だ、と考えるようです。しかし、今日の我々は、「普遍的な一つの正しい秩序」が存在しないことを知っています(ポストモダンの時代です)。プーチンが大切だと考える秩序は、プーチンにとっての秩序であり、それは多くの人にとっては無秩序でしかありません。指導者が「秩序」の名のもとに自由を制限するとき、それは指導者にとって都合の良い「秩序」であって、多くの人にとってはむしろ彼らの秩序を壊すものです。「一つの正しい秩序」がない世界では、様々な人にとっての様々な秩序の可能性を保障するために、自由を保障することが何よりも必要です。つまり、秩序よりも自由が大切です。

(これに対して、プーチンならばこういうかもしれません。「それでは無秩序な混乱した社会になる」と。しかし、本当にそうでしょうか。プーチンがおそれる無秩序で混乱した社会は、多くの人々にとっても無秩序で混乱した社会なのでしょうか。プーチンにはそれを考えてほしいです。)

17 人の生存は、目的そのものである (20220509)

[カテゴリー:哲学的人生論(問答推論主義から)]

(今回の議論は、前回最後の問い「では、ある人Xの生存が、その人自身にとって、あるいは他の人にとって、価値があるとはどういうことでしょうか」への直接的な答えには成っていません。)

「全ての人は生きているだけで価値がある」と仮定しましょう。このとき、人の生存は、何かの役に立つがゆえに価値を持つのではなく、それ自体で価値をもつのです。人の生存は、何かの目的のための手段でなく、目的そのものです。

  「人の生存は、目的そのものである」

Xの生存が目的そのものであるならば、Xの生存はより上位の目的を持ちません。そうすると、Xの生存以外のものは、Xの生存のための手段となるのでしょうか。Xの活動と能力は、Xの生存のための手段となりそうです(たとえば、狩りをしたり食べ物を買ったりすることは、生存のためです)。Xの生存以外のものが人でなければ、それらもまたXの生存のための手段となりそうです(たとえば、食べ物は、Xの生存の手段となります)。しかし、Xの生存以外のものが、人であれば、その人の生存もまた目的そのものですから、それはXの生存の手段となることはありません。ただし、X以外の人の活動と能力は、Xの生存の手段となるかもしれません(たとえば、Xがレストランでコックに食事を作ってもらうことは、Xの生存の手段になります)。

 しかし、そのコックさんの生存は、Xの生存の手段にはなりません。では、二人の人間の生存の間には、どのような関係があるのでしょうか。

 XとYの二人がいるとき、Xの生存とYの生存は、一方が他方の手段になるのではなありませんし、互いに無関係でもないでしょう。前者は、今回の話の仮定によります。後者の理由は、Xの活動の目的とYの活動の目的が両立しないとき、例えば、同一の木の実をとって食べようとすること、同一の場所を住処としようとするとき、二人の活動の目的は両立不可能になるということです。他者の活動の目的を妨げることは、場合によっては他者を死に至らしめることがあります、つまり他者の生存を否定することがあります。したがって、XとYの生存は互いに無関係ではありません。 XとYが互いの生存を尊重するためには、双方の活動を制限する必要があります。

(補足:他者の活動の目的を尊重することから、他者の生存を尊重することが帰結するでしょう。なぜなら、これの対偶(他者の生存を尊重しないならば、他者の活動の目的を尊重しない)が、帰結するように見えるからです。

 しかし、他者の生存を尊重することから、他者の活動の目的を尊重することは帰結しないでしょう。なぜなら、これの対偶は成り立たないからです。つまり、他者の活動目的を尊重しないとしても、他者の生存を尊重することはありうるからです。たとえば、パターナリスティックな態度がそれです。子供を教育する場合などです。)

では、Xの生存とYの生存は、どう関係するのでしょうか。Xにとって他者Yの生存もまた価値を持つとすれば、Yもまた目的そのものです。Xの生存もYの生存も、Xにとって目的そのものです。ここで、次の3つが成立しています。

  ①全ての人の生存が、Xにとって目的そのものである

  ②Xの生存は、全ての人にとって目的そのものである。

  ③全ての人は、全ての人にとって目的そのものである。

(②は、前回最後の問い「では、ある人Xの生存が、その人自身にとって、あるいは他の人にとって、価値があるとはどういうことでしょうか」への(不十分な)答えになりそうです。)

この後考えるべきことはいくつかあります。

・③は、カントのいう「目的の国」に似ています。「目的の国」の中で目的同士はどう関係するのでしょうか。カントの「目的の国」とヘーゲルの「相互承認」は、正当化の方法が異なるだけであり、最終状態は同じものなのでしょうか。

・前々回説明した「「生存価値」の問答論的論証」は、「全ての人は生きているだけで価値がある」の論証として十分なのでしょうか。

(ここには、まだまだ多くの考えるべき論点がありそうですが、まだ整理できないので、考えが進んだら、また戻ってきます。)

16「価値がある」とはどういうことか (20220507)

[カテゴリー:哲学的人生論(問答推論主義から)]

(しばらくブログのupがなくて、失礼しました。次に何を論じるか、考えていました。

ところで今日は、哲学者D.ヒュームとC.T.さんの誕生日でした。)

これまで、人生の意味、人生の目的、人生の価値について説明し、これらの区別を明確にしようとしてきました。また、人生の価値については、「能力価値」「メタレベルの能力価値」「生存価値」を区別してきました。ここからもう一度、生存価値、つまり「人は生きているだけで価値がある」という主張の意味と正当化について考えたいと思います。

「価値」は関係概念です。

①「Xは価値がある」とは「Xは、あるものYとの関係において価値をもつ」ということです。たとえば、「ダイヤモンドは価値がある」は、「ダイアやモンドは、他の鉱石や金属よりも硬いので、ダイヤモンドは、価値がある」と説明されます。

「XはYにたいして関係Aを持つ」あるいは「XはYとの関係においてAという性質を持つ」それゆえに、「XはYとの関係において性質Aを持つので、価値を持つ」と考えられます。

では、Xは、Yとの関係において性質Aを持つことによって、なぜ価値を持つのでしょうか。なぜなら、主体Zの目的Bの実現にとって、性質Aが有用だからです。

②「Xは価値がある」とは、「Xは、あるものYとの関係において、ある主体Zにとって価値を持つ」ということです。「主体Zとって価値を持つ」とは、「主体Zの目的の実現にとって有用である」ということです。

③ところで「Xが、主体Zの目的の実現にとって有用である」と語ることができるためには、主体Zが、意識的に目的を持ち、その実現のために意図的に行為することが必要です。

「ある木の実が、ある動物にとって価値がある」とは「ある木の実が、ある動物の生存という目的の実現にとって有用である」ということです。しかし、動物についてこのように語ることは、擬人法です。なぜなら、動物は意識して目的を持たないので、動物の行動について目的について語ることは、客観的な事実を語っているのではなく、動物の行動についての人の解釈を語ることだからです。したがって、「Xが主体Zの目的の実現にとって有用である」と語ることができるためには、主体Zが、意識的に目的を持ち、その実現のために意図的に行為することが必要です。

④Xが人の場合には、「ある人は価値がある」とは、「ある人は、あるものYとの関係において、ある主体Zにとって価値を持つ」ということであり、さらに言えば、「ある人は、あるものYとの関係において、ある主体Zの目的の実現にとって有用である」ということです。

これは次の二つの場合に分けられます。

・「ある人の存在が、あるものYとの関係において、ある主体Zの目的の実現にとって有用である」。これは、ある人の「生存価値」に関わります。

・「ある人の活動と能力が、あるものYとの関係において、ある主体Zの目的の実現にとって有用である」。これは、ある人の「能力価値」に関わります。

⑤生存価値について

「ある人Xの生存が、あるものYとの関係において、ある主体Zの目的の実現にとって有用である」ということは、どういうことでしょうか。

ここでXとZが同一人物である場合、「ある人Xの生存が、あるものYとの関係において、その人Xの目的の実現にとって有用である」ということは、どういうことでしょうか。Xが何を目的にするにしても、Xが生存していることは、その目的の実現に有用です。しかし、この場合には、生存そのものに価値があるというよりも、生存がある活動や能力のための手段として、「メタレベルの能力価値」を持つということです。

 では、ある人Xの生存が、その人自身にとって、あるいは他の人にとって、価値があるとはどういうことでしょうか。

85いちろうさんの質問への回答(7) (20220420)

[カテゴリー:『問答の言語哲学』をめぐって]

いちろうさんの質問17は次です。

「質問17 p.234の同一律についての「Aは、Aですか?」「いいえ、Aは、Aではありません」の例は、冗長ではありませんか。

この例には「①Aは、②Aですか?」「いいえ、③Aは、④Aではありません」というように4つのAが出てきますが、問答により①と③、②と④の同一性は確保されても、①と②、③と④の同一性はどのように確保するのでしょうか。

「Aですか」「Aではありません」のような文を用いないと、原初的な同一律は確認できないように思えます。
(ブログ29に「p┣pは、pの意味を変えないのですが、それはpの意味を保存するからではなく、pの意味を作り出すからではないでしょうか。」とありましたが、「Aですか」の問いを受け入れ、「Aですか」の前提承認要求を受け入れるからこそ、そこで意味の作り出しがあり、「Aです」と答えられるのでは、ということだとも言えるかもしれません。)

または、「同一律に従っていますか。」「いいえ、従っていません」でもいいのかもしれませんが。」

p.234では、 「Aは、Aですか?」という問いに「いいえ、Aは、Aではありません」と答える時、この返答は、問答論的矛盾を引き起こすことを示そうとしました。いちろうさんの言うように、次のように表記すれば、より明解になるかもしれません。

  「①Aは、②Aですか?」「いいえ、③Aは、④Aではありません」

この場合、問答が成立するには、①と③の同一性が成立しなければなりません。(いちろうさんが言うように、②と④の同一性も確保されているのかもしれません。)これを明示すると「①Aは、③Aです」となります。つまり、「AはAです」が成り立っています。したがって、この問答関係が成立していることと、「いいえ、AはAではありません」という答えの命題内容は矛盾(問答論的矛盾)します。これがここで私が言いたかったことです。

 いちろうさんは、「問答により①と③、②と④の同一性は確保されても、①と②、③と④の同一性はどのように確保するのでしょうか」という疑念を持っておられるので、私が、「①Aは、③Aです」を「AはAです」として理解することにも疑念を持つるかもしれません。なぜなら、もしこの理解を認めれば、①と③、②と④、①と②、③と④の同一性を区別せず、すべて「AはAである」として理解することになるからです。

  しかし、もし①と③、②と④、①と②、③と④の同一性を区別することにすれば、「A」の発話トークンをすべて区別することになります(そうするとここに何度も書いてきた「①A」もまた区別しなければなりません)。しかし、同一律を「AはAである」で表現するとき、そこでは「A」のタイプのことを考えており、トークンのことを考えているのではないだろうとおもいます。したがって、私は、「①Aは、③Aです」を「AはAです」として理解することができるとおもいます。タイプとトークンの区別は重要なのですが、もしここでそれを持ち出そうとすると、最初の問い「AはAですか」の設定そのものを変更する必要がありそうです。

いちろうさんの質問18は次です。

「質問18 p.235以降で取り上げられていた「根拠を持って語る義務」、「嘘をつくことの禁止」が三木さんからの質問でも問題になっていましたが、これはつまり日常では問題にならないが、普遍的な主張である限りは、これらのルールが適用される、という理解でよいのでしょうか。

もしそうだとすると、主張を重視し、そこに、常に嘘をついてはいけない、というような普遍的なルールを持ち込む(問答)推論は、嘘も方便を容認するような日常の言葉遣いとは乖離しているということなのでしょうか。
直感的に、僕は日常的には理由の空間に住んではいないような気がするのですが、(問答)推論は、そのような日常を取り扱うものではない、ということなのでようか。(もう少し理想化された言語活動みたいなものを想定しているということでしょうか。)」

日常の会話の中で、これらの規範を無視して話すことがありうることは認めますが、人は、大抵は、自分の発話や相手の発話の根拠を問題にしているし、嘘をつくことは悪いこととされていると考えているのではないでしょうか。もしこれらの規範がないとしたら、会話することはほとんど無意味になると思います。互いに嘘をついてもよい嘘つきゲームをしてみたらわかりますが、それはちっとも面白くなくて、続ける気がなくなると思います。

いちろうさんのご質問は、「「根拠を持って語る義務」、「嘘をつくことの禁止」について、「これは、日常では問題にならないが、普遍的な主張である限りは、これらのルールが適用される、という理解でよいのでしょうか」ということだったのですが、前に(70回に)三木さんの質問に答えたときの一部を繰り返します。

(引用はじまり)「この三木さんの質問を次のように理解しました。「事実としては人間は根拠のない主張や嘘もおこなうし、それらをおこなうと認める発言もしているはずだ。」このような事例を「不純物」として「取り除ける前提はどこかに置かれていて、それによって事実と規範のギャップが埋められている」が、その「前提」とは何か、ということです。

もしこのような問題設定を受け入れるとすれば、次のように答えたいとおもいます。ここでいう「不純物」が、「人は嘘をついてもいい」のような発言であるとするとき、それを取り除ける前提とは、<その発話が相関質問に対する答えとして成立する>ということです。そして、この前提を認める時、「人は嘘をついてもいい」という返答は問答論的矛盾を引き起こすために取り除かれることになります。」(引用おわり)

「常に嘘をついてはいけない、というような普遍的なルールを持ち込む(問答)推論は、嘘も方便を容認するような日常の言葉遣いとは乖離しているということなのでしょうか」というご質問に対しては、次のように応えたいです。

「嘘も方便だ」と考えて、嘘を容認する場合があるとしても、その場合にも、「嘘をつくべからず」という規範を認めているのではないでしょうか。様々な事情・理由で、その規範の適用を制限しようとしているだけであって、「嘘をつくべからず」という規範は、その場合も生きている、妥当しているとおもいます。

規範を規範として見ているということと、規範に従がうということは、別のことであって、常に一致するとは限りません。

「直観的に、僕は日常的には理由の空間に住んで」いるような気がしますので、「理由の空間」の理解の仕方が違うのかもしれませんね。

以上で、いちろうさんからの沢山の質問に一応答えおわりました。どの質問も、私の説明不足や考え不足をついた難問で、答えを考えながら、沢山の発見がありました。ありがとうございました。

いちろうさんには、沢山の誤植のご指摘もいただきましたので、もし修正の機会に恵まれたならば、活かさせていただきたいと思います。ありがとうございました。

84いちろうさんの質問への回答(6) (20220419)

[カテゴリー:『問答の言語哲学』をめぐって]

いちろうさんの質問14は次です。

「質問14 p.196の13行目に「問答推論関係によって明示化できるだろう。」とありますが、p.196の7行目までの例が問答になっていないように思えます。例えば「私は学生に「水をもってきてください」と依頼してよいのだろうか。」という問いが冒頭にあるのを省略しているということでしょうか。

その場合、「私は学生に水を持ってきて(も)欲しい」は発語媒介行為の意図であると同時に、前提(誠実性)承認要求でもあるということになります。

それとも全く別のことを言っているのでしょうか。」

p.196では、発語内行為、前提承認要求、発語媒介行為が、つぎのような実践的三段論法になっていることを指摘しました。

  私は学生に水を持ってきてほしい」(発語媒介行為の意図)

  学生が短時間で水を持ってくることができる。(前提(真理性)承認要求)

  私が学生に水を持ってくるように依頼することは正当である。(前提(正当性)承認要求) 

∴私は学生に「水を持ってきてください」と依頼する。(発語内行為)

実践的推論も含めて、推論は、問いに対する答えを求める過程として成立する、つまり問答推論として成立します。従って、この場合も、問答推論の結論として依頼の発語内行為が行われることになります。

いちろうさんが指摘するように、ここでの「私は学生に水を持ってきてほしい」は、前提(誠実性)承認要求であるように見えます。これは、欲求を表現しする表現型発話であって、発語媒介行為の意図(事前意図を表明する発話)になっていません。そこで上の実践的推論をつぎのように変更したいと思います。

  私は学生に水をもって来させよう。(発語後媒介行為の意図)

  私は学生に水を持ってきてほしい。(前提(誠実性)承認要求)

  学生が短時間で水を持ってくることができる。(前提(真理性)承認要求)

  私が学生に水を持ってくるように依頼することは正当である。(前提(正当性)承認要求) 

∴私は学生に「水を持ってきてください」と依頼する。(発語内行為)

ここで、省略されている問いを明示すべきでした。この場合に省略されているのは、次のような問いだと思われます。

  「私は学生に水をもって来させるために、どうしたらよいだろうか?」

これにたいする答えが、この実践的推論の結論、

  「私は学生に「水を持ってきてください」と依頼する」(発語内行為)

になります。

しかし、以上の説明には、問題点が残っています。「私は学生に「水を持ってきてください」と依頼する」という結論は、正確に言えば、発語内行為そのものではなく、発語内行為の意図(事前意図)を表明するものだとということです。一般的に、実践的推論の結論は、行為そのものではなく行為の事前意図を記述するものになります(このことは、p.9, 80で触れました。)。

以上をまとめて上記の実践的推理を、実践的問答推理として書き直せば次のようになります。

  私は学生に水をもって来させよう。(発語後媒介行為の意図)

  私は学生に水をもって来させるために、どうしたらよいだろうか?(実践的な問い)

  私は学生に水を持ってきてほしい。(前提(誠実性)承認要求)

  学生が短時間で水を持ってくることができる。(前提(真理性)承認要求)

  私が学生に水を持ってくるように依頼することは正当である。(前提(正当性)承認要求) 

∴私は学生に「水を持ってきてください」と依頼しよう。(発語内行為の事前意図)

いちろうさんの質問15は次です。

「質問15 p.208で「ここでは静かにしてください」は矛盾だという例が示されています。私はこれに同意できるのですが、そこには、そもそも、静かにしていなければならない状況で大きな声を出すことは、それがたとえ矛盾を含まない内容であっても、誤り?不適当?だという考えがあると思います。(例えば、赤ちゃんをちょうど寝かしつけたときに、「1+1=2だ!」と叫ぶなど。)そのような議論というのは既に哲学業界?のなかでは常識的なことなのでしょうか。もし新たな話だとしたら、この(語用論的誤り?の)発見自体が価値のあることなのではないでしょうか。

そして、語用論的矛盾は、この語用論的誤り?に付随するものだということになるのではないでしょうか。
(学校の朝の朝礼で、校長先生が「静かにしなさい」と大声で言うことは、特に、赤ちゃんを起こしてしまうというような問題も引き起こさないので、特に誤りではない、ということになります。)」

「ここでは静かにしてください」と大きな声で言うことが語用論的矛盾なのは、「ここでは静かにしてください」という命題内容と、大きな声で言うという発話行為(音声行為 cf.162f.)が矛盾するからです。

ご提案の「静かにしていなければならない状況で大きな声を出すこと」は、私が分類した二つのタイプの語用論的矛盾

   (A)発話行為とその命題内容の間の矛盾

   (B)発語内行為とその命題内容の間の矛盾

これらのどちらにも属しません。したがって、この分類が正しければ、ご提案の発話は語用論的矛盾ではありません。

ただし、次の第三のタイプの語用論的矛盾を設定できるかもしれません。

  (C)前提承認要求とその命題内容の間の矛盾

もしこの(C)のタイプの語用論的矛盾が認められるとしたら、かつ、いちろうさんのご提案の発話がこの(C)に属するとすれば、それは語用論的矛盾になるとおもいます。

(実は、(A)と(B)を考えたときに、従来の言語行為の再分類をおこなって「前提承認要求」を追加するということを考えていませんでしたので、この(C)のタイプの可能性の検討をしていなかったのです。これは、今後の課題としたいと思います。したがって、一郎さんのご提案の検討も課題とさせてください。発話の語用論的矛盾は、発話を社会的行為として論じる時に、重要なトピックになると思っています。)

いちろうさんの質問16は次です。

「質問16 p.224の「#問いの語用論的前提」が唐突に感じました。特に「答えを知らないこと」と「相手が答えを知っているかもしれないと考えていること」は必須なのでしょうか。

例えば、

A「高校の時の同級生のCくん覚えてる(よね)?」

B「うん」

A「Aくんが結婚したんだよ。」のように、BがCくんのことを覚えているという答えは知りつつ、話を進めるために問いを使うような場面もあるように思います。(他にも、試験の質問なども、答えを知っている問いになると思います。)

また、「我社は海外に進出すべきだろうか。」のように相手が答えを知らないことを知りつつ、一緒に答えを考えよう、という意図で質問をする場合もあるように思います。」

p.224に書いたように、問いの語用論的前提とは、問いという発語内行為が成立するための必要条件であり、問いの誠実性と正当性から成るだろうと思われます。ご質問の「答えを知らないこと」と「相手が答えを知っているかもしれないと考えていること」は、「誠実性」という問いの語用論的条件に関わります。

・答えを知っていても問うことがあるという場合に、試験での問いは、よく例に上がるものです。教師は、正しい答えを知ろうとしているのではなく、生徒が正しい答えを知っているかどうかを知ろうとしており、生徒もまたそのことを理解しています。したがって、それは通常の問いとは異なる別種のものだと考えます。

・「BがCくんのことを覚えているという答えは知りつつ、話を進めるために問いを使うような場面」、たしかにこのようなケースはよくあることと思いますし、通常の問いと明確に区別できるものでもないと思います。この場合には、A君がB君に「高校の時の同級生のCくん覚えてる(よね)?」と尋ねる時には、B君は、A君が「わたし(B)はCくんを覚えている」ということを確認したいのだと考えて、答えるでしょう。B君は、Cくんのことを覚えていることをAとBの会話の共通前提として設定するために問うのだとすると、そこに不誠実なところはありません。

いちろうさんの疑念を祓うためには、「答えを知らないこと」ではなく「答えを確実には知らないこと」としたらよいかもしれません。

・「「我社は海外に進出すべきだろうか。」のように相手が答えを知らないことを知りつつ、一緒に答えを考えよう、という意図で質問をする場合」について。たしかにここでは「相手が答えを知っているかもしれないと考えていること」という条件が成り立っていなくても、問いは誠実であるように思われます。このようなケースを含めるには、「相手が答えを知っているかもしれないと考えていること」を「相手が答えを知っているかもしれないと考えていること、あるいは、相手との話し合いで答えを知ることができるかもしれないと考えていること」と修正した方がよいかもしれません。

83いちろうさんの質問への回答(5) (20220418)

[カテゴリー:『問答の言語哲学』をめぐって]

いちろうさんの質問13は次です。

「質問13 p.191下から5行目以降は、真理値を持たない文には「実現可能性」だけが大事なように読めますが、例えば「現在のフランス王を連れてこい!」という文は、実現可能性以前に、指示表現の指示対象が存在しないという問題もあるように思えます。平叙文の場合の3つの必要条件に「加えて」実現可能性の問題もある、という理解でよいのでしょうか。」

「現在のフランス王を連れてこい」という命令の発話が、適切なものであるためには、実現可能性が必要です。

指示表現の指示対象が存在することもまた、実現可能性が成り立つための必要条件に含まれていると考えます。

ここでのご質問は、発話の<意味論的前提>に関するものです。私はここで、発話の意味論的前提とは、「発話が真か偽であるために、あるいは適切か不適切であるための必要条件」であると述べました。

そして、これを3つに分けました。

「第一は、指示表現の指示対象が存在すること」

「第二は、対象に述定される述語が適切なものであること」

「第三は、発話を構成する語が有意味であること」

発話が真か偽であるとは、真理値を持つということです。命令や約束のように発話が真理値を持たない場合には、発話は適切であったり不適切であったりする(広い意味での「適切性」をもつ)と思われます。ただし、平叙文が真理値を持つとは限りません。例えば、「私は・・・と命令します」「私は…と約束します」などの平叙文は、真理値を持たず、適切性を持つからです。

07 武器の所持は、人権侵害です (20220410) 

[カテゴリー:平和のために]

人を殺傷するために作られた兵器や武器を使用することは、人権侵害です。そのような兵器や武器を生産すること、販売すること、所持することは、その使用を可能性にすることです。したがって、兵器や武器を生産すること、販売すること、所持することは、殺傷の威嚇になります。そして殺傷の威嚇を行うこともまた、人権侵害です。したがって、兵器や武器を生産すること、販売すること、所持することは、人権侵害です。

前に(02回で)、私は国家が自衛のための武力を持つことを認めましたが、それは間違いでした。なぜなら、武器を持つことは、人権侵害に当たるからです。国家は、(自国民の人権だけでなく、すべての人の人権を尊重すべきですから)、自衛のためのであっても武器を持つことは、人権侵害に当たります。

国家が、自国民の人権だけでなく、すべての人の人権を尊重すべきことは、どのようにして証明できるでしょうか。

82いちろうさんの質問への回答(4) (20220416)

[カテゴリー:『問答の言語哲学』をめぐって]

#いちろうさんの質問9は次です。

「質問9 p.117の「何」疑問への返答は、同一性文の場合と主語述語文の場合があるとのことですが、「それはリンゴです。」はなぜ、「それ=リンゴ」の同一性文では駄目なのでしょうか。(「リンゴはそれのことです。」と言えるような気がします。)もし、駄目なのだとしたら、p.122からの決定疑問の問答でも、「これはリンゴですか。」のような問いの場合は、答えは同一性文にはならないということでしょうか。その場合、「それはリンゴです。」は焦点を持たないということでしょうか。

また、補足疑問の答えが同一性文にはならず主語述語文になる場合が挙げられていましたが、その場合には、その主語述語文全体が焦点となるので、p.105の「一つの発話は一つの焦点しか持ちえない」の例外になるということでしょうか。」

質問の前半について

「それはリンゴです」は、主語述語文であって、同一性文ではありません。なぜなら「それ」は個体を指示するのですが、「リンゴ」は一般名であり、対象の集合を指示ないし表示するからです。

「それはリンゴです」は主語述語文ですが、主語述語文であっても、「それ」あるいは「リンゴ」の部分に焦点を持つことができます。

質問の後半について、

補足疑問への答えが主語述語文になるのは、例えば次のような場合です。

   「それは何色ですか」「それは赤色です」

この答えは、主語述語文ですが、主語述語文もその部分、「それ」や「赤色」の部分に焦点を持つことができます。

#いちろうさんの質問10は次です。

「質問10 p.130で主たる焦点、第二の焦点とありますが、p.105の「一つの発話は一つの焦点しか持ちえない」との関係はどうなるのでしょうか。なんとなく、補足疑問の主たる焦点は疑問詞にあるというのが怪しいような気がするのですが。もしそうだとすると、「図書館では静かにしなさい!」という発話の焦点は、「!」にあることになってしまう気がします。(日本語では、前後の文脈で命令であることが明確ならば!は使わないことも多いので、そうすると、表記上のテクニックで、焦点が変わることになってしまいます。)」

私は、現実におこなわれた一つの発話の焦点は、一つになると考えています。その理由は、現実の発話は相関質問への答えとして発話され、相関質問が補足疑問ならば、答えの焦点はその疑問詞のところに代入される表現におかれるからです。したがって、p.130での例のように、主たる焦点と第二の焦点を想定できる場合でも、主たる焦点は一カ所だけになると考えます。そして、第二の焦点もまた一カ所だけになると考えています。なぜなら、主たる焦点の部分を除いた残りの部分を文とみなす場合に、それもまたある相関質問に対する返答として成立すると考えるからです。

補足疑問の焦点が、疑問詞の部分にあるので、返答の発話の焦点も、その疑問詞に代入される表現におかれることになります。補足疑問の焦点位置とその返答の焦点位置は、同じところにおかれることになります。決定疑問の場合に、たとえは「これはリンゴですか」は「これ」に焦点がある場合と、「リンゴ」に焦点がある場合があります。そして答えの「はい、それはリンゴです」は、前者への返答ならば「それ」に焦点があり、後者への返答ならば「リンゴ」に焦点があります。つまり、次のように決定疑問の場合にも、質問の焦点位置と返答の焦点位置は、同じところになります。

  「これはリンゴですか」「はい、それはリンゴです」(下線部は焦点位置を表します)

  「これはリンゴですか」「はい、それはリンゴです」

#いちろうさんの質問11は次です。

「質問11 p.141注記で、返答と並行するかたちで、質問についても格率が示されていますが、返答の場合は常に質問があるけれど、質問の場合は常により上位の質問があるとは言えないのではないでしょうか。(質問の前提には、より上位の質問があるとしても)もし常には質問に上位の質問がないのだとすると、グライスの格率は適用できない場合もある、ということになってしまうのでしょうか。」

質問するときには、何かの目的があるはずです。ある目的を持っているということは、ある問いを立てているということでもあります。したがって、質問するときには、(無自覚に、暗黙的に、であるかもしれませんが)何かのより上位の問いをもっていると考えます。

グライスの格率は、破ることも可能であるような規範であり、自然法則のように、常に成立しているものではありません。それゆえに、格率を意図的に破っていることを伝えることによって、何かを会話の含みとして伝えることも可能になります。このことは質問発話の場合も同様だろうと思います。たとえば、それまでに会話の内容と無関係な質問をすることによって、「話題を変えたい」ということを伝えることができます。

もし上位の質問がない場合があれば、その時には私がp.140の脚注30で述べた、質問発話の格率は、有効ではなくなるかもしれませんが、その場合にも、より一般的なグライスの格率は規範として妥当するだろうと思います。

#いちろうさんの質問12は次です。

「質問12 p.153の例がしっくりこないのですが、旧情報の「ベンツは高級車だ」が、新情報「メアリーはベンツを運転している」よりもあとの発話になるのはなぜでしょうか。

第一章のQ,Γ├pの前提Γを用いるならば、

前提Γ「ベンツは高級車だ」(旧情報)「お金持ちは高級車に乗る」

Q2「メアリーは、お金持ちだろうか?」

Q1「メアリーはベンツを運転しているだろうか?」

A1「メアリーはベンツを運転している」(新情報)

Q2「メアリーは、お金持ちだ」

では駄目なのでしょうか。」

ここでは、関連性理論が、会話の含み(推意)をどう説明するのかを説明しています。

聞き手が、「メアリーはベンツを運転している」という発話を聞いたときに、その会話の含み(推意)として伝えようとしていることは「メアリーはお金持ちだ」だと理解するとします。その場合に、聞き手はその含み(推意)にどのようのようにしてたどり着いたのか、ということを説明しようとしています。聞き手は、「ベンツは高級車だ」という旧情報を想起して、これと新情報を合わせることによって「メアリーはお金持ちだ」という文脈含意を得ることができ、話し手がこれを「推意」として伝えようとしているということを理解することになります。そのために、この順番になります。

なお、ここでは、このような関連性理論による説明では、複数の「推意」が可能であるので、二重問答関係で説明する方がより優れていることを示しました。