文化をグローバル化するとはどういうことか(2)

             
 
          世界中のホテルの朝食に登場するケロッグ
 
 
08 文化をグローバル化するとはどういうことか(2) (20121019)
 
マクドナルドが、グローバルであるのは、それがたこ焼きよりも、より普遍的に受け入れられる味をしているからではないでしょうし、より優れた味をしているからでもないでしょう。それはアメリカンライフスタイルのグローバル化の一部を担っているのでしょう。つまり、(あいまいな言い方ですが)政治的経済的要因のためだと思われます。
 
 食文化も文化ですから、文化のグローバル化には、このような側面があります。では、それだけでしょうか。どの文化がグローバル化するのかは、政治的経済的要因だけで決まるのでしょうか。
 前回、「現代論理学や現代の言語学がグローバルなものであると言えるとすれば、・・・」と書きました。そのとき考えていたのは、現代論理学、現代言語学、現代自然科学などは、グローバルだということです。西洋起源の自然科学は、グローバルに通用しています。つまり、世界中でそれらの研究と教育が行われています。政治的経済的要因だけでによるのでしょうか。
 クワインならば、現代の物理学とギリシャ神話が、世界の説明としてはどちらがすぐれているかを、理論的に決定できないというでしょう。つまり、理論としての、あるいは学説としてのある優れた性質(かつてウェーバーが、西洋文化は普遍性をもつと考えていたような意味の「普遍性」のような性質)が、グローバルな理論とそうでないものを分けているのではないということです。クワインは、複数可能な理論の中から理論を選ぶときには、(正確な表現を忘れましたが)プラグマティックな関心で理論を選択するしかないといいます。
 
 もしプラグマティックな関心から文化の選択が行われているとすると、文化をグローバル化するとは、
  ①ある文化の有用性をグローバルに知らせること
    (寿司のおいしさを宣伝すること)
  ②ある文化を、グローバルな有用性をもつように変化させること
    (寿司がよりグローバルな有用性を持つように変化させること)
 
文化の変容にかかわるのは、②です。
・社会学でいえば、ある一つの国家をあつかう研究よりも、グローバルな社会を扱う研究のほうが、グローバルな有用性を持ちます。
・文学研究で言えば、ある言語の文学をあつかう研究よりも、世界の多様な言語の文学を扱う研究の方が、グローバルな有用性を持ちます。
 
では、ある言語共同体のメンバーにとって、自分の言語共同体の文学を扱う研究と、世界の多様な文学を扱う研究は、どちらが有用性を持つでしょうか? これの答はつぎのようになるでしょう。自分の言語共同体の文学が、世界の多様な言語の文学よりも有用であれば、それの研究が、世界文学の研究よりも有用である。もし逆ならば、逆である。
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では、自国文学と世界文学とどちらが重要でしょうか? もし人が外国語の文学を外国語で楽しむことが難しく、翻訳で楽しむのだとすると、世界文学とは翻訳文学であることになります。
では、自国文学と翻訳文学のどちらが有用でしょうか?
(話があらぬ方向に向かっているのでしょうか。それともこれでよいのでしょうか。)
                               
 
 
 
 
 

ユーロ危機の原因

Bolognaのパスタです。スパゲッティでなくて、別の名前でしたが忘れてしましました。
この食べ物も、グローバルな食べ物だと言えそうです。
 
ユーロ危機の原因は何か? (20121012)
 
2日前に、ユーロ危機についてのオランダ人の講演を聞きました。
その時に違和感を持ったので、それについて書くことにします。
その講演者は、ユーロ危機の原因は、産業構造の変化にあるのだというのです。つまり、
農業から工業への変化があり、現在工業からサービスへの産業の変化の時期であるから
危機が起きているのだというのです。そこで、それへの対処法としては、イノヴェーションを起こして
生産性を高めるしかない。そしてそのためには、高等教育の強化が必要だ。
後で思ったのですが、これがおそらく新自由主義者の理解なのでしょう。
 
ヨーロッパの財政危機は、日本やアメリカと同様に、富裕層と法人への減税のためなのではないでしょうか。したがって、この原因を取り除く必要があります、つまり富裕層と法人への税率を1980年ころの水準に戻すことです。新自由主義者は、この原因をすり替えて、さらに格差を広げようとしています。それが、富裕層や大企業にとっての最適の生き残り策なのでしょう。(財政学者がそれを指摘しないのはなぜでしょうか。御用学者は、原子力研究者だけではない、と考えざるを得ません。)
 
これで、もしロムニーが勝つと、世界はどうなってしまうのでしょう。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

文化をグローバル化するとはどういうことか

                                       チョコレートはグローバルなお菓子です。 アムステルダム、スキポール空港にて。
 
8 文化をグローバル化するとはどういうことか (20121005)
 
 分析哲学は、西欧近代哲学から登場したものですが、それは西欧近代哲学をグローバル化したものではなくて、西欧近代哲学の末流であるがそれとは別のものであるということもできるかもしれません。どちらの理解が正しいのでしょうか。(もちろん、分析哲学はグローバルな哲学ではない、という反論があるかもしれません。しかし、現代論理学や現代の言語学がグローバルなものであると言えるとすれば、それと同じ意味で、分析哲学はグローバルなものであると言えると思います。)
 この問いに答えるためには、「ある文化をグローバル化するとはどういうことか」という問いに答える必要があるでしょう。
 文化を変えることは可能です。例えば、日本文化は、明治維新によって変化したといえるでしょう。開国によって日本文化の中に西洋文化が入ってきただけではなく、従来の文化もまた変化したはずだからです。日本文化は、西洋の諸概念を、翻訳語を作ることによって日本語のなかに取り込んできました。その翻訳語を用いて、西洋の社会制度を取り入れてきました。「選挙」や「議会」や「憲法」などが典型かもしれません。これは日本文化の西洋化でした。ある文化の西洋化が可能ならば、ある文化のグローバル化も可能でしょう。
 では、文化をグローバル化するとはどういうことでしょうか。すでにグローバルな文化があるのだとすると、その文化の諸概念を、翻訳語をつくることによって日本語のなかに取り込んで、その翻訳語を用いて、グローバルな制度を取り入れることによって、文化をグローバル化することができるでしょう。
 
 ところで、日本文化は明治以後西洋化され、戦後はアメリカ化されたとしても、しかし日本文化にとどまっています。それは同じように西洋化されたアジアやアフリカの文化とは異なります。日本文化を西洋化できても、西洋文化と一つになるわけではありません。(西洋文化もまた多様ですが、それはヨコにおいておきます。)これと同様に文化のグローバル化といっても、グローバルな文化と一つになるわけではありません。
 しかしその意味では、現代のアメリカの文化も、西欧の文化も、グローバルな文化そのものではないので、グローバルな文化というものは、文化圏としてはどこにもありません。
 グローバルな文化というのは、ローカルな文化のグローバル化として存在している、というべきかもしれません。ベネディクト・アンダーソンが「国民国家」を想像の共同体だと指摘したように、グローバルな社会やグローバルな文化もフィクションなのでしょう。
 それで?
 もう一度、問い直しましょう。
 「ある文化をグローバル化するとはどういうことでしょうか」
次のような答え方ができます。
 ①ある文化を世界中に普及させること(寿司を世界に普及させること)
 ②世界中に普及している文化をある文化の中に受け入れること(マクドナルドを受け入れること)
 しかし、これとは異なる答え方を考えてみたいとおもいます。
 

 
 

西欧近代哲学をグローバル化する2つの方法

                                  世界最古の大学ボローニャ大学の旧館です。
 
07 西欧近代哲学をグローバル化する2つの方法 (20120928)
 
前回、西洋哲学の「世界」概念や日本の「世間」概念は、ローカルな文化に属する概念であると述べました。その意味は、①それらは現実にローカルにしか通用していない、②それらをグローバルに通用する概念だけで説明することが難しい(不可能ではないかもしれません)、ということです。西洋近代哲学には、このようなローカルな概念が沢山あります。「世界」「理性」「精神」「構想力」「意志」などです。
 それでは、西洋近代哲学をグローバル化するにはどうすればよいでしょうか。その方法の一つが、「言語論的転回」だったと言えるのではないでしょうか。近代の「意識哲学」が20世紀初頭に「言語分析の哲学」へ転回したと言われています。たとえば、論理実証主義の意味の検証理論によって、哲学における文の意味もまた、特定の歴史や文化のコンテクストから自由に、その意味を理解することができるようになりました。あるいは「プラグマティック・ターン」もまたグローバル化の一つの方法であったといえそうです。プラグマティズムは、文の主張の意味を私たちの行為にどのような変化を与えるかによって、説明しょうとしました。これもまた、特定の歴史や文化のコンテクストから自由に、その意味を理解することを可能にしています。
 おそらく他にも、西洋近代哲学をグローバル化する方法はありうるだろうとおもいます。いずれにせよ、アメリカの哲学はそれに成功しているのだとおもいます。それはアメリカが単一の分厚い歴史的文化的コンテクストを持たなかったためであろうとおもいます。
 
 
 

 

ボローニャで「世界」を考える

                                     ボローニャの中心マジョーレ広場の噴水です。
 
06 ボローニャで「世界」を考える (20120924)
 
 先週は、ボローニャで開かれた第八回国際フィヒテ学会大会に参加していました。例によって、海外でのネット接続がうまくゆかなくて、ブログの更新が遅れて失礼しました。
 
 その大会である発表を聞いている時に思ったことを書きます。その発表者は、「世界」という概念を多用していました。そこでは、フィヒテの「世界」概念が特に問題になっていたわけではありません。つまり、西洋哲学の世界で通常使う意味の「世界」であったのです。西洋哲学を勉強している私には馴染みの概念です。しかし、この「世界」は、現代の自然科学的な意味の物理的「世界」でも、社会学者や政治学者が用いる国際社会という意味での「世界」でもありません。それら二つの「世界」概念は、グローバルに通用する概念です。それに対して、これは(曖昧な言い方になりますが)ある精神的文化的な意味の「世界」です。この「世界」は、ヨーロッパのある時代に通用しているローカルな概念です。日本人の「世間」という概念が、日本のある時代に通用しているローカルな概念であるのと同様です。
 もちろん、現在の日本で「世間」という概念が生き生きとした意味を持っているのと同様に、ヨーロッパではこの「世界」概念が、生き生きとした意味を持っているのです。しかし、それはグローバルな概念ではありません。
 そして、このようなローカルな「世界」概念を用いた哲学は、グローバルな哲学にはならないように思います。それをグローバルな概念にするには、少なくともそれについてのグローバルに共有可能な説明を与える必要があります。しかし、それをグローバルに通用する概念だけで説明することは、日本語の「世間」をグローバルに通用する概念だけで説明することが難しいのと同じように、非常に困難です。
 

 
 
 

死に対する態度と心の哲学

                                  ピンぼけの 写真のような 夢の跡
 
  久しぶりにこの書庫に書き込みます。
 
死に対する態度と心の哲学 (20120912)
 
生物として私の死も、ロボットとしての私の死も、区別して論じる必要はないかのように書きました(2007/10/23と、その後の数回)。しかし、そうでしょうか?
 
もし、私の脳の情報が、コンピュータの中にコピーされて、コンピュータとして私が考え、それを搭載したロボットとして生きていくことができたとしたら、そのときには、私は単なる機械であり、自然現象です。もしそうなったとしたら、ロボットとしての私の死に対する態度は、変わるでしょう。
もちろん、私が生物であったとしても、心についての物理主義を採用するのならば、ロボットの場合と同じです。その意味では、生物かロボットかの違いではなくて、心をどう考えるのかの違いです。
 
現代哲学には、「心の哲学」と呼ばれる分野があります。そこでの中心問題は、心と脳との関係です。これについての主な主張は、次のようなものです。
  心と脳は別の実体であるとする二元論
  脳しかないという一元論
  心しかないという一元論、
二元論は、心と脳の間の相互作用を説明する必要があるけれども、それを説明できないという問題を抱えているので、現代では少数派です。
心しかないという一元論(観念論)も現代では少数派です。
多くの研究者は、脳しかないという一元論(物理主義)を主張するのです。しかし、この中には、ひとは心があると思っているが、実は心は存在しないのだという心の消去主義の立場と、心は脳の状態やプロセスに随伴する(supervene)と考える立場(例えばDavidsonの非法則的一元論など)があります。
 
書庫「物理主義からの倫理」では、「仮に心の哲学での物理主義が正しく、人間の心が脳の中の物理的な過程や状態に過ぎないとし、心の働きに自由がないとすると、倫理や道徳をどのように理解することができるのか」ということを考えました。
 
物理主義が正しいとしたら、道徳や倫理に関わるだけでなく、私たちの死に対する態度にも大きな影響を与えることになる、ということに今頃になって気づきました。この場合には、私たちの死は、冷蔵庫が壊れるのと同じ事になってしまうのでしょうか。現在のパソコンが壊れるのと、未来の人間であるAIが壊れるのは、同じ事になってしまうのでしょうか。
 
この問題に、どこから手を付けたらよいのか、アイデアがありましたら、おねがいします。
 
 
 
 
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会社の利益と人生の幸福

                夏の大阪城です 
 
22 会社の利益と人生の幸福 (20120831) 
 
社会組織は、次の二つの条件を満たすものでした。
  ①社会問題の解決のために作られ、
  ②そのようなものとして正当化される
(ところで、この①と②の条件が満たされるかどうかを判定するのは、だれでしょうか。専門家が判定するのでしょうか。それとも、当該社会の成員の合意によるのでしょうか。これについては、後で考えたいと思います。)
 
この①と②を満たすのは、国連などの国際組織、国家、州、県、郡、市、町、村、など地方公共団体、国営企業、NGO、NPO、これを満たすでしょう。これに対して、私企業は①を満たす場合がありますが、しかし私企業は②を満たす必要がありません。要するに、社会組織と私企業を分けるものは、①ではなくて、②なのです。
 
前回の結論は、上記のようなものでした。
 
しかし、つぎのような疑問が沸き起こります。
私はこれまでは、家族もまた社会組織だと考えてきました。仮に、男女二人だけからなる家族であるとしても、それは二人からなる社会組織です。家族は、二人でしかできない様式の生活をする、あるいは家族世帯でしかできない様式の生活をするという目的で家族をつくり、そのようなものとして成員によって正当化されている、ということがあります。
 
もし家族についてこのように考えるのだとすると、会社もどうように考えられるのではないでしょうか。家族の営みと、家族経営の会社の営みは、うまく区別できないようにおもいます。あるいは、仲間5人で会社を作ったという場合、これもまた①と②を満たすのではないでしょうか。
 
会社の存在が、より広い社会の中で正当化されることを考えると、それは会社の目的を実現できているかどうかとは、別の問題になります。しかし、会社がそのメンバーによって正当化されているかどうかを考えるときには、会社の設立目的を果たしているかどうかが、問われることになります。
 
「会社は社会組織であるかどうか?」という問いをペンディングにしたまま、
「会社とは、どのような組織であるのか」を考えてみたいとおもいます。
 
ドラッカーは、「企業とは何か」を理解するには、「企業の目的」を考えなければならないといいます。そして「企業の目的として有効な定義は一つしかない。すなわち、顧客の創造である」「企業が何かを決定するのは、顧客である」と言います。「企業の目的が、顧客の創造である
ことから、企業には二つの基本的機能が存在する」と言います。それは「マーケティング」と「イノベーション」です。通常は、利益を上げることが企業の目的であるといわれているが、ドラッカーは、利益は、マーケティングとイノベーションの結果であるといいます。
 
これは私の思いつきですが、企業にとっての利益は、人間にとっての幸福と似ているのかもしれません。利益を上げることが目的であるとしても、そのために何をすべきかを、その目的からは導出することはできません。人の目的が幸福であるとしても、幸福になるために、その目的からは何をすべきかを導出することはできません。幸福は、結果的に与えられるものですが、それを目指しても何をしたらよいのかわからないのです。企業にとっての利益もまた、マーケティングとイノベーションの結果として与えられるものなのかもしれません。
 
 

 
 

会社とは何か

 
 

 

21 会社とは何か (20120821)
 
国営企業と私企業の区別は次のとおりです。
 
国営企業の目的は、財やサービスの提供です。あるいは、財やサービスの提供による国民の福祉です。私企業の目的は、利益の追求です。財やサービスの提供はその手段です。別の言い方をすると、私企業の目的は、財やサービスの提供による利益の追求です。
国営企業と私企業まったくおなじ財やサービスを提供しているとしても、その最終目的は異なります。
 
私企業は、財とサービスを社会に提供するという点で、社会問題を解決しようとしているといえます。しかし私企業は社会問題を解決するために作られたのではありません。それは、利益を上げるために作られたのであり、社会問題を解決することはその手段です。
 
以上が、常識的な説明になるでしょう。
 
しかし、これは正しいでしょうか。私企業の目的は、常に、利益の追求なのでしょうか。そうではないとおもいます。なぜなら、ひとが会社を作るときの目的は、利益の追求だとは限らないからです。ザッカーバークがFacebookをつくった時の理由は、単に面白いからかもしれませんし、社会を少し変えたいからかもしれません。しかし、それを推進しようとすると、一人では手が足りないので、人を雇いたいと思ったとしましょう。人を雇うには、彼らに給料を払わなければならず、そのためには会社の利益を大きくしなければなりません。さらに事業を拡大するために、さらに多く人を雇おうとすると、さらに利益を増大させなければなりません。このようにして、会社が大きくなっていくケースもたくさんあるでしょう。この場合、利益の追求は手段であって、その目的は事業をすることなのです。では、その事業とは何でしょうか。それは、何でもよいのです。その目的が、NGONPOの目的と同じである場合もあります。会社の場合に特長的なの条件は、その事業が同時に金儲けにもなることです。
 
企業の目的としては、次の三つ、
 ①利益の追求
 ②事業(ある財やサービス提供)
 ③ステイクホルダー(顧客、株主、従業員)が幸せになること
が考えられるのではないでしょうか。そして、多くの企業では、この比重の違いがあれ、この三つ全てが目的になっているでしょう。
 
ただし、このような理解は、曖昧で、欺瞞的であるかもしれません。企業の本質は、やはり①利益の追求であるように思われるからです。より大きな利益を追求することは、会社にとっての本質的な性質であるようにおもわれます。より大きな利益を追求することが、会社組織にとって、構造上必然的に最優先されるようになっているのではないでしょうか。(これの証明が必要ですが、ここではとりあえず、前提しておきます。)n lang=”EN-US”>
 
このように考えるとき、会社は社会組織であると言えるのでしょうか。
 
12回に次のように書きました。テーゼ「社会の規則や組織などは、一人では解決できず集団で取り組まなければ解決できない問題(社会問題)を解決するために作られたものであり、またそのようなものとしてのみ正当化される」
これを利用して社会組織を定義すると、「社会組織とは、社会問題を解決するために作られたものであり、またそのようなものとしてのみ正当化される組織である」となります。
 
この定義に従うなら、会社は、社会組織ではありません。会社は、社会問題を解決するために作られたものではありません。なぜなら、社会問題を解決することは利益の追求のための手段だからです。また、会社は、社会問題の解決するものとして正当化されるのでもありません。会社(の活動や存在)が正当化されるのは、社会規則に従うことによってだといえるでしょう。
 
ある会社の目的は、利益追求ではなくて、ある事業の推進であったとします。しかも、その事業は、社会問題の解決への取り組みだと言えるのであったとします。このとき、この会社は、社会問題の解決するために作られたものだと言えます。しかし、この会社は、社会問題を解決するものとして正当化されるのではありません。この会社が、社会問題の解決に失敗しているとしても、社会の法的な規範(あるいは土徳的な規範)を審判しない限り、非難されることはありません。つまり、社会問題を解決するために作られた会社であったとしても、それは社会問題の解決するものとしてのみ正当化されるのではないので、社会組織でありません。
 
さて、会社が社会組織ではないとすると、第12回で述べた私たちの見取り図は、会社が大きな役割を果たしている現代社会を理解するには不十分だということになります。では、私たちは、さきの見取り図をどのように修正したら良いのでしょうか。
 
これを考えるために、問答の観点から会社を考えてみましょう。
 

 
 

NPOと私企業

 

        松林 直線を集め 天に向かう         
 
20 NPOと私企業 (20120817)
 
<社会問題とは、社会によってのみ解決できるような問題として申したてられた問題である>といえます。そして社会組織とは、社会問題を解決するために作られた組織です。しかし、ある社会問題を解決できる組織は、一つであるとはかぎりません。たとえば、ある社会問題は、あるNGOによって解決されるかもしれないが、しかし他のタイプのNGOでも解決できるかもしれないし、また行政によって解決されるかもしれないし、新しいビジネスモデルの企業によって解決されるかもしれません。したがって、<社会組織は、それによってのみ解決できる問題を解決するために作られたものである>とはいえません。ある社会問題が、一つのNGONPOによってではなく、多数のNGONPOによって解決される場合もあります。
 
奈良市の中に、奈良市の住民だけで作られているNPOがあるとき、奈良市とそのNPOの関係は、全体と部分の関係ではありません。なぜなら、二つは互いに独立して活動しているからです。しかし、交差というのでもないと思います。どうやら、組織と組織の関係を、人を要素とする集合の重なり方で区別するのでは、不十分なようです。前回の(a)(b)(c)の区別では不十分なようです。
 
市の活動とNPOの活動の違いは、<市の活動は、その集団のメンバー(市民)の問題を解決することであるが、NPOの活動は、その集団のメンバーの問題を解決することではなくて、メンバーの問題である場合もあるが、より広範な人々の問題を解決するための活動である>という点にあります。
 
さて、もう一つの気になる組織について考えてみましょう。会社もまた、社会問題を解決するために作られた社会組織のひとつだといえるでしょうか。「会社は、社会問題を解決するのでしょうか。」
 
たとえば、アダムスミスのいうように、工場での分業によって、安価に大量の製品を生産することが可能になりました。「どうやって、品質のよい道具を安価に提供すればよいのか」という問題を解決するには、工場での生産が必要でしょう。企業は、財やサービスを社会に提供します。しかも不特定多数の人にそれを販売しますから、彼らは、特定の人にではなくて、社会全体に貢献しているといえます。ある製品やサービスが、個人では生産・供給できず、複数の人からなる組織(企業)によって生産・供給可能であるとしましょう。このとき、この企業は社会問題を解決しているといえそうです。
 
では、それが国営企業であるときと私企業であるときの違いはなにでしょうか。
(社会組織と社会規則の関係については、企業についての考察の後で戻ることにします。私企業(会社)というのは不思議な存在です。私たちが考える図式の中で、企業を適切に説明できないならば、その図式はほとんど無効になってしまいます。)
 
 
 

「私たちはグローバル化にどう対応すべきか」

 
            森の中は、水槽の中のようです。
 
 
03 「私たちはグローバル化にどう対応すべきか」(20120809)
 
01で1990年代以後の日本社会(ないし日本の人文社会科学)の緊急の課題は、
    「グローバル化とは何か」
  ・「私たちはグローバル化にどう対応すべきか」
の二つに変化したと言いました。これは、日本に限らず、グローバルな変化であろうと思います。
 
社会のグローバル化によって、社会問題はグローバル化し、それに対する解決にはグローバルな取り組み、グローバルな制度が必要になります。また問題が、事実認識と意図の矛盾から生じるのだとするとき、社会問題は意図や目的や価値観の社会的共有を前提します(これについては、書庫「問答としての社会」で論じる予定です)。したがって、グローバルな社会問題の場合には、意図や目的や価値観のグローバルな共有を前提することになります。社会問題のグローバル化は、必然的に価値観や文化のグローバル化を伴っているのです。
 
例えば、「グローバリズムにどう対応するのか」という問題の一つの具体化は次の問いです。
 
問題1「グローバルな単一市場資本主義を認めるのか。
    認めないとしたら、それをどう規制するのか」
 
このような問題意識の背後にある規範、あるいはこれの答えを見つけようとするときに従うべき一つの基準は、「差別と貧困と格差をなくして、自由で平等で平和な社会を実現すること」ではないでしょうか。これは、ほぼグローバルに共有されている価値観であり、(少なくとも当面の)世界の目標として共有されているのではないでしょうか。(この目標が現実には程遠いことは誰もが認めることであり、その実現が非常に困難であることも誰もが認めることであるとしても、これを否定するひとはほとんどないのではないでしょうか。)もしこのような価値観を世界の人々がほぼ共有できているのだとすると、そのことだけでも人類史の大変大きな達成です。
 
ただし、ここでの「自由」や「平等」の意味は、伝統的な文化の分厚いコンテクストを持っていません。たとえば、「人権」という規範は、(近代西洋でその概念が登場したときには、ジョン・ロックにおけるようにキリスト教が背景にあったのだが)現代においてほぼグローバルに受け入れられているものとしては、キリスト教のコンテクストを前提していません。
 
これは分厚いコンテクスト抜きに共有されている規範です。この規範を究極的な仕方で基礎付けることは難しいですが、この規範のグローバルな受容ないし妥当性を正当化することは必要です。(この正当化は、(哲学などの)専門家だけによって行われれば十分でしょうか。それともこの正当化自体が、グローバルに共有される必要があるでしょうか。これは、今後の課題としておきます。)
 
「グローバル化にどう対応するか」という問題のもう一つの具体化は、次の問いです。
 
問題2「グローバルな共通文化の支配を認めるの
か?
    認めないとしたら、個別の文化や言語の意義は何か?」
 
これに答えるときの基準の一つは「個人の自己決定の尊重」であると思われます。これもまた、グローバルに共有されつつある規範だと言えるでしょう。ただしこの場合の「個人の自己決定の尊重」もまた、それがグローバルに共有されるためには、特定文化の歴史的なコンテクストから自由になる必要があります。
 
文化はグローバル化によって、どのように変容するのでしょうか。
しばらく、この問題を考えたいとおもいます。
 
(といっても、お盆は帰省しますので、お休みします。)