09 実践的問いを問うのはどのような場合か(1) (20201023)

[カテゴリー:人はなぜ問うのか?」

 実践的な問いとは、答えが真理値をもたない問いである。例えば、「パンを作るにはどうすればよいだろうか?」の答えが「イーストを手に入れよう」であるとき、この答えは命令文であるので真理値を持たない。ただしこの答えは、「パンを作るには、イーストが必要である」という条件文に基づいており、この条件文は真理値を持つ。これはつぎのような実践的問答推論になっている。

   パンを作ろう。

   パンを作るにはどうすればよいだろうか?

   パンを作るには、イーストが必要である。

   ∴ イーストを手に入れよう。

実践的な問いは、多くの場合、ある目的を実現するために「どう行為したらよいのか」を問うものである。実践的問いの答えは、多くの場合、「…しよう」という事前意図(行為に先行する意図)になる。

 実践的な問いが、<願望ないし意図と現実の衝突>から生じるのだとして、この衝突にはどのような場合があるだろうか。理論的問いの場合と似た仕方で、次のような場合を考えられるだろう。(1)二つ以上の願望が葛藤している場合、(2)願望と意図が葛藤する場合、(3)ある願望ないし意図の実現方法が分からない場合、である。

(1)二つ以上の願望が葛藤している場合:たとえば、目の前のケーキを食べたいと思い、同時に痩せたいのでケーキを食べるのをやめようと思うとき、この二つの願望を同時に実現することはできないが、同時に持つことはできる。このような葛藤関係にある多くの願望をもつことは日常的にあふれている。葛藤関係にあるのは二つ以上の願望の場合もある。週末に、山に行きたいし、海にもゆきたいし、美術館にもゆきたいし、映画も見たいし、小説も読みたい、などである。

 ところで、このように複数の願望が葛藤関係にあるとしても、常に実践的な問いが問われるわけではない。複数の願望の葛藤関係をそのまま放置しておくことも可能である。実践的な問いが問われるのは、その願望の中のどれかを選択しなければならないときである。では選択しなければならないのは、どのような場合だろうか。例えば、ケーキを目の前にしたとき、私がそのケーキを食べるかどうかを選択しなければならなくなるとすると、それは選択の可能性に気づいたためではないだろうか。あるときあるところで「いまここで…についての選択が可能である」と気づいたときには、そのときそこで…についての選択をすることは不可避になる。なぜなら、選択を先延ばしにすることもまた、そのときそこでひとつの選択をすることだからである。

  では、ケーキを眼にしたとき、食べるかどうかの選択の可能性があると思うのは、どのような時だろうか。各瞬間において、人にとって可能な選択は無数にあるだろう。しかしある瞬間に、人が実際に行う選択は一つであろう。では、可能な選択のなかの一つの選択に取組むことはどのようにおこなわれているのだろうか。多くの可能な選択の中からの一つの選択はどのようにおこなわれるのか? これを「選択の選択」と呼ぶことにしたい。これは、<ある瞬間において、論理的にも現実的にも可能な複数の選択の中から、その時に実際に取組む一つの選択を取り出すこと>である。

選択の選択は、そのときに人が取り組んでいる問いを解くために必要なないし有用な選択を取り出すこととして行われるのではないだろうか。

 たとえば、白い箱に入ったウェブカメラを探しているときに、白い箱の中のケーキを見つけたとしても、それを食べるかどうかという選択は、カメラ探しに必要なないし有用な選択ではないので思い至らないし、かりに思い至ってもすぐに忘れるだろう。

 この(1)の場合には、より上位の問いに答えるために、「どの願望を実現するべきか?」という問いが立てられ、その場合の<二つ以上の願望が葛藤関係にある>という現実と、<より上位の問いに答えたいという意図>が矛盾している。

 次に(2)と(3)の場合について考えよう。

08 理論的問いを問うのはどのような場合か(2) (20201019)

[カテゴリー:人はなぜ問うのか?」

前回の(1)と(2)の場合の問いの、より上位の問いはどのようなものになるのだろうか。

 まず(1)について。<(1)どちらも真であると思われる二つの命題(事実命題、論理命題、価値命題(価値命題が真理値をもつとみなす場合)、など)が矛盾している場合>に、この現実は、「整合的な認識(事実認識あるいは価値認識)を得よう」という意図と衝突するだろう。例えば、pと¬pのそれぞれに根拠があるとしよう。このとき、どちらが正しいのかを問う必要があるとすれば、それはどういう場合だろうか。

 一つは、「pか¬pか」に答えることによって、より上位の問いに答えようとする場合である。

たとえば、「p┣r」と「¬p┣s」が成り立ち、「rであるか、sであるか?」という問いQ2に答えることが必要である場合、「pであるか、¬p」であるか」という問いQ1に答えることによって、Q2に答えようとする。この場合には、より上位の問いQ2は、理論的問いである。

 しかし、「p、Γ┣r」と「¬p、⊿┣s」が成り立つ場合(Γと⊿は、文の集合)には、pが真理値を持つ命題であっても、rが真理値を持つ命題であるとは限らない。例えば、Γが「p→r」、⊿が「¬p→s」であり、rとsがともに真理値を持たない実践的命題である場合もありうるだろう。この場合には、Q2は実践的な問いになる。つまり、(1)については、より上位の問いは、(ア)理論的問いである場合も、(イ)実践的問いである場合もある。

 次に(2)について。<(2)ある知の証明・基礎付けができず、不確実ないし無根拠なままにとどまる場合>には、この現実は「確実で真なる認識を得ようとする意図」と矛盾する。この場合にも、それの答えである理論的命題を前提して、より上位の理論的問いに答えようとする場合と、より上位の実践的問いに答えようとする場合がありうるだろう。

 以上を踏まえると、(1)(2)(3)のそれぞれに、(ア)と(イ)の両方がありうることが分かる。

 次に、実践的問いを問うのはどのような場合か、を考えよう。

07 理論的問いを問うのはどのような場合か(1) (20201018)

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 前回述べたように、問いを理論的問いと実践的問いに区別し、問いが発生するのは、<願望/意図と現実が葛藤する場合>だとしよう。このとき、実践的問いが、<願望/意図と現実の葛藤>から生じることは、わかりやすいだろう。理論的問いについては、わかりにくいかもしれない。理論的な問いについても、<願望/意図と現実の葛藤>から生じることについては、つぎのように説明できるだろう。

 科学研究において、理論と観察命題が矛盾したりする場合(つまり、理論に基づく予測と実験結果や観察報告が矛盾する場合)に、理論的問いが設定されることになるだろう。そこには二つの事実命題の矛盾という現実がある。しかし、このような矛盾があるだけでは、問いが発生するには、不十分である。それとともに、整合的な認識を得たいという意図が研究者になければならない。その証拠に、金言や格言には矛盾したものが沢山あるが、人々はそれらの矛盾をふつう問題にしないからである。つまり、矛盾する命題があるというだけで直ちに問いが発生するわけではない。<事実命題の矛盾という現実>と<整合的な認識を得えたいという意図>の葛藤があるときに、理論的な問いが発生する。(参照、拙論「問題の分類」『待兼山論叢』第28号、1994、pp. 1-13、https://irieyukio.net/ronbunlist/papers/PAPER15.HTM

ところで、理論的な問いを生じさせる<願望/意図と現実の葛藤>という時の<現実>は、次のように3つに分類できるだろう。

(1)どちらも真であると思われる二つの命題(事実命題、論理命題、価値命題(価値命題が真理値をもつとみなす場合)、など)が矛盾している場合。上の段落で述べた、理論と観察命題の矛盾する場合は、この場合に属する。

(2)ある知の証明・基礎付けができず、不確実ないし無根拠なままにとどまる場合。

(3)ある事柄について無知である場合、などである。

これらは、それぞれ次の意図との間で葛藤を生じさせる。(a)整合的な認識(事実認識あるいは価値認識)を得ようとする意図、(b)確実で真なる認識を得ようとする意図、(c)ある事柄について知ろうとする意図、である。

これらの3つは、「人はなぜ理論的問いを問うのか?」という問いに対する答えとなりうるだろう。他方で、これとは違った仕方で、次のようにこの問いに答えることもできる。

 理論的問いを問うことは、行為一般と同様に、目的をもつ。その目的は、より上位の問いに答えることである。理論的な問いは、(ア)別の理論的問いに答えるために問われる場合と、(イ)実践的問いに答えるために問われる場合がある。

では、この(ア)(イ)の区別と、(1)(2)(3)の区別は、どう関係するだろうか。

(ア)では、ある理論的な問いQ1に答えるために、別の理論的な問いQ2の答えが必要であるとしよう。そして、Q2の答えがわからないとしよう。このとき、私たちがQ2を問うのは、Q1に答えるためにQ2の答えを知りたいという願望ないし意図のためである。これは、上の(3)のケースになるだろう。

(イ)では、ある実践的な問いQ3に答えるために、理論的な問いQ4の答えが必要であるとしよう。例えば「どうすれば早くパンをつくれるだろうか?」という問いに答えるために、「イーストの発酵に適した温度は何度か?」を知る必要があるとしよう。このとき、Q4を問うのは、Q3に答えるためにQ3の答えを知りたいという願望ないし意図である。これもまた上の(3)のケースになるだろう。

 では、上の(1)と(2)の場合の問いの、より上位の問いはどのようなものになるのだろうか。

06 人が問うのはどのような場合か(2) (20201013)

[カテゴリー:人はなぜ問うのか?」

 前回挙げた拙論「問題の分類」では、「意図と現実の矛盾」という「問題状況」を、認識問題状況、実践問題状況、決定問題状況、という3つに区別した。現在私は、問いを理論的問いと実践的問いの二つに区別するが、この二種類の区別の関係は、ここでの3つの区別と次のように関係するだろう。

  「理論的問い」「認識問題状況」での問い

  「実践的問い」「実践問題状況」あるいは「決定問題状況」での問い

さて、この論文では、問いは「意図と現実の矛盾」から生じると述べたが、それについて二点修正したい。

 まず、「矛盾」を「衝突」に修正したい。その理由は、この論文でも述べていたことである。つまり、「ここで「意図と現実の矛盾」というのは、正確には、意図が目指している状態を記述した文と、現実の状態を記述した文が両立不可能ということである。」つまり、正確にいえば、意図と現実は矛盾しないからである。そこで、問いは「意図と現実の衝突」から生じる、と言う方がよいだろう。

 第二の修正点は、「意図と現実の衝突」だけでなく「願望と現実の衝突」から生じる場合もあることから、問いは「願望/意図と現実の衝突」から生じる、と変更することである。これを実践的問いで説明しよう。

 例えば「ケーキを食べたい」という願望と「ケーキがない」という事実の衝突がある場合にも、「どうやってケーキを食べようか?」という問いが生じるだろう。とこで、願望と意図の間には次のような違いがある。

<違い1:願望(欲求、欲望など)と願望の衝突、意図と意図の矛盾>

 私たちは互いに衝突する願望を持ちうる(たとえば、「TVを見たい」と「勉強したい」というように)。そして、二つの願望が衝突するとしても、その衝突を解消するために願望を修正しようとはしない。TVを見たいと勉強したいという二つの願望は衝突するが、矛盾するのではない。なぜならこれらは両立可能だからである。

 他方で、私たちは互いに矛盾する意図を持つことはない(たとえば、「TVをみよう」と「TVを見るのをやめよう」は矛盾する)。そして、もし二つの意図が矛盾することに気づいたら、直ちに一方ないし両方の意図を修正するだろう。

<違い2:意図は実現可能性を前提するが、願望は実現可能性を前提しない>

 「Aしよう」という意図は、「Aできる」ということを前提している。Aできるかどうかわからないときには、私たちは「Aしよう」とは思わないだろう。「Aしよう」と思うのは、Aできると信じている場合である。つまり、Aできることを信じているが、どのようにしてそうしたらよいのか解らないときに、「Aするには、どうすればよいのか?」と問うのである。

 他方で、Aできるかどうかわからないときにも、私たちは、「Aするには、どうすればよいのか?」と問うだろう。つまり、「Aしよう」と意図しているのではなく、「Aしたい」と願望しているときにも、「Aするには、どうすればよいのか?」と問うだろう。

 つまり、「Aするには、どうすればよいのか?」と問う時には、「Aしよう」と意図している時と、「Aしたい」と願望しているときの二種類がある。

17 ノーベル賞と聖人 (20201008)

[カテゴリー:日々是哲学]

「真理」の社会的有用性、「真理」の社会的重要性は、「神」のそれに似ている。「科学信仰」が「神への信仰」と共有しているのは、真理が重要だという点である。

 真理は、個体が生存するために重要であるが、共同体や社会が自己を維持するためにも重要である。それゆえに、社会は科学研究をコントロールしようとする。ノーベル賞受賞者が、聖人のように扱われるのは、真理が社会的に重要だからである。真理は社会問題の解決に役立つ。それゆえに、真理は社会的に有用である。社会制度は真理の上に成立している。政府が学術会議を支配しようとすることと、ノーベル賞受賞者を聖人のようにあつかうことは、結合している。

05 人が問うのはどのような場合か?(1) (20201007)

[カテゴリー:人はなぜ問うのか?」

(動物が、意識や表象を持つのかどうか、という問題、動物の探索と人間の問いの比較、については、奈良に戻ってNoeの本を検討してからにして、別の論点を議論したいと思います。)

 人が問うのはどのような場合だろうか。一つは、より上位の問いに答えるために、問いを立てる場合である。問いを理論的な問いと実践的な問いに区別すると、次のような4つの場合を想定できる。

①理論的な問いに答えるために理論的な問いを立てる。

②実践的な問いに答えるために理論的な問いを立てる。

③理論的な問いに答えるために実践的な問いを立てる。

④実践的な問いに答えるために実践的な問いを立てる

この③が存在するかどうかについて、カテゴリー「問答推論主義に向けて」の「16」「17」で論じ、③は存在すると論じたが、少し疑念が残るので、③についてはそのカテゴリーで改めて議論することにし、ここでは①②④を想定しておきたい。

このようにより上位の問いに答えるために問うのだとすると、そのまた上位の問いへと無限にさかのぼることになり、説明が閉じない(上位の問いが、明示化されておらず、暗黙的である場合もあるだろうが、その場合でもその暗黙的な問いはどのように発生するのか、を問う必要がある)。

 では、上位-下位の問いの系列の最初の問いは、どのように生じるのだろうか。 問いの発生については、「意図と現実の矛盾」から生じると論じたことがある(拙論「問題の分類」『待兼山論叢』第28号、1994、pp. 1-13、https://irieyukio.net/ronbunlist/papers/PAPER15.HTM)。そこでは次のように述べた。

 「ここで「意図と現実の矛盾」というのは、正確には、意図が目指している状態を記述した文と、現実の状態を記述した文が両立不可能ということである。」

 これについて、次に考えたい。

04 動物は表象を持つのか (20200928)

[カテゴリー:人はなぜ問うのか?」

 「人はなぜ問うのか?」が課題だった、この問いは、人が問うことを前提している。そこで、「人が問うとはどういうことかだろうか?」を問い、さらに「動物の探索と、人が問うことの違いはなにか?」を問うことになった。動物は、それが移動を始めたときから、感覚し、探索していると思われる。では、「動物は、表象や意識を持つのか?」

 この問いに答えることは、非常にむつかしい。なぜなら動物自身に答えてもらうことができないので、それを動物の行動の振る舞いから推測するしかないからである。したがって、動物が表象や意識を持つこと、ないし持たないことについての、間接的な証拠を見つけなければならない。

(あるいは脳科学が発達して、人間がリンゴの表象をもつとき、どのような脳状態の変化が生じるのかを特定できるようになれば、動物の脳状態にもよく似た変化が生じるかどうかで、動物がリンゴの表象をもつかどうかを判定できるようになるかもしれない。ただし、厳密に言えば、その場合でもそれは間接的な類推にとどまっている。)

 意識や表象の有無について考察するとき、痛みなどの意識をもつかどうか境界は、脊椎動物/非脊椎動物の区別に置かれ、表象を持つかどうかの境界は、哺乳類/非哺乳類の区別に置かれることが多いのではないかと思われる。ただし、専門家の間でも定説はないようである

 意識や表象をもつとは、どういうことかを考えるための手がかりとして、(話が元に戻ってしまっているように思われるかもしれないが)人間の場合を考えよう。

 人間は、(痛みの)意識を持ち、(パイン飴の)表象を持つように思っているが、それはどういうことだろうか。パイン飴を食べようとして、パイン飴を探すとき、黄色くて丸くて穴の開いたパイン飴を表象している。パイン飴の表象は、パイン飴を図とし、その他を地とするゲシュタルト構造を持つ。対象を表象するとは、対象を図とし、その他を地とするゲシュタルト構造を表象することである。しかし、最近の知覚論であるNoeの「エナクティヴィズム」は、このような知覚像は存在しないと主張していたのではないか。

(今手元にNoeの本がないので、奈良に戻ってからこの点を調べます。)

16 可謬主義と改革主義 (20200921)

[カテゴリー:日々是哲学]

 私は、現代の多くの哲学者と同様に、究極的な根拠づけは不可能であると考えます。政治に関していえば、革命を目指す者は、その政治理念が絶対に真であると考えているとおもわれますが、もし自分が主張する政治理念の可謬性を認めるのなら、そのものは革命ではなく、漸進的な改革路線をとるでしょう。どのような政治理念も可謬的であるとすれば、テストしながら漸進的に改革していくことが合理的な態度であるからです。

 さて、前回のべた税制についても、テストしながら漸進的に改革していくことが望ましいでしょう。

15 <完全に平等な税制+ベーシックインカム>の検討2 (20200920)

[カテゴリー:日々是哲学]

 国家は、社会問題を解決するために作られた制度である(カテゴリー「問答としての社会」を参照してください)。それゆえに、国家は社会問題を解決しなければならない。この社会問題を、つぎの二種類に分けることができるだろう。

 社会問題の一つの種類は、利害の対立であり、それを解決するために規則(法)を作ることである。そのための制度や組織(立法制度)が必要である。そして、その法を実現するための制度や組織(警察制度、司法制度)が必要である。

 社会問題のもう一つの種類は、貧困問題、災害復興のように社会的支援が必要な社会問題である。これに取組むには、組織(行政組織)と資金が必要である。この社会問題の中には、既成の社会制度が引き起こした問題であって、解決のためには社会制度の改革が必要な社会問題も含まれている(このような社会問題を「疎外」と呼ぶことができる。)

 こうした社会問題を解決するために、資金が必要であり、それを税金として集める事が必要になる。社会として取り組まなければ解決できない問題を解決することが、国家の目的であり、そのためのお金が税金である。これが税金を収める一つの理由である。

 もう一つの理由は、次のとおりである。個人の収入は、個人の経済活動の成果であり、その経済活動によって社会の経済活動が成り立っている。経済制度は、規則と組織からなる。社会の経済活動は、個人や組織が規則に従って行為することによって成立している。個人の収入は、社会の経済活動にもとづいて成立するので、もし社会の経済活動が成り立つために必要な制度を維持するために、社会が投資する資金が必要ならば、個人はその収入に応じて、提供しなければならない。これが、税金を収めるもう一つの理由である。

 さて、こここで<完全に平等な税制+ベーシックインカム>をもう一度検討しよう。前回は、完全に平等な税制の税率の決め方を、<ベーシックインカム+医療費+教育費+その公共事業費>として、それを賄うことができるように税率決定するという案を提案した。今回は、それと逆の決定方法を、提案したい。個人の収入は、社会の経済システムや経済活動に依存して成立しているので、経済システムが、個人の経済活動をすでに半分は、構成している(問いが答えの半製品であるのと同様である)。そこで、個人の収入の50%はシステムのおかげであると考えて、税率を50%とする(このばあい、システムの寄与分を40%としてもよいし、60%としてもよいかもしれない。このシステムの寄与分を計算する方法について何か提案がありましたら、ぜひ教えてください)。こうして得られた歳入によって、ベーシックインカムなどの歳出金額を決定するということになる。

 <完全に平等な税制+ベーシックインカム>の案には、先週の案や今週の案とは異なるものもありうるだろう。そして、現在の税制が、これらの案よりも合理的であるとする理由が、私には思いあたらない。税制については、すくなくとももっと根本的に問い直してみる余地がある。

14 <完全に平等な税制+ベーシックインカム>の検討 (20200915)

[カテゴリー:日々是哲学]

 日本の首相は、明日の国会で、安倍晋三から菅義偉に代わりそうです。菅さんには、消費税を減税したり廃止したりする意向はないようです。私は、消費税は逆進性が高いのの廃止すべきだと考えます。しかし、このようなことを言うと、常に消費税をどうするかは、消費税だけでなく、税制全体の中で考えなければならないという意見が出てきます。それに対しては、税制全体を考えなければならいのは当然であるが、全体を考えたとしても、その中で逆進性の高い税制が正当化されてはならないと考えます。

 しかし、ここで言いたいのは、そのことではありません。富裕層からは、所得税への高い累進課税に対する不満があります。それは自然な反応かもしれません。そこで富裕層からも全く不満をいえないような税制を提案したいとおもいます。それは個人の所得全体に対して一律の所得税率を課するということです。株などによる所得に分離課税などはしません。それでは平等な税制にならないからです。個人の総所得に一律の税率で所得税を課することに対しては、富裕層からも文句のいいようがないでしょう。直接税は廃止し、個人への税金はこれだけにします。(ただし、ガソリン税や酒税などをどうすべきかについては、悩ましいところです。これは税制によるある方向への経済活動の誘導のためであるので、別途考える必要があるかもしれないからです。)

 ただし、こうすると低所得層も富裕層と同じ税率の税金を支払うので、低所得層は生活できなくなります。そこで、低所得層でも健康で文化的な最低限度の生活ができることを保証するために、ベーシックインカムを導入します。(ベーシックインカムの額をどう決めたらよいのかについて、いま成案はありません。)いずれにせよ<ベーシックインカムに必要な資金+医療費、教育費+その他公共事業費、など>からの逆算によって、所得税の税率を決めることにします。おそらく税率はかなり高いものになるでしょう。この<完全に平等な税制+ベーシックインカム>を導入すると、現状に比べて最も不利になるのは、中間層になるでしょう。所得税率は、現在の中間層の税率よりもかなり高くなるだろうからです。その代わり、公的年金や国民健康保険は廃止するので、それらの負担はなくなります。ただし、それらの費用は、一律の所得税の中に含まれることになります。

 複雑な税制のために、全ての人がそれぞれに不満を抱えることになっているとすれば、このような単純な制度、不平を言うことが難しい制度を検討してみる価値があるとおもいます。

 (この税制は、単純な制度なので、多くの国が共有することが可能になります。その先にどのよなグローバル社会が見えてくるかは、これから考えます。)

 ひょっとすると、この案は大きな欠点を見落としているかもしれません。検討してくれる方がいればありがたいので、upします。