59 事実は問答関数である(20220204)

[カテゴリー:問答の観点からの認識]

まず、前回の宿題に手短に答えたいと思います。

#客観的推論的関係と主観的推論関係の相互的意味依存を問答推論関係に拡張する

・前回述べた二種類の語彙の相互的意味依存は、問答推論においても成立します。

客観的な問答推論関係を語るには、真理様相語彙に疑問表現語彙(疑問詞にくわえて、疑問文形式も含まれることにします)を加える必要があります。そして、主観的な問答推論関係を語るには、義務的規範的語彙に疑問表現語彙を加える必要があります。つまり通常の推論関係を問答推論関係に拡張することは、語彙の側面がらみると、真理様相語彙と義務的規範的語彙のそれぞれに疑問表現の語彙を加えるだけです。したがって、もし真理様相語彙が規範的語彙に意味依存するならば、それらにそれぞれ疑問表現語彙を加えた語彙もまた、意味依存することになります。したがって、客観的問答推論的関係と主観的問答推論関係は、相互に意味依存することになります。

では、このように拡張した上で、ブランダム=ヘーゲルの「概念実在論」を受け入れることができるでしょうか。気になるのは次のような存在論的な問題です。

#「概念実在論」の存在論的問題

客観的事実(fact)ないし事態(state of affairs)が概念的に構造化(ないし分節化)されているとしましょう。事実は確かに、それと両立不可能な他の事実がなければ、一定の規定性をもちません。またある事実は、それから帰結する他の事実がなければ、一定の規定性をもちえません。「これはリンゴである」は「これはナシである」とは両立不可能です。また「これはリンゴである」からは「これは食べられる」が帰結します。このような関係は無数にあります。このような関係は、私たちが採用する言語や理論が異なれば、異なります。勿論、このような関係は私たちが言語で語らなくても成立するし、私たちが「リンゴ」「ナシ」「食べられる」「これ」などの語彙を持たなくても成立するものとして考えられています。

 「リンゴ」という語がなくても、「これはリンゴである」という事実が成立しているとは、どういうことでしょうか。それは「もし「リンゴ」という語があれば、私たちは「これはリンゴである」と語ることができる」と言うことでしょうか。

 事実は、無限に多様な仕方で語れる無限に多様な構造をもっているということでしょうか。この場合次のように考えることもできます。

 事実が、「これはリンゴである」あるは「これはリンゴであり、ナシではない」という概念構造を持つのではなく、事実は「これはリンゴですか?」と問われたら「はい、これはリンゴです」という答えを返し、「これはナシですか?」と問われたら「いいえ、これはナシではありません」という答えを返す関数である。

つまり、事実とは、ある問いの入力に対して、ある答えを出力する関数であると見なすことができます(このように問いを入力として答えを出力とする関数を「問答関数」と呼ぶことにします。このような問答関数としては、後に述べるように事実以外にも考えられます。)

 ここに3つの可能性があるでしょう。

 ①事実は、このような問答関数である。

 ②事実は無限に多様な仕方で概念的に構造化されている。言語化されている概念構造はその一部である。

 ③事実は、問答関数であり、同時に、無限に多様な仕方で概念的に構造化されている。

 

 ②や③を語ることは、事実そのもののあり方についての語ることであるので、それを正当化することは、難しそうです。①が最も正当化するときの負担が軽そうです。他方で、①は問答関係を事実によって正当化できるので、観念論や強い構成主義のような説明上の負担も免れることができます。

 ①は、客観的事実が概念的に構造化されているとは考えませんので、「概念実在論」ではありません。事実の概念構造を、問答推論的関係と考えるとしても、そのような問答推論的関係が実在すると考えるのではありません。問答推論的関係は成立するのですが、それは<人が問いを立てたとき、ある問答関数(=事実)に基づいて、ある答えが与えられる>という仕方で成立するのであって、事実の構造として成立するのではありません。事実について言えることは、一定の問答推論関係を成立させる問答関数であるということだけです。その問答関数がどのようなものであるかは、入力と出力を介してしか理解できません。この①のような主張を、とりあえず「問答関数実在論」と呼ぶことにします。

ところで、認識において最も重要なことは、認識内容をチェックすることです。もしある信念や予測をチェックできないとすれば、それは認識とは呼べません。チェックできるものは、真である可能性と偽である可能性を持ちます。

次回は、この「問答関数実在論」を採用した上で、どうやって認識内容をチェックするのかを説明したいと思います。

58 客観的概念構造と主観的概念構造の相互的意味依存(20220201)

[カテゴリー:問答の観点からの認識]

ブランダムは、客観的概念構造(推論的関係)と主観的概念構造(推論的関係)が「相互的意味依存(reciprocal sense dependence)」の関係にあると言います。「意味依存」は「指示依存」と対照的に理解されており、それぞれ次のように定義されます(同様の定義は、すでにTMDの6章にあります)。

・「意味依存」の定義

「XがYに意味依存するとは、Xの概念を把握する事が、Yの概念の把握なしには、不可能である場合である」(SoT 206)

ブランダムの挙げている例では、概念sunburn は 概念sunと burnに意味依存する。また、概念「親」は、概念「子供」に意味依存する。

・「指示依存」の定義

「XがYに指示依存するのは、次の場合のみである。<X(概念Xの指示対象)が、Y(概念Yの指示対象)が存在するまでは、存在しえない>場合である。」(SoT 206)

オラリー夫人の牛がランタンを蹴ることによって1871年のシカゴ大火災が起こったが、1871年のシカゴ大火災は、オラリー夫人の牛がランタンを蹴ることに指示依存する。

客観的事実が概念的に構造化されているとは、客観的事態の間の「両立不可能」や「帰結」の関係があるということです。他方で、思考や判断の主観的行為の間にも「両立不可能性」や「帰結」の関係が成り立ちます。なぜなら思考も行為も概念的に分節化されているからです。この二つの側面を、客観的な概念内容と主観的概念内容と呼ぶことにします。ブランダムは、この二つが、「相互に意味依存する」というのです。

主観的な概念内容が客観的な概念内容に意味依存することは、明白であるかもしれません。判断が真であるためには、それが事実の概念構造を正しく表現している必要があるからです。判断の概念内容を理解するには、事実の概念内容を理解する必要があります。

これに対して、客観的概念内容が主観的概念内容に意味依存することは、説明が必要です。この説明がブランダムの概念実在論の独創的なところです。ブランダムは、これを二種類の語彙の間の関係として説明します。客観的概念内容は、「真理様相語彙(alethic modal vocabulary)」によって語られます。真理に関わる語彙だけでなく、様相語彙が必要なのは、自然の法則的な「必然性」や「可能性」を語る必要があるからです。また「反事実的条件法」も必要です。したがって、客観的概念内容を語るには、真理様相語彙が必要です。これに対して、主観の判断や行為を語るには、判断や行為にともなうコミットメントや資格付与の引き受けや拒否やそれらの義務について語る必要があります。したがって、「義務的規範的語彙(deontic normative vocabulary)」が必要です。

ブランダムはこの二種類の語彙の間に相互的な意味依存があるというのです。特にかれが強調するのは、<真理様相的語彙が、義務的規範的語彙に意味依存する>ということです。つまり、真理様相的な語彙の理解と適用を行うためには、義務的規範的語彙の理解と適用が必要であるということです。

「自然法則は、人がそれを理解しなくても、またそもそも人がいなくても、成り立ちうる」ことをブランダムは認めます。しかし、この事実は、反事実的条件法で語られており、様相語彙を使用していますが、それだけでなく、「人がそれを理解しなくても」という主観的な判断を述べた部分を理解するには、義務的規範的語彙を使用しなければなりません。それゆえに、客観的な概念内容を理解するためには、主観的な概念内容の理解が必要なのです。

「私たちは、主体がいない可能世界を理解し記述することができる。[…]しかし、そのような可能性を理解する私たちの能力は、私たちが、義務的規範的語彙の適用によって明示化される実践に関わることができるということに依存している。」(SoT 84)

しかし、客観的概念内容が真であるために、主観的概念内容が真であることが必要だということではありません。つまり、客観的概念内容は、主観的概念内容に意味依存するけれども、指示依存しません。

様相語彙は、規範的語彙に意味依存します。しかし指示依存するのではありません。言い換えると、真理様相語彙で語られていることを理解するには、義務規範的語彙を理解することが語られていることを理解する必要があります。しかし、真理様相語彙で語られていることが真であるために、義務規範的語彙で語られていることが真である必要はありません。(cf.SoT 82)

「概念実在論」としては、このような客観的事実の概念構造と主観的判断と行為の概念構造をそれぞれ主張するだけでよいのですが、この二つの概念構造の間の相互的意味依存関係を主張するとき、ブランダムはこれを「客観的観念論」と呼びます。

概念的実在論:物がそれ自体で何であるかと、物が意識にとって何であるか、の間の内容の存在論的同質性。両者は、概念的に構造化されている、つまり両立不可能性と帰結(媒介と規定された排他的否定)によって分節化されている。(注:概念内容はこれら二つの異なる形式をとり得るので、物はこのテーゼによって、観念と同一視されることはない。)

客観的観念論:諸概念の相互的意味依存によって、私たちは、一方では両立不可能性と帰結の客観的関係を特徴づけ、他方では、両立不可能性を解決し推論を行う主観的プロセスを特徴づける。(注:意味依存は指示依存を伴わないので、客観的世界は思考のプロセスの存在に――例えば、因果的に――依存していると見なされるのではない。)

概念観念論:客観的で概念的に分節化する関係と主観的で概念的に分節化するプロセスの配置は、最初は(知覚―行為-知覚という)意図的行為のサイクルであるプロセスの想起的局面に関連して理解されるだろう。そして、派生的にのみ、そのプロセスによって誘発される関係の用語で理解されるべきだ。(注:このテーゼはまだ主観的プロセスによって分節化された内容と、客観的関係によって分節化された内容の理解に言及している。しかし、それは、(『精神現象学』の)「序文」の用語をもちいて、「実体を主体として捉えること」という用語で表現できる――しかし「主体の活動性の様相における実体-且つー主体」と語る方がよいだろう――これは生気のない物を意識のあるものとして解釈することではない。)」(418f)

ブランダムは、概念実在論と客観的観念論と概念実在論を、ヘーゲルにおける『精神現象学』の展開の三段階として理解してます。(概念実在論については、私にはまだ説明の準備ができていません。)

二つの語彙の相互的意味依存について、問答推論の観点から考察するとどうなるかを、次に考えたいと思います。

57 「推論的概念実在論」から「問答推論的概念実在論」へ(20220129)

[カテゴリー:問答の観点からの認識]

#「問答推論的概念実在論」へ

ブランダムの概念実在論は、客観的事実が概念的であること、つまり推論的関係(両立不可能性と帰結)にあることを主張するものでした。したがって、それを「推論的概念実在論」とか「推論的関係実在論」とよぶこともできるでしょう。

 ところで、推論は、現実には、問いに対する答えを求めるか過程として成立するものです。つまり問答推論の一部として成立するものです。したがって、事実が他の事実との推論的関係において成立するということも、より正確には、事実が他の事実との問答推論関係において成立するということだと言えます。

ブランダムは両立不可能性と帰結について次の例を挙げています。「これは銅である」は「これはアルミである」とは両立不可能であり、「これは銅である」から「これは電導体である」が帰結します。これらの推論は、問答推論の観点から見ると、問いに対して答える過程として成立します。「これはアルミですか?」という問いに答える時に、「これは銅である。ゆえにこれはアルミではない」という推論が使用されます。また「これは電導体ですか?」という問いに答える時に、「これは銅である。ゆえにこれは伝導体である」という推論が使用されます。

ブランダムは、このような客観事実の概念構造ないし推論的関係は、人がそれを認識しなくても、あるいは人がいなくても、成立していると(一応)考えます。私は、この推論的関係を問答推論関係として理解しますが、その場合にも、問答推論的関係は、人がそれを問い認識しなくても、また人がいなくても、成立すると(一応)考えます。それを次に説明します。

#問答関係は、無時間的な意味論的論理的関係である。

 問答推論関係は、より一般的に述べれば次のようなものです。Q、r、s、┣pという問答推論(Qは疑問文、r、s、pは平叙文で、r、s、pの間には通常の推論関係r、s┣pが成り立っており、pはQの答えになっている)が成り立つとしよう。この関係は意味論的論理的関係であり、問答推論が妥当であるとは、Qが健全であり、r、sが真であるならば、pが真となるという意味論的な関係が成り立つということです。「問いが健全である」とは、問いが真なる答えを持つことを意味します。(ここでの妥当性の説明は、「真」の理解を前提して、推論の妥当性を説明していますが、私は最終的にはそのようには考えません。このような語り方をするのは、とりあえずの説明のための方便と考えてください。より詳しくは、カテゴリー「『問答の言語哲学』をめぐって」の51~54回をご覧ください。)

 このように考える時、問答推論関係は、通常の論理的関係や数学的関係と同じく、経験的世界とは独立に無時間的に成立するものです。しかし、この理解は、推論の妥当性を、問いの健全性と命題の真理性に基づいて説明しています。(後で述べますが、ブランダムが、形式論理は実は実質論理であると考えているように、私も形式的問答推論は、実は実質的問答推論であり、前者は後者からの抽象によって成立すると考えています。)

 このことをここで確認するのは、つぎのような疑念に答えるためです。<事実が概念的構造、推論的関係を持つことは、人がそれを知らなくても、あるいは人がいなくても、成立すると言える可能性がある。しかし、問答推論関係は、人がそれを問わなければ、あるいは人がいなければ、成立しないのではないか>という疑念に対して、そうではないというためです。

さて、ブランダムは、客観的推論的関係を主観的推論的関係から独立したものとして、捉えるのですが、しかし、他方では、「主観的次元と客観的次元の相互的意味依存(reciprocal sense-depenedence)」(SoT 86)を語ります。つまり、客観的概念構造は一応は、主観から独立に成立しているのですが、意味論的にはそうではない、と言うことです。では、両者の存在論的関係はどうなるのでしょうか。

 次に、この「相互的意味依存」を説明し、二つの次元の存在論的な関係を考え、それに依拠して、「問答推論関係」についても同様のことが成り立つことを説明したいと思います。

56 「概念実在論」の二つの問題(20220126)

[カテゴリー:問答の観点からの認識]

久しぶりにこのカテゴリーに戻ってきました。

2022の『問答の言語哲学』の合評会で、ハーバーマスからのブランダムの「概念実在論」に対する批判について、どう考えるのか、という質問を受けました。ハーバーマスのブランダム批判と、ブランダムからの応答については、カテゴリー「『問答の言語哲学』をめぐって」で説明しました。それを受けて、私自身が「概念実在論」についてどう考えるかを説明しなければならないのですが、この議論は、『問答の言語哲学』の主題ではなく、むしろ次著として計画している『問答の理論哲学』(仮)の主題に関わるものなので、このカテゴリーで論じたいと思います。

(その議論は、問答の観点から認識論を再考するというこのカテゴリーの趣旨にそうものです。またこのカテゴリーでの課題として残っていた問題(前回55回を参照)、「現象の領域と理論の領域の区別」をどのように行うか、という問題にもかかわってくる議論になると思います。)

#「概念実在論」の二つの問題

ブランムが「概念実在論」について最も詳しく述べているのは『信頼の精神』(Spirit of Trust、SoT)ですので、ここでは主として、この著作での「概念実在論」を論じたいと思います。ブランダムによれば「概念的である」とは、「実質的な両立不可能性と帰結の関係にあること」(SoT 54)(「実質的な」の意味はいずれ説明します)ということです。そして、「概念実在論」(SoT 3)とは、「客観的世界をつねにすでに概念形式の中にあるものとして理解すること」(同所)です。あるいは「自然科学が物理的実在として露わにする客観的事実と性質が、それ自体、概念的形式の中にある」(同所)、あるいは「世界がそれ自体で客観的に存在する仕方は、概念的に分節化されている、という主張」(同所)です。

<「客観的事実と性質」が概念的であること、つまり互いに非両立性や推論的帰結の関係にあること>これについては、ほとんど異論はないでしょう。以下で考えたい問題は二つです。

一つは「この概念構造を私たちはどのようにして認識するのか」という認識論の問題です。もう一つは、「この概念的構造の存在をどのようなものと考えるのか」「この概念構造は、事実そのものの構造として私たちの理解とは独立に存在しているのか、それとも私たちの言語や理論によって構成されたもの、私たちが構成したもの、として存在するのか」という存在論の問題です。

今の私には、この二つの問題を分けて、どちらかを解決してから他方を解決するというような仕方で、取り組むことが難しいので、とりあえずは、この違いに注意しつつも、ときに二つを横断するような仕方で考えたいと思います。

(ブランダム=ヘーゲルは、この存在論の問題について「客観的観念論」で答えます。これについてもいずれ考察します。ブランダム=ヘーゲルは認識論の問題については「概念的観念論」で答えているのだろうと予測します。これについてもいずれ考察します。)

まずは、『問答の言語哲学』でブランダムの推論的意味論を問答推論的意味論に拡張したとの同じように、ここでもブランダムの「概念実在論」を問答推論の観点から再考したいと思います。

78 佐々木さんの質問への回答(8) 問答の観点からの「概念実在論」批判 (20220122)

[カテゴリー:『問答の言語哲学』をめぐって]

今回は「質問1、私は「概念実在論」を採用するのかどうか」に答えたいと思います。

前回示述べましたが、ハーバーマスが批判する「概念実在論」は次の主張1+主張2でした。ブランラムは主張1を「概念実在論」と呼び、主張3(あるいは主張1+主張3)を「客観的観念論」と呼びます。

主張1:存在するのは、物ではなく事実であり、事実は、概念的に構造化されています。事実は、他の様々な事実と、推論的関係(帰結と両立不可能性)にあります。

主張2:ある事実が暗黙的に持つ推論関係が無数にあります。そしてほとんどの推論関係は現実には語られていません。しかし語られていなくても、すべての事実は、他の事実との間に帰結や両立不可能性などの関係を持ち、それによって成立しています。

主張3:ある事実の他の諸事実との客観的推論的関係(帰結と両立不可能性)とある事実についての主張と他の諸事実との主観的推論関係(帰結と両立不可能性)は、相互に意味論的依存の関係にあります。したがって、事実は、事実についての主張から離れて成立するものではありません。

この主張3には次のような問題点があります。

問題点1:ブランダムの理解では、客観的推論的関係と主観的推論的関係はともに実質的推論的関係であり、訂正の可能性に開かれています。客観的推論的関係が修正されるとき、事実そのものが変化するのではなく、事実についての私たちの理解が変化するのではないでしょうか。もしそうならば、客観的推論的関係とみなされてきたものは、実は主観的推論的関係であるということになります。

問題点2:デイヴィドソンとローティは、異なる概念枠が存在することを認めません。ブランダムもおそらくそうでしょう。このとき、上のような問題が生じますが、これに加えて、次のような問題も生じます。論理学には、古典論理学、直観主義論理学、パラコンシステント論理学などあいます。様相論理学にも、古典的なものと直観主義的なものがあります。また様相論理の意味論としては、可能世界意味論のほかに、Belnapのbranching space and time theoryのようなものもあります。またこれら以外にも多くの論理学が可能だろうとおもいます。問題は、これらから一つを実質的な論理学として選択することは難しい、ということです。同様のことは、科学理論の場合にも生じます。競合する科学理論があるときに、どれを実質的な理論として選択することもできないということです。

これらの問題点は、直接実在論者にも生じる問題であるかもしれません。私は、これらの問題を、問答推論の観点から解決できるだろうと考えています。その説明は、簡単だろうと思っていたのですが、すこし込み入った議論になりそうです。これは次著として計画している『問答の理論哲学』の重要なトピックになりそうなので、別のカテゴリー「問答の観点からの認識」に移ってこの議論の続きを行いたいと思います。

しかし、ここで回答すべきご質問がまだ残っています。それらのご質問には、「概念実在論」への批判的考察が一段落した時点で、このカテゴリーに戻ってお答えしたいと思います。

備忘録として、他のご質問について記しておきます。

合評会の質疑の中では、嘉目道人さんから『問答の言語哲学』第4「問答論的超越論的論証」

で論じた規範の超越論証について次のような質問をいただきました。

「アーペルの討議倫理学では、討議の超越論的条件として規範を論証するのですが、アーベルがいう討議のための超越論的条件は、理想的なものとして考えられています。では、入江さんが論証する超越論的な規範は、アーペルが言うような理想的な統制的原理なのか、それともそれを満たしていないとそもそも問答が成り立たない構成原理なのでしょうか。」

三木那由他さんからの質問は次のようなものでした。

「ブランダムが反表象主義の立場から批判している「指示」や「表示」の使用を、入江さんはわりと無造作に使っているように思えるのですが、それはブランダムのアプローチをフルパッケージで受け入れるということと矛盾しないでしょうか。また「指示」と「表示」同じような仕方で説明するのでしょうか。」

朱喜哲さんからの質問は次のようなものでした。

「入江さんが、知覚報告を上流推論を持つと考えることは、ブランダムが採用しない、超推論主義をとることになるのではないでしょうか」

このご質問については、朱さんへの回答(55回)で回答しました。

77 佐々木さんの質問への回答(7) ハーバーマスの批判は成功したか (20220120)

[カテゴリー:『問答の言語哲学』をめぐって]

佐々木さん質問は、(71回で述べたように)次のようなものでした。

「ハーバーマスは、ブランダムの推論主義をとるとき「概念実在論」にいたると指摘し、その点を批判していました。入江さんが、ブランダムをフルパッケージで継承し、推論主義をとる時、「概念実在論」をとるのでしょうか。また入江さんはハーバーマスが「概念実在論」を批判することについては、どう考えるのでしょうか。」

これに答えるためにここまでは、ハーバーマスとブランダムの「概念実在論」の理解と論争を確認してきました。とりあえずの準備は出来たので、これに答えたいとおもいます。ご質問をさらに短くまとめると次の二つです。

  質問1、私は、「概念実在論」を採用するのかどうか。

  質問2、私は、ハーバーマスによる「概念実在論」への批判をどう考えるのか。

(質問1への答えを考えていたのですが、まだ時間がかかりそうなので)

まず質問2に答えたいと思います。

ハーバーマスの考えている「概念実在論」は、ブランダムの用語を使って、次のふたつの主張の組み合わせとして理解できると考えます。

主張1:存在するのは、物ではなく事実であり、事実は、概念的に構造化されています。事実は、他の様々な事実と、推論的関係(帰結と両立不可能性)にあります。

主張2:ある事実が暗黙的に持つ推論関係が無数にあります。そしてほとんどの推論関係は現実には語られていません。しかし語られていなくても、すべての事実は、他の事実との間に帰結や両立不可能性などの関係を持ち、それによって成立しています。

ブランダムは、主張1を認めるのですが、主張2を批判します。ブランダムは主張2を次の主張3に取り換えると思います。

主張3:ある事実の他の諸事実との客観的推論的関係(帰結と両立不可能性)とある事実についての主張と他の諸事実との主観的推論関係(帰結と両立不可能性)は、相互に意味論的依存の関係にあります。したがって、事実は、事実についての主張から離れて成立するものではありません。(ブランダムは、主張3を(あるいは主張1+主張3を)「客観的観念論」と呼びます。)

ハーバーマスによる主張2への批判は、正しいと思います。しかし、ブランダムは主張2を採用していないのだから、それはブランダムへの批判にはなりません。

ハーバーマスのブランダムに対する第二の懸念、I-youコミュニケーションへの軽視については、ブランダムも認めています。しかし、I-youコミュニケーションを重要ではないと考えているわけでありません。彼がそれを今後考察する可能性はあるとおもいます。ここでは、「主張」を基礎的な言語行為とみなすことに対する批判も述べられていましたが、ブランダムはそれに直接には応答していなかったように思えます。ブランダムのいう「主張」は大変広い概念ですが、キーポイントはそれが「理由を与え求めるゲーム」を始める行為であるという点だと思います。それゆえに、遂行的は発話(命令、依頼、約束、表現、宣言)などもまたこの「主張」に含まれると思います。この「主張」は、記述であるとか真理値を持つとかによって、他の言語行為から区別されるようなものではありません。オースティンやサールがいう「主張」ではありません。したがって、遂行的発話の重要性を軽視しているという批判は当たらないとおもます。

第三の懸念、認識判断の規範性と道徳判断の規範性を同質化するという批判については、ブランダムは、判断の規範性一般の考察を、道徳を考える上でも必要になる基礎的な考察として行っていると答えていました。認識の規範性と規範(道徳的規範に限らない規範)の規範性が異質なものではないかというハーバーマスの批判に対して、ブランダムのこの応答は十分であるとは思えません。二つの規範性が異質であるか、同質であるかについて答える前に、それらの規範性についての分析を進める必要があるという応答ならば、私はそれに賛成します。

以上のように考える時、ハーバーマスのブランダムへの批判(懸念)は、成功しているとは言えません。しかし、ブランダムの立場を明示するうえでは、大いに役立ったとおもいます。

次に質問1に答えたいと思います。

76 佐々木さんの質問への回答(6) ブランダムのハーバーマスへの応答(3)規範的事実について (20220117)

[カテゴリー:『問答の言語哲学』をめぐって]

ハーバーマスの懸念3は、規範的事実の観念をめぐるものでした。ブランダムは事実の記述にも規範性を認めるので、事実と規範の区別がなくなり、そこから道徳実在論が帰結するという懸念でした。この懸念は、事実と規範の区別がなくなることへの批判と、そこから道徳実在論が帰結することへの批判の二つに分けられます。

ブランダムは第一の批判にIIIで答え、第二の批判にIVで答えています。

まずIIIでの応答を紹介したいと思います。

ブランダムは、ハーバーマスが重視する<事実と規範の区別>が重要であることを認めたうえで、この区別を、<非規範的事実と規範的事実の区別>として捉えます。その理由は、ブランダムが事実でないものは存在しない、と考えるからであろうと推測します。なぜなら、彼にとって事実とは概念的に構造化されたものであり、存在するものは概念的なものだけであり、非概念的なものは存在しないので、事実でないものも存在しないと考えるからであろうと思います。

 この非規範的事実と規範的事実の区別は、語彙の区別によって可能になるとされます。「規範的語彙」とは、「コミットメント」や「資格付与」のような語彙であり、実践的推論を可能にするものです。このような語彙は非規範的事実について推論するときには不要なものです。

ここでブランダムは、「規範的事実」を語ることについてのハーバーマスの懸念を次のように説明します。

「ハーバーマスの懸念のいくつかは、<規範的事実についての語りが、例えばコミットメントを引受けるということによって、私たちがそのような事実[規範的事実]をつくりだすことができることを認めることを妨げる>という印象から生じるように見える。あたかも、すべての規範的事実は、私たちの実践的活動性から独立して、すでにそこにあり、多くの非規範的事実と同様に、私たちの認知的認可だけを待っている、に違いないかのようである。」(365)

ブランダムは、確かに「判断と信念は、行為への意図と同じく、規範によって導かれる」のだが、しかし「行為に対する記述的関係と指令的関係の違いは、明白である」と言う。また「実践的コミットメントは、信念的コミットメントから簡単に区別できる」と言う。「というのも、両者は推理において大変異なる役割を持つからである。特に実践的推理においてかなり異なる役割をするからである。(実践的推理においては、実践的コミットメントは、前提および結論として役立ち、信念的コミットメントは、前提にだけ役立つ。)」(366)

つまり、非規範的事実を主張することは、信念的コミットメントを引受けることであり、規範的事実を主張することは、実践的コミットメントを引受けることです。この二つのコミットメントは非常に異なります。前者は信じることへのコミットメントであり、後者は行為することへのコミットメントです。この二つの違いは、上に述べたように推論における役割の違いによって明示化されます。それゆえに、「規範的事実」について語っても、規範を実在論的に捉えることにはならないというのです。

 ここでのブランダムの応答の論旨は、複雑で私には、また不明なところがあります。

 ここでブランダムは規範的事実と非規範的事実を区別して、私たちは、非規範的事実については、それを発見するが、規範的事実については、それを発見するのではなく、作りあげる(produce)すると言っているように思われます。

 しかし他方では、ここでブランダムは、事実と事実の主張の間の依存関係を分析しようとしていて、それによって、(規範的事実だけでなく、非規範的実も含めて)事実が、主張から離れて存在すると考えることを、見直そうとしているように見えます。その議論は、後のTMDやSoTにおける議論<客観的推論的関係(客観的両立不可能性)と主観的推論的関係(主観的両立不可能性)の、相互的意味論的依存関係の主張>につながっていくものだと思われます。

 複数の議論の筋道が絡まっているように思われるのです。

(ここでは、事実と主張の間の「明示化的非対称性」の説明がなされており、「事実」の理解と「事実の主張」の理解の間の関係(後のFDMやSoTで名付けられる「相互的な意味論的依存」)の分析が行われています。この点に関する議論が面白いので、ここに備忘録として記しておきます。

「<概念Aが概念Bへの関係をはなれては理解できないがゆえに、Aは、Bが存在することなしには、存在しえない>と考えることは間違いである。」36

ブランダムは、これを仮想の「δ粒子」の比喩で説明します。

「δ粒子発生器の概念は、δ粒子の概念を離れては理解できない。しかし、その装置は、その粒子が存在する前から存在しているかもしれない。」369

同じように、「δ粒子検出器」の概念は、δ粒子の概念なしには理解できない。しかし、その装置は、δ粒子が存在しなくても存在している。

主張は、事実の検出器です。主張(事実検出器)の概念は、事実の概念なしにはないのですが、しかし、事実がなくても、主張(事実検出器)は存在します。つまり、<事実の主張は、事実に意味論的に依存する>ということになります。

 他方で、後の「相互的な意味論的依存」のために必要なのは、これとは逆の関係です。事実の明示化は、事実の主張によって行われます。したがって<事実は、事実の主張に意味論的に依存する>ということです。こちらの方はわかりやすいと思います。 }

#次にIVでの道徳実在論になるという批判への応答を説明します。

IIIでのべたように「規範的事実」を認めても、MIEは「非規範的事実」と「規範的事実」の区別を重視するので、「規範の実在論」にはなりません。したがって、また「道徳実在論」にもなりません。

「MIEでは、実践的コミットメントを信念的コミットメントと同化しないことが重要である。

特に、実践的コミットメントは、実践的な行為から独立である事実に対して、その正しさに関して責任を負うと見なされるべきではない。」370

MIEでは、「実践的コミットメント」について論じますが、「道徳的コミットメント」はその一部にすぎません。MIEでは、規範についても語りますが、そこで語られるのは「無条件的規範」(道徳的規範)だけでなく、「道具的な規範」「制度的な規範」などがあります。

「MIEは、このトピック(道徳的コミットメント)については公式には沈黙している。」(371)

それは、「規範性の理論家が道徳的規範にフォーカスするという事実によって、概念的規範性の理解が妨げられてきた」(371)考えるからであると言われています。

このように述べた後、ブランダムは、道徳についての二つの極、「自然種的懐疑論(natural kind skepticism)」(入江:道徳的概念を自然種名の一種とみなす立場なか、それとも自然種だけを認め道徳を認めない懐疑論なのか、よくわかりません)と超越論的表現的理解(カントやハーバーマス)の間に多くの立場がありうるが、MIEの仕事は、それらのための概念的源泉を提供することにあると述べています。

さて、以上でハーバーマスのブランダム論に対するブランダムからのReplyの紹介を終わります。

次に、「問答推論を重視するとき「概念実在論」についてどう考えることになるのか」に答えたいと思います。

76 佐々木さんの質問への回答(5) ブランダムのハーバーマスへの応答(2)二人称視点の軽視について (20220116)

[カテゴリー:『問答の言語哲学』をめぐって]

ハーバーマスのブランダムへの懸念2は次でした。

2,言語的実践にアプローチする義務論的スコア記録は、(第三人称のパーペクティヴと対比されるものとしての)二人称の視点をどこまで取りこめているのか。

ハーバーマスは、話し手と聞き手の二者関係でのコミュニケーションが、コミュニケーションの基礎にあると考えます。そこでは伝達よりも、同意の獲得が目標とされています。ハーバーマスは、この点を重視し、相互理解を言語の目的と考えます。それに対して、ブランダムはI-youのコミュニケーションの重要性に気づいていないと批判します。

ブランダムは論文のIIで、これに対して次のように応えています。

<ハーバーマスの言うようにI-you交流は重要であるのかもしれないが、その点に確信が持てない> と。

 しかしブランダムは、言語の目的を相互理解や合意の達成だとすることに反対します。なぜなら、共同行為は、そのような相互理解なしに可能だからです。全員が同じことをする軍隊の行進ではなく、ダンスをモデルに考えます。ダンスでは、パートナーは異なる動きをします。それがうまく組み合って滑らかなダンスになるのですが、しかしその時に、二人がダンスについて一つの理解を共有していることは確かめられないし、必要でもない、と言います。

二人は、「それぞれの異なる運動の協働によって構成されるダンスをシェアしている」のですが、「そのようなプロセスにおいて「共有」されているものは、様々なパースペクティヴから現象するのであり、そのさまざまなペースペクティヴへの指示による以外には、原理的に特定不可能である。」(363)

「言語的実践は何かのためではない。それは、全体として、目的やゴールをもたない。たしかに、言語的実践は、多くの機能をみたす。しかし、そのどれも言語の存在理由ではない。」363

ここでまでの応答は正しいように私には思われます。しかし、ブランダムはさらに次のように踏み込みます。

「相互理解、協働的な企ての追求は、言語的実践によって可能になる。しかし、私は、それらを、言語的実践の核心や目的やゴールであると見なすことできるとは思わない。」364

「MIEの目的は、より基礎的な主張実践を記述することであり、そこで問題になるのは、どんな遂行、反応、スコア記録の態度が適切であるのか、ないし正しいのか、ということである。」364

遂行的な発話行為が、主張型の発話よりもより基礎的であると考えるハーバーマスは、ここで戸惑うでしょう。ブランダムにとっての「主張」は、オースティンが事実確認型発話と行為遂行型発話に分けたときの「事実確認型発話」や、サールの発語内行為の分類の中の「主張型発話」とは一致しないものであるように思われるからです。

ブランダムは、とにかく「主張」を言語にとっての中心的なもの(down town)とみなすのです。ハーバーマスならば、ブランダムがこのような「主張」を言語の中心的なものとすることができることの背景には、つまり相互理解を目指さなくても問題が生じないと考える背景には、概念実在論の想定があると指摘するかもしれません。(この点についての私の考えも、後に述べることにします。)

 次に、最後の懸念3についてのブランダムの応答をみたいとおもいます。

 74 佐々木さんの質問への回答(4) ブランダムのハーバーマスへの応答 (20220114)

[カテゴリー:『問答の言語哲学』をめぐって]

今回と次回は、ブランラムからハーバーマスへの応答’Facts, Norms, and Normative Facts: A Reply to Habermas,’を紹介します。

ハーバーマスは、前掲書第3章の後半、4節、5節、6節でブランダムのMIEに対する懸念をのべていました。ブランダムは、この論文の冒頭でこの懸念を次のようにまとめています。

1,ブランダムの概念実在論では、概念的に分節化された事実からなる世界のなかで言説実践が成立するが、それらの事実の概念構造は、言説実践のおかげで成立するのではない。

2,言語的実践にアプローチする義務論的スコア記録は、(第三人称のパーペクティヴと対比されるものとしての)二人称の視点をどこまで取りこめているのか。

3,規範的事実の観念をめぐる懸念

ブランダムの論文はI, II, III、IVという4つに分かれていますが、Iで懸念の1に応え、IIで懸念の2に応え、IIIとIVで懸念の3に応えています。まずIでの懸念1についての応答を紹介したいとおもいます。(以下に示す数字は、ブランダムの論文のページ数です。)

ブランダムは、MIEで、<言説的実践>と<非言説的実践と単なる自然的事物の構成素>を明確に区別し、前者は、<理由を与え求めるゲーム>をすることであり、<概念を運用することないし適用すること>どみなします。

彼は、このように言説的実践と非言説的実践の区別を認めるのですが、他方、<概念的なもの>と<非概念的なもの>の区別は認めません。なぜなら「概念的なものの領域の外部には何もない」(37)ので「そのような境界は存在しない」(356)からです。さらに、彼は事実の概念的分節化について次のように述べます。

「世界はまず、物の集まりではなく、事実の集まりとして理解される。事実は、原則として語られうる(statable)ことによって弁別される。事実は、真なる主張である。「主張claim)」といのは、主張行為という意味ではなく、主張することによって表現される主張可能な内容という意味である。主張可能な諸内容(これは類であり、事実はその種である)は、互いに対して、本質的に実質推論的関係、両立不可能な関係にある。こうして諸事実は、概念的に分節化されている。」(356) (ちなみに「事実は真なる主張(claim)である」はMIE327,622にも登場します。)

このアプローチは、ハーバーマスが「概念実在論」ないし「客観的観念論」と呼んだものです。ブランダムは、ハーバーマスは概念実在論について二つの懸念を表明したと言います。それは、概念実在論が「認識論的受動性」と「意味論的受動性」にコミットしているのではないかという懸念です。ブランダムは論文のIでこの二つの「受動性」に関わる懸念を順番に取り上げます。

 まず「認識論的受動性」ですが、ハーバーマスは「概念実在論」を認識論的概念ではなく、形而上学的概念として理解しており、認識論に関してブランダムを批判していないと思うで、ブランダムがハーバーマスの議論をこのようにまとめるのは少し的外れであるような気がします。ただし、形而上学的な主張はつねに認識とかかわってしまうのも事実です。実際、ハーバーマスは、「こうした「実在論的な」世界理解は、経験には、受動的な媒介の役割しか認めないことになる。」(ハーバーマス『真理と正当化』邦訳、199)と批判していました。この点が、概念実在論は「認識論的受動性」にコミットしているという批判になるのでしょう。

 さて、ブランダムは、この批判に次のように応えます。

「私たちは、観察するのではなく、実験する。私たちは、理論と仮説を作り、それらをテストし、それらを修正する。認知は、認知、行為、認知というフィードバックに支配された循環の一要素としてでなければ理解できない。」357

「<私たちの言説実践を、その実践から独立な事実の世界に根差すものとして見て、私たちの主張を、正確さに関してそれらの事実について責任をもって答えることとして見ること>は、知識の傍観者理論へのコミットメントを決して含んでいない。」(358 下線は入江、< >は文の構造を明示するための、入江による附加)

ブランダムは、ここで「対象からなる世界」と「事実からなる世界」の区別について次のように述べます。ブランダムは、「世界はまず、物の集まりではなく、事実の集まりとして理解される。」(356)というのです。「事実の観念は、対象を明示的に含まない言語において解明されることができる。」358これについては、MIEの6章と8章で行ったと言われます。しかし逆に、「対象からなる世界の構想から始めて、対象を含む事実が何から成るについての理解可能な説明を作り上げる」ことはできない、と言います。例えば、対象についての説明から、事実(特に様相的事実や規範的事実)を説明することは難しいのです(Cf,358)。

この二つの存在論は、二つの意味論の関係に似ていると言われています。(cf.358)。

<存在論における>――<意味論における>

対象ベース存在論 ―― 唯名論的意味論 

事実ベース存在論 ―― 文意味論

ブランダムが「概念的に構造化されている」とか「概念的に分節化されている」と言うのは、対象や物や世界ではなく、事実なのです。

#次に、概念の「意味論的受動性」に関する批判へのブランダムからの応答をみましょう。

概念の「意味論的受動性」への批判とは、<事実を分節化している概念が、私たちが発見べきものであり、受動的に受け取るものだとすると、「概念的発展、概念の開発、修正、という重要な観念を理解できないものにする恐れがある」359>という批判です。

このような「意味論的受動性」への批判に対して、ブランダムは、言明の意味と言明の真理性を区別する二元論を批判することで答えようとします。

「<私たちの言明の意味は、全く私たち次第である。しかし、私たちが表現するその信念の真理は、私たち次第ではない。>私は、この実証主義的見取り図を拒否すべきであると考える。」360

つまり、言明の意味と言明の真理性は、不可分に結合している。

「<何が何から帰結するか(正しい概念とは何か)を語ること>と<どんな主張が真であるか(事実は何か)を語ること>は、解けないほどに互いに結合している。」360

「私たちは、<私たちの活動性から離れると、主張も推論もない>ということに、コミットする。」360

認識が単に受動的なものでも単に自発的に創造されたものでもないとすると、認識と不可分に結合している概念(言明)をつくることや言明(概念)を理解することも、単に受動的なことでも単に自発的に創造することでもない、と言うことになります。

冒頭にあげた懸念1は次でした。

ブランダムの概念実在論では、概念的に分節化された事実からなる世界のなかで言説実践が成立するが、それらの事実の概念構造は、言説実践のおかげで成立するのではない。

ここでは、<言説における概念的な分節化>が<事実の概念的な分節化>に一方的に依存するという考えが批判されている。これに対して、ブランダムが答えるのは、この二つの間には、逆方向の依存関係もあるということです。TMDになると、この二つの概念的分節化を分離して考えるのが、「概念的実在論」であり、この二つの概念的分節化を「意味論的相互依存」の関係においてとらえるのが、「客観的観念論」であるというようになります。(この点については、問答の観点から、後で論じることにします。)

 次に「概念実在論」に対する懸念2と3を説明したいとおもいます。

73 佐々木さんの質問への回答(3) ハーバーマスによるブランダム「概念実在論」への批判 (20220110)

[カテゴリー:『問答の言語哲学』をめぐって]

ハーバーマスは『真理と正当化』(1999)の「第三章 カントからヘーゲルへ――ロバート・ブランダムの言語語用論」において、ブランダムを「概念実在論」と規定し、それを批判します。前々回、MIEとARには、「概念実在論」という語は使用されておらず、TMDでは論じられているので、ハーバーマスの「概念実在論」についての理解はTMDに基づくものだと勘違いし、前回TMDでの「概念実在論」を紹介しました。しかし、数日前に気づいたのですがTMDの出版は2002でした。大変失礼しました(正月ボケですね)。

ハーバーマスはこの第三章で、ブランダムのMIEでの立場を「概念的実在論」ないし「客観的観念論」として規定しているのですが、彼は、ブランダムのヘーゲル論から、この概念を取り出したのではないし、この章で、ブランダムのヘーゲルの理解を論じているわけではないようです。この章のタイトル「カントからヘーゲルへ」は、ブランダムの「概念実在論」が、カントよりもヘーゲルに近いものになることを示しているので、ブランダムのヘーゲル論に由来するものだと勘違いしたのです。

以下に紹介するハーバーマスのブランダムの「概念実在論」への批判に対して、Brandomは、2000年にRēplyを書いています。これについては次回に見ることにし、今回は、ハーバーマスのブランダム批判、概念実在論批判を確認します。

この章は、6つの節から成っており、前半の3つの節は、MIEのブランダムの議論のまとめです。ブランダムついて、論評するのは、後半の4、5、6節です。4節で、ブランダムの立場を「概念実在論(conceptual realism)」であると規定します。(この語は、歴史的には、中世の普遍論争における「実念論」に始まるようです。ハーバーマスは、先人への言及を何もしていないので、ハーバーマスはここでこの語をおそらく独自の用法として使おうとしているのだと思います。)

 

ハーバーマスは、4節でブランダムの立場について次のように言います。

「われわれが立ち向かっている世界をブランダムは唯名論的に理解する気は毛頭なく、むしろ――老パースと同じに――「実在論的に」捉える。「実在論的」という用語を、近代の認識論における実在論の意味ではなく、形而上学的な概念実在論の意味で使ってよければだが」(ハーバーマス『真理と正当化』三島憲一、大竹弘二、木前利秋、鈴木直訳、法政大学出版局、2016、199)

ここで言う「概念実在論」は、「形而上学的な概念実在論」です。それは唯名論と対比されているので、中世の「実念論」と全く無関係というのではないようです。それはまた、近代の認識論における実在論とも区別されています。それは形而上学的な主張であり、次のように説明されます。

「概念や推論の実質的ルールの客観性をブランダムは、それ自身として概念的に構造化された世界の内に根をもったものとみている」(同訳、198f)

ハーバマスは、ブランダムのMIEから次の箇所を引用してこの理解の正しさを示します。

「諸々の概念が推論的に分節化されているという考えは、思考はほぼ同じように、そして特定のケースでは同一に、概念的に分節化されているという、思考と世界についての見取り図を与えてくれる」(MIE622)

ブランダムは、「概念」が認識論的な概念でないことを、次の箇所で説明しています。

「表現の推論的役割りとして捉えられた概念は、認識論上の媒介手段、つまり、こうした概念によって構築されたものと、われわれの間にある中間の媒介物として役立っている、というように考えてはならない。部分的なものから成る因果的秩序、質料が思考に提供する相互関係などというものがないからそのようにいうのではない。むしろ、いっさいのこうした要素それ自身が完全に概念的なものとして捉えられているからである。概念的なものと対立するものとして捉えられているわけではない」(MIE622) 202

ハーバーマスは、これは認識論的な概念でないので「超越論的な言語観念論」ではなく「客観的観念論」であると見なして、次のように説明します。

「ブランダムはウィトゲンシュタインとは異なって、こうした表現を、超越論的な言語観念論の意味では考えない。つまり、「われわれの」言語の限界がわれわれの世界の限界であるというようには考えない。むしろ彼にとってより当然とおもえるのは、客観的言語観念論である。世界がそれから成り立っている諸々の事実は、基本的には、真なる命題で陳述可能なものとしてあるのだから、世界もそうした性質の存在である、つまり概念的な本性を持っている、ということになる。」(同訳、202f)

ハーバーマスは、「概念実在論」とか「客観的言語観念論」「客観的観念論」をほぼ同じ意味で用いています。ちなみに、彼はこの本の「第4章 脱超越論化の道」において、ヘーゲルが「客観的観念論」へ向かった経緯を論じている。

#ハーバーマスは、5節では、「概念実在論」に基づくコミュニケーション理解を批判します。

ハーバーマスによれば、「発信者から受信者への情報の伝達というコミュニケーション・モデルは間違っている。」210なぜなら、「話し手はただ正しく理解してもらいたいだけではない。それ以上に、誰かと〈p〉について了解し合いたいのだ。…なぜなら、語られた内容は、話し手と受け手の両者が共に〈p〉と信じてはじめて、それに続く相互行為の前提として相互行為に組み込まれていくからである。真理請求は、間主観的な承認をめざしてなされている。」210

ハーバーマスによれば、ブランダムも確かに「情報伝達モデル」とは異なる「スコア記録モデル」「ダンスモデル」を提示しているが、しかしこれらは「方法的個人主義」をとっている。そして、方法論的個人主義と概念実在論に立つならば、「真理と、真とみなすこととの区別をつけるのは、それぞれひとりひとりのディスクルス参加者のすることになり、正当化共同体が、ディスクルスによって合意を得るという目標を思考する必要がなくなる。なぜなら、内容の客観性は――ディスクルスによって展開され、分節化されるにすぎない――世界の概念的構成そのものによって保証されている(という前提に全員が立っている)からである。」(同訳、212)

 ハーバーマスによれば、ブランダムはコミュニケーションを捉え損ねています。

#ハーバーマスは、6節では、ブランダムによる道徳の理解を批判します。

ブランダムの概念実在論では、「規範的命題は、記述的命題と同じように事実を、まさに規範的事実を描いている」(同訳、215)と考えます。

ブランダム曰く

「事実確認的な語りは、規範的な用語で説明される。そして、規範的事実は、事実のさまざまな種類の一つとして現れる。両者が、つまり事実確認と規範的事実が特定され説明される。共通の義務論的なスコア記録のための語彙は、規範的語彙と非-規範的語彙の区別に相応するのが、規範的事実と非-規範的事実の区別である。[…]このようにして、規範的なものは、事実的なものの副次的分野として特記される。」(MIE625) (同訳、215、ゴチは入江)

したがって、カントの道徳論と対立する。

「カントと異なってブランダムは、実践理性と理論理性を、合理的行動という同じ公約数に引き戻してしまっている。」(同訳、214)

しかし、ハーバーマスは、この二つを分けなければならないと考える。

「道徳的行為を正当化する理由は、事実に関する理由とは別の認識上の性質をもっている。まさに、道徳的な――しかしまた倫理的もしくは習慣的な――性質の実践的推論においてこそ、理由のカテゴリーに関しての不均衡が明らかとなる。」(同訳、220)

「行為の意図の正当化がブランダムの考えているように、確言的発話行為の理由づけのモデルで理解しうるということにはならない。」(同訳、220)

そして、ハーバーマスによれば、このような道徳理解は、ブランダムの他の主張とも不整合である。

「ブランダムも推奨する道徳の義務論的理解は、道徳的語彙の、彼が提案する概念実在論的な理解には適合しない。」221

「事実と規範の非連続性を均してしまうようなイメージには、カントの自律概念はそぐわない。」221

以上をハーバーマスのブランダム批判の紹介とします。ハーバーマスは、発話の遂行的機能を基本的なものとして重視しますが、これに対して、ブランダムは、「主張」を特別な基本的な発話行為として重視します。ハーバーマスからみると、ブランダムの「概念実在論」は、この「主張」という発話行為を重視すること結びついて、(5節と6節でみたような)問題を引き起こしているのです。(ハーバーマスと同じように、私もまた発話の遂行的機能を基本的なものと考えています。したがって、ブランダムがこの批判にどうReplyするのか、大変興味があります。)

そこで、このような批判に対する、ブランダムからのReply* を次に見たいとおもいます。(その後で、問答の観点から「概念実在論」の批判を述べます。)

*’Facts, Norms, and Normative Facts: A Reply to Habermas,’ European Journal of Philosphy 8:3 ISSN 0966-8373 , Blackwell Publishers Ltd. 2000.

https://www.academia.edu/Documents/in/Robert_Brandom にupされています)