投稿者: irieyukio
問答の哲学研究、ドイツ観念論研究、を専門にしています。
2019年3月に大阪大学を定年退職し、現在は名誉教授です。
香川県丸亀市生まれ、奈良市在住。
09 和辻への反論
09 和辻への反論 (20150811)
和辻は次のように言う。
「我々は日常的に間柄的存在においてあるのである。しかもこの間柄的存在はすでに常識の立場において二つの視点から把捉せられている。一は間柄が個々の人々の「間」「仲」において形成せられるということである。この方面からは、間柄に先立ってそれを形成する個々の成員がなくてはならぬ。他は間柄を作る個々の成員が間柄自身からその成員として限定せられるということである。この方面から見れば、個々の成員に先立ってそれを規定する間柄がなくてはならない。この二つの関係は互いに矛盾する。」(和辻全集10巻、61)
ここで和辻は次の二つの関係が矛盾すると述べている。
①間柄は人々の間に形成されるので、間柄に先立って個々の成員が存在しなければならない。
②個々の成員は間柄からその成員として限定されるので、個々の成員に先立って間柄が存在しなければならない。
この分析は間違っているのではないだろうか。
この二つは、次の例の場合には、矛盾は成立しない。下線部が上の説明とことなるからだ。
①夫婦の間柄が成立するためには、結婚に先立って二人の人間が存在しなければならない。
②二人の人間は、結婚によって夫婦になるが、しかし、二人の存在に先立って、夫婦関係がなければならない、ということはない。
次の例の場合にも、事情は少し異なるが、矛盾は成立しない。下線部が上の説明とことなるからだ。
①兄弟の間柄成立するためには、兄弟関係の成立に先立って、二人の人間が存在しなければならない。
弟とが生まれることと兄弟関係が成立することは同時である。ゆえに、兄弟関係の成立に(時間的に)先立って、兄弟になる人間が存在しなければならないということは言えない。
②兄の方は、間柄から兄となるが、しかし個人として存在するに先立って、兄弟関係がなければならないとは言えない。つまり、兄となる前、つまり弟が誕生する前から、彼は存在している。
これに対して、和辻ならどう答えるのだろうか。
08 規範の生成について
08 規範の生成について(20150803)
和辻は、個人と人倫的全体は、相互の否定において成立する、という。つまり、全体の否定によって個人が成立し、個人の否定によって全体が成立するという。この相互の否定において、それぞれが空であることがわかる、という。「個人は己の本源たる空(すなわち本来空)の否定として、個人となるのである。」(124頁)
しかもここでは、人倫的全体による個人の否定が、個人に対する規範の強制としてとらえられている。個人の「本源」は「空」であるので、規範の強制は、全体による個人の否定としてのみならず、個人の「本源」による個人の否定、つまり個人の自己否定、自己強制でもある。ゆえに、「強制は、個人への外からの強制でありながら、しかも同時に己の本源からの自己強制であり得る」(124頁)こうして社会規範が個人に強制され、しかも個人がその強制を自己の「本源」として受け入れるという現象が成立する。和辻は、これを個人と人倫的全体の存在の「否定的構造」として説明する。
この「人間存在の否定的構造」を示そうとする和辻の議論には、あいまいさが付きまとっており、それは批判的に検討するに値すると思われる。
06 儒教の自我論
06 儒教の自我論(20150701)
仏教と同じく、儒教にも長い歴史があり、様々な学派がある。ここでは、儒教の中心的な教えを、五常五倫の教えだと考えてみよう。五常とは、仁義礼智信という五つの徳のことである。これらの徳は、五倫と呼ばれる五つの人間関係、君臣、父子、夫婦、長幼、朋友にもとづいている。このような重要とされる徳目や、重要とされる基本的な人間関係の理解については、変遷があるようだが、ここではそれには立ち入らない。
仮に上記の五倫が基本的な人間関係であり、歴史をこえて普遍的に成立している関係であるとしよう。このような自然的な人間関係は、それを維持することを義務として含むことになる。なぜなら、もしその自然的な関係を破壊するなら、その関係よって成り立っている人間や共同体も破壊されるからである。ここでの仮定により、人間と共同体は五倫以外の仕方では存在できないからである。これは超越論的論証だといえるだろう。
(もちろんこの論証が成り立つためには、五倫の人間関係が、歴史を超えて普遍的に成立している自然的なものであることを証明しなければならない。ただし、その証明は儒教の中にはないのではないだろうか。それはただ前提されているだけなのではないだろうか。そして、現在の私たちは、五倫がそのような普遍的な自然的な人間関係ではないことを知っている。)
ここで、この超越論的論証の構造について考えよう。
仏教では、悪いことをせず善いことをすることは、自分の行為によって、地獄に落ちたり、獣に生まれ変わったり、人間に生まれ変わったり、よりよいものに生まれ変わったり、最終的には解脱したりする、という仕方で、サンクションを受けた。因果応報が、道徳的な行為を動機づけていた。(ちなみに、キリスト教でも、最後の審判で天国にけるか地獄に落ちるか、というサンクションがあり、この点で仏教と似ている。)
それに対して、儒教では、来世も、天国も地獄もないので、このようなサンクションは働かない。それでは道徳的な行為をすることには、どのような動機付けが働くのだろうか。君子に忠義をつくしたり、親に孝行したり、することで、相手から褒められたり、世間から褒められるだろう。それは世俗的な成功や幸せをもたらすのかもしれない。五常を守るか守らないかは、世俗的な成功と不成功という仕方でサンクションを受けるだろう。しかし、それだけであろうか。それならば、幸せになるためのハウ・ツー、処世術にすぎないだろ。
単なる処世術と五常の教えはどこが違うのだろうか?
04 安保法制に反対する三つの理由
04 安保法制に反対する三つの理由 (20150616)
1,集団的自衛権は、憲法9条に反している。
これについては、説明の必要はないでしょう。小学生でも憲法を読めば、そう考えるでしょう。
「安保法制は、憲法に反しているかもしれなが、しかし現状ではそれが必要であり、憲法を簡単に変えることが出来ないので、とりあえず安保法制で対応するしかない」と考えている人は、立憲主義を否定するものであり、その考え自体も憲法違反です。
2,現実的な政治選択として間違っている。
「憲法との関係を横に置くとすると、現在の国際情勢の中で、日本の取るべき政策を考えるとき、安保法制は必要である」 これは現実政治の政策として間違っている。それについて、03で「囚人のジレンマ」ゲームを用いて説明したので、繰り返しません。
3、現国会は違憲状態であり、その国会で安保法制を審議することは、間違っている。
現国会(衆議院)は2013年11月20日に最高裁大法廷で「違憲状態」だという判決が出ている(参照、「一票の格差」 in Wikipedia)。
安保法制のような重要な法案を、違憲状態の国会で審議すること自体が違憲である。
04 Nagarjunaの答え?
04 Nagarjunaの答え? (20150608)
仏教の「空」の思想を展開したといわれるNagarjunaの中論Middle Wayの答えは、おそらく次のようなことである。
<もしすべてのものが空ならば、生滅や因果関係ということはなく、輪廻転生ということもなく、四聖諦も成立しなくなるだろう>というような中論への反論は、それは「空」の中途半端な理解に基づくものである。実体として存在するものについては、その変化や因果関係を説明できない。変化や因果関係は、むしろ空によって理解可能になるのである。このことは、自我についても同様であり、もし自我が実体として存在するのならば、それの生滅を説明することはできなくなる。自我が生滅することは空によって説明可能になるのである。(参照、『中論』「第24章 4つの優れた真理の考察」(中村元『龍樹』 講談社学術文庫、378-384, Fundamental Wisdom of Middle Waytranslation and commentary by Jay L. Garfield, Oxford UP)
ここで仮に、変化を説明するには、何らかの意味で空を認めなければならない、ということを認めたとしよう。このとき問題となるのは、そのときの空をどう理解したらよいのかである。Nagarjunaは空についてポジティヴには語らないので、隔靴掻痒である。
「業と煩悩が滅びてなくなるから、解脱がある。業と煩悩は分別思考から起こる。ところでそれらの分別思考は形而上学的論議(戯論)から起こる。しかし戯論は空においては滅びる。」(第18章5 『龍樹』p.364)
もしこれが<分別思考(conceptualthought)のあるところ、五薀や煩悩や業が生じ、煩悩や業の主体である自我も存在する。しかし、空において分別思考は消え、自我も消える>という意味であるとしよう。そして、これが「世俗の覆われた立場での真理(a truth of worldly convention) 」と「究極の立場からの真理(an ultimatetruth)」(第24章8、『龍樹』379、MiddleWay, 68)に対応するのだとしよう。このとき、<自我や苦や煩悩や業や縁起や輪廻転生が成立するのは、分別思考にとってであり、空においてはそれらは存在しない>ということになるだろう。
この場合、苦や輪廻転生から解脱するとは、分別思考から、空の立場に移ることである。六道とは別の世界があって、そこへ移ることではなくて、六道が実は存在しないと知ることである。
このとき、前述の部派仏教の矛盾は、どう解決されるだろうか。
部派仏教では、自我は五薀から構成されたものであり、実体としては存在しない。k彼らにとって「無我」とはそういう意味である。しかし五薀は存在し、その限りで十二支縁起から逃れることもできない。そうだとすると、自我の構成がなくなることはなく、苦を滅することも原理的に不可能になる。
これに対して、龍樹を含む大乗仏教は、五薀もまた、本当は存在せず、空である(「色即是空、空即是色」)と考えて、この矛盾を解決したのだといえそうだ。
03 部派仏教の「無我」の矛盾
03 部派仏教の「無我」の矛盾 (20150602)
部派仏教に属する『倶舎論』で、世親は「我は存在せず、煩悩と業とによって形成される薀(うん)のみがある」という。この五薀とは、色(肉体)、受(感受作用)、想(知覚作用)、行(意志作用)、識(認識作用一般)である。しかも五薀は、刹那に生滅する。つまり、瞬間ごとに生滅を繰り返しているという(参照、三枝充よし著『世親』講談社学術文庫、p. 95, 112)。部派仏教では、自我は存在しないと考えるが、それを構成している五薀が存在していると考えるようだ。
この場合、「自我が存在しない」とは、不可分で持続的な実体として存在するのではないという意味になるだろう。ただし、おそらく部派仏教は、他方では「五薀の刹那の生滅を貫いて、それによって構成されている自我が存在している」と語ることを(何らかの意味で)認めるだろう。(ここで、西洋でのロック以来の自己同一性をめぐる議論と似た議論を繰り返すことが可能かもしれない。これについては、書庫「人格とは何か」で論じたのだが、その時の議論では他者とのコミュニケーションの中で自己同一性を構成するしかないという結論になった。仏教のなかには、自我の同一性を他者とのコミュニケーションによって構成するというようなたぐいの議論は無いようにおもわれる。)
部派仏教は次のように考えるのかもしれない。「自我は実体としては存在しないが、構成されたものとして存在する。このとき、自我の構造の同一性、ないし連続性が、自我の同一性を意味する。そしてその構造の同一性や連続性があると考えることを否定するものではなく、その基底に実体的な自我が存在すると考えることを否定するものである。」
このとき、自我は五薀という要素から構成されている。その構成は、五薀が因果関係(縁起)によって変化することによって構成されている。ところで、このとき仮にある自我が苦しんでおり、その苦しみが煩悩を原因としているとしても、その煩悩にもまた原因があり、それによって生じている。このとき、この苦を滅する方法などあるのだろうか。その人がどのように振る舞うかは、縁起によって決定しているのではないだろうか。このような自我は全く縁起の産物であって、縁起を抜け出たり、それを変更したりする可能性はないだろう。このような自我論はそれ自体では整合的であるかもしれない。例えば、現代の心の哲学の物理主義者はこのような自我論を取るかもしれない。しかし、これれは仏教の四聖諦、とりわけ滅諦と道諦に矛盾する。
苦諦:人生は苦に満ちている(四苦八苦)
集諦:苦には原因がある。それは煩悩であり、究極的には無知(無明)である(十二支縁起)。
滅諦:苦を消滅させることができる(解脱)。
道諦:苦を消滅させるための方法(八正道)がある。
仏教は、この矛盾をどうやって克服するのだろうか。
02 仏教の根本問題
02 仏教の根本問題(20150602)
・仏教の特徴は、無我(anātoman, not-self)を主張することである。
・仏教のその他の思想の多くは、当時のインドで一般に認められていたことである。人が死と再生を繰り返すという輪廻(Samsara)の思想も、輪廻転生は、天・人・餓鬼・畜生・地獄の五道、ないしこれに修羅を加えた六道のいずれかに変わるという思想も、何に転生するかは業(karma)(道徳的行為)によって因果的に決定するという思想も、仏教以外のインド思想にも共通のものである。
・しかし、この「無我」から問題が生じる。「もし自我が存在しないのならば、何が輪廻転生するのか」という問題である。ジャイナ教は、仏教に対してこの点を批判した。仏教にとっての根本問題だと思われるは「輪廻転生の主張と、無我の主張が矛盾するように見える」ということである。
・この根本問題はもちろん、輪廻転生を認めなければ生じない。そして現代人にとって、輪廻転生は荒唐無稽な思想である。(それは私たちが西洋近代に登場し発展した自然科学を認めているからである。西欧近代以後の自然科学を知らない当時のインドの人々にとって、輪廻を理論的に批判することは難しいだろう。例えば、身体の死とともに心もなくなると私が考えるが、しかし自然科学を知らなければ、身体の死後心がなくなることを説得ことは難しいだろう。したがってそれが転生する主張を批判することも難しいだろう。)
・しかし仮に輪廻転生と六道の話を取り除いて、縁起を現世の中だけで考えるとしても、やはり次のような問題が生じるだろう。「縁起の説明、たとえば煩悩による苦の発生の説明は、無我の主張と矛盾するようにみえる」ということである。
・「無我」や「空」の概念は、東アジアの人間にはなじみのものである。しかし、それらを理解することは非常に難しいことであるし、私たちはまだその明確な理解を手にしていないように思われる。仏教の歴史は、「無我」や「空」の概念を受け入れたうえで、それについての整合的な理解を作り上げようとする試みであったと言えるのかもしれない。そして、それはひょっとすると、まだ最終的にうまくいっていないのかもしれないし、うまくいかないのかもしれない。ひょっとする「無我」を認めなかったジャイナ教徒の方が正しかったのかもしれない。
・仏教徒たちがどのように理解しようとしてきたのかを、振り返りつつ、「無我」を整合的に理解できるかどうか、検討してみようう。
01 はじめに 構成主義と仏教
01 はじめに 構成主義と仏教 (20150531)
「自我」の理解は、「私とはどのようなものか」というような哲学的な問いや、「お昼に何を食べようか」「今日は何をしないといけなかったのだろうか」というような日常的な問いによって、構成されている。自我は、自我にかかわる問答において、問いの前提や問いの答えによって、構成されている。
このような自我の構成が、社会の中でどのように行われるのかを説明するのが、自我の社会構築主義になるだろう。しかし、その時の説明において、資本主義や共同体のような社会制度を前提するならば、それらもまた歴史的社会的に構成されたものなのだから、そもそもの説明の出発点をどこに求めることになるのだろうか。
その時の可能な答えの一つは、ルーマンのように社会はコミュニケーションから構成されていると考えることである。発声行為や身体行為にある意味を帰属され、それが他の行為の選択決定を促す、という仕方でコミュニケーションが成立し、その連鎖と集合が、社会や文化や人格を構成する。では発声行為や身体行為にある意味が帰属されるのは、どのようにしてなのだろうか。これは、言語起源論や哲学的意味論の課題であり、私にとってはメインの仕事になるが、ここでは扱えない。(これについては、とりあえず2014年度2学期の講義ノートhttp://www.let.osaka-u.ac.jp/~irie/kougi/kougiindex.htmを見ていただければ幸いです。)
このような自我や社会の理解は、西洋ではポストモダンの思想かもしれないが、東アジアでは仏教以来なじみのものである。そこで、まず仏教の自我論とその歴史を確認しよう。
03 憲法9条と「囚人のディレンマ」ゲーム
03 憲法9条と「囚人のディレンマ」ゲーム (20150505)
「囚人のディレンマ」ゲームとは、互いにコミュニケーションできない人たちが、自己の利益が最大になるように合理的に考えて行為するとき、全体としては最悪の状態になることを示すゲームである。これは、これまでも米ソの軍拡競争の愚かさを示すことなど、政治の分析に使われてきた。現在、安倍自民党政権がやろうとしている政策は、近隣国との相互不信を前提にするならば、自国の利益を最大にする合理的な選択であるのかもしれない。そしてその政策は、近隣国にも、同様に合理的に考えて同様の政策をとることを促す結果になるだろう。そして、地域全体としては最悪の状態を選択することになってしまうだろう。
これを回避するには、当事者たちがコミュニケーションを図り、相互信頼を醸成することによって、全体として見たときの最善の状態に到達すべく協力することが必要である。米ソが軍縮に成功したのは、まさにこの対話路線をとったことによる。
したがって、安倍政権が相互不信を前提にした「合理的」選択をしようとしていることは、大きな間違いなのである。そもそも相互不信を招いた最大の原因は、安部政権が、15年戦争について中国や韓国に対して「お詫び」する必要はないと「解釈」していることにある。安倍政権が近隣諸国との間に相互不信を招き、その相互不信を前提に「合理的」な選択をするという愚かな方向に日本と近隣諸国を向かわせている。
ハト派や護憲派の戦略は、リアリティのない無責任な考えではない。「囚人のディレンマ」ゲームを踏まえた、リアリティのある説得力のある選択なのである。タカ派の戦略は、「囚人のティレンマ」ゲームを理解しない、あるいは過去のその経験から学習しない、愚かな選択である。