仕切り直し

                                      梅雨の間の6月の光です。 これを俳句にすると・・・
 
10 仕切り直し (20120614
 
前回疲れきっていたのので、仕切り直しをします。
 
復習
08(20120602)から取り組んでいる課題は、「人格は、個人(あるいは個体)では解決できない社会問題を解決するために作られた制度である」を証明することです。
 
<人格は社会的制度の一つです>
これはつぎのように証明できます。
  ①人格は、問答ないしその連鎖です。
  ②問答は、言語によって成立します。
  ③言語は、社会的制度です。
  ④ゆえに、人格は、社会的制度の一つです。
 
冒頭の課題は、次のように推論を続けることで証明できます。
  ⑤社会的制度は、個人(あるいは個体)では解決できない社会問題を解決するために作られ    た制度です。
  ⑥ゆえに、人格は、個人(あるいは個体)では解決できない社会問題を解決するために作ら
    れた制度です。
 
以上の推論で、弱いところがあるとすると、前提①と⑤でしょう。
①については(まだ不十分ですが一応)書庫「問答としての人格」で説明しました。
⑤については、これを説明し、証明することがこの書庫の課題です。
 
⑤の証明が先か、⑥の証明が先か、この関係の不透明性は、そこに登場する「個人」と「人格」の関係が不透明であることに由来します。そこで、以下では、⑤を用いるこの推論によらないで、⑥の証明に取り組みたいと思います。
 
前回(09回)で考えたことは、人格が問答からなり、かつ、問答が現実認識と意図からなるとすると、人格の成立は、意図表明の発話「私は、・・・したい」を前提します。しかし、一人称代名詞「私」の使用よりも、固有名(例えば)「ユウちゃん」の使用のほうが先です。ゆえに、「ゆうちゃんは、・・・したい」という形式の意図表明の発話が先になります。すると、「ひとの固有名はどうして生じたのか」が問題になります。
私の予測では、
   ⑦ひとの固有名は、社会制度の一つであり、個人では解決できない問題を解決するために
    つくられました
ということになります。これを証明することと⑥を証明することは同一ではありませんが。まず、これを証明することが、⑥の証明に近づく重要なステップになるでしょう。
 
そこで問題はこうなります。
「なぜひとの固有名がつくられたのでしょうか」
 
ひと名前がないときにも、あるいはひとが言語を持つ前にも、ひとは個体を識別していたと思われます。それは猿も同様です。
 
  ⑧猿は、群れの中の個体を識別しています
 
これは、群れに新しい猿が来た時に、彼らの行為が変化すること、緊張しているように見えること、などから、観察できることです。サルの研究では、このような推論をすることに問題はないだろうと思います。しかし、認識論的に考えるときには、猿の行動の観察から、⑧を結論することには、大きな飛躍があるように思われます。
 
この⑧は、次の⑨を想定しているように思われます。
 
  ⑨猿は、群れがあることや、群れが多くの猿からなることを理解しています
 
まずこの想定を、どのように理解すべきかを考えたいと思います。
 
「そもそも、世界には何が存在するのでしょうか」
これは難しい問いです。世界は、素粒子からできています。世界は原子からできています。もしこれらが正しのだとすると、机は存在するのでしょうか。それは素粒子の集まりに過ぎません。素粒子が存在することと、机が存在することの間には、一枚のトランプカードが存在することと、トランプの一セットが存在することのような違いがあります。これと同様に一匹の猿は、素粒子の集まりであったり、細胞の集まりであったり、臓器の集まりであったりします。また生物の個体の集まりが、生態系であり、生態系もまた存在します。では、何が存在すると言うべきなのでしょうか。しかしここでは存在論の問題はさておいて、とりあえず、素粒子も、細胞も、臓器も、猿の個体も、群れも、生態系も、存在するといっても良いことにしましょう。
 
次に問題になるのは、「猿が、世界の中から、何を存在しているものとしてを取り出すかは、どのようにして決まるのでしょうか」ということです。センサー付きのコンピュータが、「あなたの見える世界には何がありますか」と問われた時に、どのように答えるかは、それがどのような概念枠組みで世界を記述するかに依存するでしょう。同様に、ある生物が、世界をどのように捉えるかは、その認識能力と利害関心に依存するでしょう。このことは、猿でもヒトでも同様です。そして、おそらく猿について次のように言えるでしょう。
  ⑨猿は、群れがあることや、群れが多くの猿からなることを理解しています
 
この延長上で考えるとき、
  ⑧猿は、群れの中の個体を識別しています
これもまた、猿の認識能力と利害関心に基づいて成立したのだと言えます。ただし、猿が利害関心に基づいて個体を識別している、といっても、これは人間による記述であって、猿自身は、利害関心を意
識していません。なぜなら、猿は言語を持たないからです。猿について⑧が言えるようにおもえるのですが、私たちに確実に言えるのは、猿の行動について記述だけであって、その意味では、⑧もまた猿の行動の記述の言い換えにすぎない、ということになります。脳研究が進むと、猿の脳内のプロセスの言い換えだといえるようになるかもしれません。
 
幸いにも、私たちにとっての現在の問題は、言語を持つひとの場合です。ひとの場合には、本人が利害関心を意識しているといえるでしょう。
 
  ⑩ひとは、集団の中の個人を識別している。
 
これもまた、ひとの認識能力と利害関心に基づいて成立したのだと言えます。
(もし「利害関心を意識しているとはどういうことか」と問われたならば、どう答えたらよいでしょうか。<利害関心を言語で表現できるならば、利害関心を意識している>と言えます。しかし、<言語で表現できないならば、利害関心を意識していない>と言えるかどうかは微妙です。なぜなら、言語が発生するときの、利害関心については、言語で表現されてはいないが、意識されているように思われるからです。)
 
もし人間社会に言語が成立しており、個人を識別するときの利害関心が意識されているのだとすると、個々人に関する利害を言語的に表現しているのではないでしょうか。「あいつは危険だ」「こいつは仲間だ」というようにです。「あいつ」や「こいつ」は、人称代名詞ではありません。「これ」「あれ」に類する指示詞だと考えられます。
 
――――――――――― 
話が回りくどくなったので、まとめておきます。
 
「人格は何故生じたのか」
これに答えるための、ひとつのステップとして
「固有名はなぜ生じたのか」
という問いを考えることにしました。これに答えるために、まず
「ひとが、集団のなかで個人を識別するのは、どのようにしてか」
という問いを立てました。これに対して、
「それは、ひとの認識能力と利害関心に基づいて、である」
と答えました。この利害関心にもとづいた、個人識別は、例えば
   「あいつは危険だ」
   「こいつは仲間だ」
というような発言になると思われます。
 
 
 
 

社会問題の解決としての人格

 

                            今日はつかれました。

 
 
09 社会問題の解決としての人格 (20120608)
 
別の書庫で述べたように、「人格とは、問答ないし問答の連鎖である」と考えることにします。
ではそのような人格はいつ、どのようにして成立したのでしょうか。
 
問答の成立は、言語の成立と同時だと考えられます。では、人格の成立はいつでしょうか。人格を構成する問いは、現実認識と意図の矛盾から生じるとしましょう。人格が成立するには、意図「私は・・・したい」の成立が必要になります。ところで、幼児の発達段階では、自分の名前を言うことが、「ぼく」「わたし」などの一人称代名詞の使用に先立つと言われています。人格が成立するときには、名前の成立、例えば「ゆう」の成立が最初に必要であるかもしれません。「ユウは、・・・したい」という意図が成立して、初めて人格を構成する問いが成立することになります。では、人の名前は、どのようにして発生したのでしょうか。
 
猿は、すでに群れのなかの個体を識別していると思われます。だからこそ、群れの中に新しい猿が参加することがむずかしくなります。人類も、言語を使用する前から、個体を識別していたと思われます。では、人に名前を付けるようになる理由は何なのでしょうか。名前があれば、その個体について語ることが可能になります、また特定個人に呼びかけることが簡単になります。名前は、最初は、個人について語るためよりも、個人に呼びかけるために、作られたのではないかと想像します。呼びかけることが必要なのは、より迅速、正確なコミュニケーションのためでしょう。
 
個人の名前は、物の名前と同様に、集団の中でその使用が承認されることによって成立します。したがって、個人が名前を持つことは、社会によってのみ解決可能な課題です。このときの問題は、「より迅速、正確なコミュニケーションをどのようにして実現するか?」だったのでしょうか。これだけでは、理由として弱いような気がします。
 
各人が名前を持つことによって、集団は、どのように変化するのでしょうか。
 
 今日は疲れ果てて、あまりかけません。)

相互覚知から生じる問題 

 
五月晴れ 緑の木々に 鳥が鳴く
 
07 相互覚知から生じる問題 (20120527)
 
 相互覚知が生じることによって、ヒトの群れに生じる問題は、西田定規さんが、言語の発生の原因になったと考えているある事態と(同じではありませんが)よく似ています。西田定規さんは『人類史のなかの定住革命』(講談社学術文庫)の第十章「家族・分配・言語の出現」において、ヒトはオナガザルに襲われた時に彼らを追い払うために、石や棍棒を携帯するようになったが、それは同種同士の喧嘩においても、互いにとっても危険な存在になったということです。鋭いキバなどをもつ動物の場合には、同種の殺し合いが生じないように、攻撃抑制の遺伝的なメカニズムを持っている。しかし、霊長類の場合、同種内の殺し合いが、カニクイザル、ラングール、ゴリラ、チンパンジーで観察されているそうです。
 この争いの原因の中心は、食べ物と性であろうということです。そこで、食べ物の分配と、家族(性の対象を特定の異性に限定する)が争いを防ぐために作られたのだろうと、西田は推定します。類人猿は、「挨拶行動や宥和行動によって互いの緊張を解消し、また親和的であることを確認して」います。これは毛づくろい、抱き合い、交尾の姿勢をとるなどによって行われますが、それには身体を接近させる必要があります。しかし、「棒や石をもった人類が、安全を確認する前に身体を接近させることは、はなはだ危険なことである」(p.246)そこで、音声による伝達が類人猿よりもはるかに重要な位置を占めるになったのであろう、と西田定規は推測しています。(もちろん、私には判定する能力がありませんが、この議論は説得的であるように思われます。)西田定規さん、人類の最初の言語をこのような「安全保障の言語」であったと考え、それに対して、分配や計画、命令、約束などの言語を「仕事をする言語」と呼んでいます。
 西田定規さんの議論で一箇所だけ気になったところは、「われわれは、挨拶に答えないことが原因になって緊張が生じてくるかのように感じるが、そうではなくて、挨拶を無視すれば、出会うことで生じた緊張が解消されないまま顕在化してしまうのである」(前掲書p.248)と言われているところです。彼はおそらく次のように考えています。<挨拶に答えれば、緊張を鎮めることになるが、挨拶をしなければなになかったのと同じである。挨拶に答えなかったときに、緊張が生じるように感じるのは、錯覚であって、以前からあった緊張が顕在化するだけだ。>これは、<言語によるコミュニケーションは相互覚知を前提して、初めて成立する>という想定が正しいとすれば、間違いです。なぜなら、相互覚知が成立しているところでは、<挨拶することは、仲良くしようという意図を伝えること、そしてその意図を持つことが相互覚知になることを意図しています。したがって、そのような状況で挨拶に答えないことは、仲良くしようという意図をもつことを相互に覚知しているにもかかわらず、それ無視したことになり、しかも無視したことが相互に覚知されることを予期することになるからです。>
 相互覚知が成立しているところでは、<どのように行為するにせよ、そこの何らかの意図が読みこまれてしまうこと、しかもそのことが相互に覚知している>という状況が発生しており、そのことが、<望んでいないのにもかかわらず伝わってしまう意図をコントローする>必要を生じさせるのです。つまり敵意をもっているかのように伝わってしまうことのないように、つねに態度や発声を反省し、それをコントロールする必要が生じるのである。言語がこうして生まれてきたのではないでしょうか。
 相互覚知によって、言語によるコミュニケーションが可能になると同時に、相互覚知がなければ生じなかったような誤解の発生も可能になるので、それを避けるためにも、言語によるそのコントロールが必要になるのです。
 
 
 
 

相互覚知の成立時期

奈良からみた金環日食です。
これって、太陽を見ているのでしょうか。それとも月をみているのでしょうか。
 
 
06 相互覚知の成立時期 (20120521)
 
私が「共有知」と呼ぼうとしているものについては、書庫「世にも奇妙な「共有知」」を読んでいただければありがたいです。しかし、これは、通常「共有知」とか「相互知識」と呼ばれているものとは、少し異なっています。通常「共有知」と呼ばれているのは、xとyがいた時に、pを二人が知っていることを、二人が知っていることを、二人が知っている、・・・というような自体なのです。しかし、しかし、知や信念の主体は、最終的には、個人であるので、最後には「・・・・と、xは思っている」という表現になってしまいます。もちろん、yも同じように考えている可能性はあるのですが、そのこととも、最終的には、「xさんは、そう思っています」ということになります。これに対して、私は、個人主体の知に還元されないような、まさに一つの知を共有知と呼ぼうとしています。(残念ながら、それの証明は、まだ十分な形では出来ていません。)
 
前回、「共有知が生み出す個人では解けない問題」を、解決するために生み出されたのが言語であるという仮説をのべました。しかし、共有知というのは、(私の場合も、通常の場合も)命題知を共有することを意味します。しかし、ここでは言語が成立する前の共有知についての問題にしたいのです。つまり、そこで共有されているのは命題知ではありません。ある種の気づきのようなものです。それはグレゴリー・ベイトソンが「相互覚知」(mutual awareness)と呼んだものです。それは、人間と人間が出会い互いに相手の目を見た時には、互いに目があったことに気づくということです。つまり、相手が私を見ており、私が相手を見ていることを、二人はともに気づいており、そのことに二人はともに気づいており、・・・という自体のことです。
 
 そのような相互覚知を類人猿がもつだけでなく、家畜も持つだろうと、ベイトソンは述べています(ロイシュとの共著『コミュニケーション』)。しかし、私には、それは信じられません。相互覚知が成立するためには、相手が自分を見ていると気づくことが必要であり、自分に気づくことつまり、自己覚知が必要であり、しかし、牛などの家畜は、自己覚知を持たないからです。マカクザルもまた自己覚知を持たないかもしれません(板倉昭二さんの研究によると、自己覚知を持つのかもしれません。板倉昭二『「私」はいつ生まれるか』ちくま新書)。これを持つとはっきりと言えるのは、チンパンジーです。
 自己覚知(Self-awareness)というのは、鏡を見た時に自分が写っていることに気づくということです。これを調べるマークテストというのがあります。それは動物が寝ているあいだに、赤い印を額や耳につけて、目覚めたあとに鏡を見て、それに触るかどうかを調べる有名なテストです。チンパンジーはこのテストにパスします。つまり、ヒト族のチンパンジーは、自己覚知を持っているということです。それゆえに、ヒト族の中のヒト亜族のアウストロラロピテクスも自己覚知を持っていただろうとおもいます。
 
 では、チンパンジーが相互覚知を持つかどうかですが、私にはどのような実験をすれば、それがわかるのかわかりません。ただし、私はチンパンジーはおそらく相互覚知を持たないだろうとおもいます。
 自己覚知があるとしても、「相手が私を見ていることに私が気づく」ということが成立するとは限らないと思います。これは相手の気づきについての気づきがひつようだからです。マークテストをパスするよりももっと複雑です。さらに、「私が相手を見ていることを、相手が気づいていることに、私が気づく」ということも必要ですが、これはもっと高度です。私は、チンパンジーには、おそらくこのようなことは不可能だろうと推測するのですが、しかし根拠を示すことは出来ません。
 これと同様に、アウストラロピテクスにとっても、おそらく相互覚知
は不可能であっただろうと思っています。これもまた根拠はありません。打製石器をつくる様になった人間ホモ・ハビリスならば、それが可能になったかもしれませんが、おそらくは、もっと後だろうとおもいます。これもまた根拠はありません。
 言語の発生を、ホモ・ハビリスに想定する研究もあるようですが、多くの研究者は、もっと後の時代に想定しているようです。私は、相互覚知が引き起こす問題を解決するために、言語が登場したと考えますので、相互覚知の成立は、言語成立時期とあまり変わらないと考えます。したがって、言語の発生がもっと後ならば、相互覚知の発生ももっとあとになるでしょう。
 このような相互覚知によって、ある問題が生じて、それを解決するために言語が生み出されるというのが、私の仮説です。それを次回に説明します。
 
 
 

 言語の起源について

 
     a Japanese balloon bombe の説明文です。
 
 
 
05 言語の起源について (201205015)
 
(言語起源論という悪名高い深みにはまってしまって、しばらく思弁的な勝手な推量を語ることになりそうです。)
 
復習ないし議論の再構成をしたいと思います。
 
「動物の群れと人間の社会を区別するものはなにだろうか?」
これに対して、「言語の有無だ」と答えると仮定しよう。
 
もし言語の有無によって、動物の社会から人間の社会を区別できるのだとすると、私たちは、次のような社会の定義を仮定することもできるだろう。(この二つの仮定が、必然的に結合しているのかどうかを検討してみる必要があるが、それはまだ未確定である)
 
仮定「個人では解けない問題を解決するために作られたものが、社会(社会制度)である。個人では解けない問題を解決しようとする活動が、社会運動である。社会制度や社会運動はそのようなものとしてのみ正当化されうる」
 
このように考えた時に「言語は、社会制度なのかどうか」という問いにはどう答えることになるのだろうか。これに対する答えには、肯定と否定の答えが可能であり、アンチノミーになりそうだ、と前回のべた。
 
しかし、この問いに対しては、とりあえず、次のように答えることにしたい。
<言語は、個人では解けない問題を解決するために作られたものである。それゆえに、社会制度であるように見える。しかし、言語によってはじめて解決される個人では解けない問題は、当事者が言語で考えている問題ではない。したがって、「言語は、個人では解けない問題を解決するために作られた」と言えるとしても、それは当の個人による理解ではなくて、記述する者が「個人では解けない問題」であると記述しているにすぎない。>
 
では、「言語を生み出すことになった、個人では解けない問題とは何であったのだろうか?」
これに対して、以下で提案したい答えは、次のとおりである。
「言語が成立するには、共有知の成立が前提となるだろう。そして、その共有知の成立が、個人では解けない問題を生み出したのだろう。」
 
(もし、類人猿は共有知を持たないとすると、言語を生み出すことになった、個人では解けない問題を解いたのが人間であり、解けなかったのが類人猿であったとは言えないことになる。つまり、言語を生み出すことになった、個人では解けない問題は、そもそも類人猿には生じなかったのだ、と言うことになる。このように考えるとき、「言語ではなくて、共有知が、動物の群れと人間社会を分けるものだといえるのではないか」という疑問が生じる。これについては後で考えよう。)
 
まずは、共有知によって生じた個人では解けない問題とは何であったのかを、推測してみよう。
 t>
言語の発生や学習において、発話の意味を理解するよりも、次の①や②の理解が先行するだろう。(Davidsonは発話の意味の理解よりも、主張という発語行為の理解が先行すると考えた。ところで、発話は主張型発話には限らない。命令、警告、依頼、約束等々のその他の発語内行為もある。命令と警告の区別や、依頼と約束の区別などは、発話の意味の理解ないし想定なしには大変難しいだろう。主張しているのか、約束しているのかの区別についても、発話の意味の理解なしには難しいのではないだろうか。しかし、より曖昧な仕方でのつぎのような理解は、発話の意味の理解や、発語内行為の理解に先行して可能なのではないだろうか。)
 
①何かを伝えようとしていることの理解
②何かに注意を向けようとしていることの理解
 
例えば、外国人が何かを伝えようとしているが、何を伝えようとしているのか、わからないということがあるかもしれない。たとえば、質問しているのか、何かを依頼しているのかわからないことがあるだろう。そのときでも、彼女が何かを伝えようとしていることはわかるだろう。例えば、誰かが何かを指さして、大声を出しているとすると、何を指示しようとしているのかはわからないとしても、何かに注意を向けようとしていることがわかるだろう。
 
ところで、私たちは、次の二つの理解を区別できる。
 
(1)内容はわからないが、相手が何かを伝えようとしていることを理解すること
(2)相手が伝えようとしている内容を理解すること
 
この(2)が成立しなくても、(1)は成立しうる。(ところで、(2)が成立するときには、(1)が必ず成立していると言えるかどうかについては、ここでは未確定にしておきたい。)
 
この(1)と(2)の各々について、共有知が成立しうる。
(1)の理解についての共有知は、(2)の理解や(2)の理解の共有知がなくても成立しえる。
((2)の理解の共有知が成立するときには、(1)の理解の共有知が必ず成立するかどうかは、ここでは未確定にしておきたい。)
 
共有知とは何かを説明してから、それが生み出す個人では解けない問題を説明しよう。
 
 

群れをつくる理由

 第二次大戦中に日本軍が放った風船爆弾は、ここOmahaで爆発しました。しかし、けが人は出なかったそうです。 このあたりは、Omahaのビバリーヒルズとよばれているところです。
 
04 群れをつくる理由 (20120509)
 
Wikipediaで調べると、動物が群れを作る理由としては、次のようなものが指摘されているようだ。
  ・他の種の動物から身を守るために集団でいた方が有利。
  ・餌をとるのに、集団の方が有利
  ・過酷な環境に耐えるのに、集団でいた方が有利
  ・生殖相手を見つけるのが容易
群れを作るデメリットとしては、次が考えられているようだ。
   ・仲間から攻撃を受ける可能性がある
 
さて、人類の祖先の動物が群れを作ったとき、上記のような理由であったとすると。個体では解決できない問題を解決するために群れを作った、といえる。また、森の中からサバンナへと群れとして移動したのだとすると、それもまた、個体では解決できない問題を群れで解決したといえる。
 
このような群れが、次の仮説「社会の規則や組織などは、一人では解決できず集団で取り組まなければ解決できない問題(社会問題)を解決するために作られたものであり、またそのようなものとしてのみ正当化される」を前提するときに、「社会」だと言えるかどうかは、「問題を解決するために作られた」をどのように解釈するかに依存する。
 
たとえば、チンパンジーが、固いクルミの実をとるために、石をつかって、殻を壊しているとしよう。「チンパンジーは、石を使うことによって、「どうやってクルミの実を取り出すか」という問題を解決したのだ」と語ることができる。しかし、そのように語るのは人間である。チンパンジー自身が「どうやってクルミの実をとりだすか」という問いを立て、それに答えたのではない。「問題を解決する」によって、<言葉にして問いを立て、それに答えること>を意味するなら、このような意味で社会を作るのは、言語を持つものだけである。このような意味で「社会」を理解するなら、社会が登場するのは、言語の発生の後である。
 
オーストラろピテクスが、霊長類のなかで出現するまえから、人類の祖先は群れで生活していたかもしれない。もしそうだとすると、群れを作った時に、言語を持っていなかったことは確実である。 言語は、群れの生活の中で出現したのだといえる。
 
言語そのものは、社会制度だと言えるだろうか。先の仮説を採用するとき、言語は社会制度になるのだろうか。言い換えると、言語は、個人では解けない問題を解決するために作られたものだといえるだろうか?「そのとおり」と答えたくなる。
しかし、他方では、言語が何かの問題解決のために作られたとしても、その問題はまだ言語化されていないはずである。したがって、この仮説によれば、言語は社会制度ではないことになる。
 
これをどう考えたらよいだろうか。
 
 
 
 
 
 

社会とは何か?

Central High School in Omaha
OmahaはKripke が生まれた街です。この高校がKripkeの通っていた高校です。
アメリカは高校も大学も大変立派です。アメリカは教育を大切にしているし、子供たちを大変大切にしているという印象を受けました。
 
01 社会とは何か? (20120423
 
この問に対する答えには、次のようなものがある。
 
社会は有機的な全体であるとする立場(ヘーゲル)
社会は個人から構成されると考える立場(ホッブズ)
社会は行動から構成されると考える立場(パーソンズ)
社会はコミュニケーションから構成されると考える立場(ルーマン)
 
この問いに答えるためには、「社会」という語で何を指示するのかを、確定する必要がある。その指示対象xについて、「xは何か」と問い、それに対して「xは○○である」と答えたものが、上記の様々な答えである。上記のような答えを検討する前に、まず「社会」で何を指示するのかを、検討する必要があるだろう。
 
「社会とは何か?」に答えるには、その前に、「「社会」で何を指示するのか?」を問う必要がある。
 
 
 
 
 

三つ巴:人格・言語・問答

                                    春を迎え 嵐の予感の 出張前
 
三つ巴:人格・言語・問答 (20120403)
 
問題は、こうでした。
「ヒトはなぜ「人格(ひと、人物)」という概念を必要とするのか?」
「わたしたちはなぜ自分探しをするのか」
 
箕面の滝の近くに沢山のサルが住んでいる。サルは、食べ物と食べ物以外のものを識別できる。サルとサル以外の動物も区別できるだろう。また、群れの中の他の個体の識別もできるだろう。つまり、他の個体の同一性を認識している。そして、他のサルとエサなどをめぐって争うことがあるだろう。つまり、そのときサルは、自分のエサや、自分の安全を確保しようとしている。このようにして、私たちは、サルの行動を記述するとき、「自分」という語を使用する。しかし、それは擬人法である。サルは、自分の観念や自己意識を持っているかのようなふるまいをするだけである。サルは、鏡を見せられても、その中に写っている個体が、自分であることが認識できない。そこに他の個体が写っていると考えるのだ。自分のvideo映像を見せられても、自分だとはわからない。サルが自分と彼女の親密そうな映像を見せられた時に、他のオスと自分の彼女が親密そうにしていると思って、怒り出すというというTV番組を見たことがある。
 最近自動掃除機が売りだされている。それは室内を移動しながら掃除をして、その電池残量が少なくなると、自動的にベースとなる機械のところに戻って充電するようになっているそうだ。それを私たちが観察するとき、「その機械は自分の電池残量を常に一定以上に確保しようとする」と記述することもできる。このように「自分の電池残量」という言葉でその機械の振る舞いを記述するが、しかしその機械が「自分」という観念を持っているとは考えていない。この記述も一種の擬人法である。(この場合には、「それの電池残量」と言い換え、また「確保しようとする」という意図を思わせる表現を、「保つようにふるまう」と言い換えれば、擬人法を避けられる。)
 サルがよくできた機械だとすると、「サルが自分のエサを確保しようとしている」という記述は一種の擬人法である。サルは、知覚したり、感情をもったり、欲求をもったりしているように見えるし、またそのように記述できるような振る舞いをする。しかし、この場合「知覚」や「感情」や「欲求」という語をどのように理解するかについては、多様な可能性がある。したがって、「サルは欲求をもっている」という文の意味は多様であり、どのような意味においてそれが真であるのか、難しい問題が生じる。また、「サルは自分の仲間であるサルの観念を持っている」とか「サルはエサの観念をもっている」などの文についても、文の意味は多様であり、どのような意味においてそれが真であるのか、難しい問題が生じる。(ここには、クワインの「言語と事実の解離不可能性テーゼ」や、デイヴィドソンのいう「意味と信念の相互依存性」という問題がある。)
 この困難に対処するために、ここでは、とりあえず、「観念をもつことは、言葉をもつことなしにはあり得ない」と前提する(これの証明は別途必要である)。そうすると、サルが「自分」という観念を持っているかどうかを言うことはたやすい。<サルは言葉をもたない。ゆえにサルは「自分」の観念を持たない>となる。
 ところで、「観念をもつことは、言葉をもたないではあり得ない」と前提すると、「人格」の観念を持つためにも、言葉を持たなければならないことになる。しかし、言葉を持った後に、一つの観念として「人格」の観念を持つようになるというのではないだろう。ヒトが言語を獲得するために、また幼児が言葉を学習するためにも、言語表現そのものへ言及することが必要である。「「デンキ」は、・・・という意味ですか」と尋ねることができなければ、「デンキ」という語を習得できないだろう。また話し手や聞き手に言及できなけければ、「あなたは今何といったのですか」と尋ねることができなくなり、言語を学習できないだろう。人称代名詞の習得は、固有名の習得よりも遅れるので、まず最初に「○○ちゃん」という固有名や、固有名として使用される「ママ」などの語を習得しなければ、話し手や聞き手への言及は不可能であり、言語の学習はできなくなるだろう。AさんがBBさんは自分への言及ができる必要がある。おおそらく最初の段階では、「○○ちゃん」というような固有名を理解するという仕方で、自分を言及するようになるのだろうが、とにかく自分への言及が必要である。ここに「人格」概念の萌芽がある。もし「人格」概念が普遍的な概念であるとすると、「ぼく」や「あなた」という人称代名詞を使用し始めるころが、「人格」概念の萌芽になるというべきかもしれない。
 このように言えるとすると、言語を使用するためには、「人格」概念が必要である。これに基づいて、「ヒトはなぜ「人格(ひと、人物)」という概念を必要とするのか?」に答えるならば、「なぜなら、言語を使用するためには「人格」概念が必要であり、かつ、ヒトは言語を必要とするからである」と答えることになる。
 
 では、「ヒトは、なぜ言語を必要とするのだろうか?」ヒトが生物として存続するためには、自分の餌を確保したり、自分の安全を確保することが必要である。それを行う上で問題状況を言語で明確に語り、その解決に取り組むことは、非常に有用である。もし問題が、<事実についての認識>と<欲求や意図>の矛盾から生じるのだとすると、問題を言語で明確に語ることは、言語で世界の状況を客観的に記述し、自分の欲求や必要を言語で明確に語ることによって可能になる。そして「自分の欲求」「自分の必要」を言語で明確に語ることは、「私は…したい」「僕は・・・する必要がある」などの表現になるだろう。つまり「人格」概念を必要とするだろう。
 
 思弁(経験的な証拠に基づかない議論)が過ぎるような気もするが、ヒトが生物として出会う問題に有効に対処するために、言語も生まれたし、人格概念も生まれた、と言えるのではないだろうか。
 
 明日から出張です。次回は多分出張先からuploadします。
 
 

ここまでの復習

 
 
 

                  ハナミズキ 異国から来て 百周年
 
1912東京市尾崎行雄が、アメリカワシントンD.C.ソメイヨシノ)を贈った際、1915にその返礼として贈られたのが、日本のハナミズキの始まりだそうです。今年が桜の寄贈100周年だそうです。(Wikipediaより
 
 ここまでの復習 (20120328)

 

この書庫の課題は、「人格は、問答ないし問答の連鎖である」というテーゼを説明し、証明することだった。
 
①問題とは現実認識と意図の矛盾であり、そのような問題を解決するために、私たちは問いを立てる。
②私たちが生きることは、行為することであり、行為を構成する実践的知識は問いに対する答えとして成立する。これらの問いは、問いの連鎖のなかで成立している。したがって、私たちが生きることは、問いの連鎖である。
③人格とは、問題群の束の連続的な変化である。
④人格の同一性を個人の記憶で保証することはできず、Davidsonのいう「三角測量」を必要とする。三角測量によって人格の同一性は、公共的に保証される。
⑤しかし、三角測量によって人格の同一性を保証することは、もし三角測量が人格を前提しているのなら、循環論法になるように見える。この問題を解決するために、人格の同一性を区別した。
⑥短期・中期・長期の人格の同一性の区別
 (1)三角測量と同時に成立する人格の同一性(短期の同一性)
 (2)計画する人格の同一性
  (2-1)単に計画する人格の同一性(中期の同一性)
  (2-2)約束する人格の同一性
     (2-2-1)社会制度に関わらない同一性(中期の同一性)
     (2-2-2)社会制度に関わる同一性(長期の同一性)
⑦<計画する人格の同一性>は、計画の設定、実行、変更などの合理性が問答によって構成されることによって構成される。
⑧<約束する人格の同一性>は、共同計画の設定、実行、変更などの合理性と、責任の発生、継続、変形、解消などの合理性が問答によって構成されることによって構成される。
 
まだ残されてる課題は多い。たとえば次のようなものである。
 
①三角測量が前提すると同時に三角測量によって保証される<短期の人格の同一性>の分析を行う必要がある。
②問答としての人格について、これ以上に分析を進めようとすると、「合理性」「自由」「責任」などの概念の分析を行う必要がある。
③廣松渉の行為主体論との対質。
④大庭健の責任論との対質。
⑤永井均の<私>論との対質。
 
これらの課題のうちの多くは、<人格と社会との関係>の分析を必要とするだろう。あるいは、人格と社会の関係の分析の後で、この書庫記述の多くを見直す必要が出てくるかもしれない。そこで、次に別に書庫をたて「人格を構成している個人問題が、社会問題とどのように関係しているのか」を考察したい。
 
しかし、その書庫に移る前に、そこでの議論との接続を考えて、考えておきたい問題がある。それは次の問題である。
「ヒトはなぜ「人格(ひと、人物)」という概念を必要とするのか」
「わたしたちはなぜ自分探しをするのか」