47 GPT4による規則遵守問題の解決(20230524)

[カテゴリー:日々是哲学]

1000+2が1004ではなく1002であることをどうやって正当化するかという問題(ウィトゲンシュタインの指摘した規則遵守問題)は、最終的には社会的サンクションによって解決するしかないという考え(クリプキ)があります。この社会的サンクションをより具体的に考えるときに、ロバート・ブランダムはヘーゲルの承認論を用いようとします。しかし、(GPT4のような)大規模言語モデル(LLM)のAIが社会インフラになるとき、AIによって社会的サンクションが与えられるようになるのではないでしょうか。知の規則遵守が、社会的サンクションによって成立するとすれば、それはLLMのAIによって成立します。それで?(ここから先は、これから考えます)

55 論理的語彙の保存拡大性:再考 (20230521)

[カテゴリー:問答推論主義へ向けて]

前回検討した批判を、「疑問表現の保存拡大性」に基づいて説明すると、それは次のような批判だと思われます。<疑問表現が保存拡大的であるとしたら、その使用によって、その他の推論関係を変えないはずである。したがって、その使用後に両立不可能な関係が成立しているのだとすると、その使用前にも両立不可能な関係が成立していたはずである。したがって、同一の問いに対するある二つの答えが両立不可能であるとしたら、それの二つの主張は、同一の問いで問われる前から両立不可能であったと思われる。>

この批判を検討するために、疑問表現と論理的語彙の「保存拡大性」について考察したいと思います(これについては、『問答の言語哲学』で論じましたが、ここではもう少し議論を深められると思います)。今回はまず論理的語彙の保存拡大性について考察します。

論理的語彙の「保存拡大性」とは、<論理的語彙(論理結合子と量化子。このほかに何を含めるかは論争の余地があります)を(導入規則によって)導入して、直ちに(除去規則によって)除去するとき、論理的語彙の導入と除去の前に、正しくなかった推論が正しくなることはなく、正しかった推論が正しくなくなることはない、つまり、以前の推論関係が保存される>ということです。

ゲンツェンは、論理結合子の使用法をそれの導入規則と除去規則で説明しました。しかし、どのような導入規則と除去規則を明示すれば、どのような論理結合子を設定してもよいとすることはできません。そこでBelnapは、上記の「保存拡大性」を必要条件として提案しました。

論理結合子の導入規則(I)と除去規則(E)は、次の通りです。

ところで、私たちは、論理的語彙を使用する前にも、推論を行っています。それを「暗黙的推論」と呼ぶことにします。私たちは、論理的語彙を導入することによって、暗黙的推論を明示化するのです。これによって、命題と命題の論理関係が明示化されます。

例えば、「これはリンゴです」から「これは果物です」と言うことができます。このとき私たちは論理的語彙を使用しませんが、暗黙的推論を行っています。その推論を明示化すると「もしこれがリンゴであるなら、これは果物です」ということになります。ここでは論理的語彙「もし…ならば、…」を使用しています。つまり、暗黙的に行っている推論を明示化するには、論理的語彙が必要です。もう一つ例を挙げましょう。「これはリンゴです」から「これはナシではありません」と言うことができます。このときも私たちは暗黙的に推論を行っており、その推論を明示化すると、「これはリンゴであり、リンゴはナシではないので、これはナシではない」ということになります。ここでは、論理的語彙「ない」「ので」を使用しています。私たちが暗黙的に行っている推論を明示化するには、このような論理的語彙が必要です。ブランダムは、論理的語彙のこの働きを「論理的語彙の表現的役割」(MIE110,231,AR57,68)とよびます。(これらの語彙は、歴史的に当初は論理的語彙ではなかっただろうとおもいますが、しだいに論理関係を明示化するという役割が明確になってきたのだろうと思います。)

この「論理的語彙の表現的役割」(暗黙的推論が論理的語彙によって明示的推論になること)を認めることは、「論理的語彙の保存拡大性」とどう関係するでしょうか。それを次に考えます。

54 論理的関係の明示化と明示化以前の関係 (20230516)

[カテゴリー:問答推論主義へ向けて]

前回、「両立不可能性」や「帰結」の関係は、同一の問いに対する二つの答えの関係として成立することを説明し、それに対して次のような批判が予測できることを述べました。

<二つの命題の「両立不可能性」や「帰結」の関係が明示化されるためには、同一の問いに対する答えであることが必要であるけれども、それらが異なる問いの答えになっているときにも、「両立不可能性」や「帰結」の関係は暗黙的に成立しているのではないか。> 

今回はこの批判に答えたいと思います。同一の問いをもつ二つの問答によって、二つの命題の両立不可能性が明示化されますが、この批判がいうように、その両立不可能性は問答の前にも暗黙的に成立しているのでしょうか。

もし<命題の概念関係が、問答とは独立に成立しており、問答が命題の概念関係を変えない>とすると、この批判が言うように問答の前にも両立不可能性が成立していることになるでしょう。

しかし、<命題の意味は相関質問との関係において成立する>とすると、命題の概念関係もまた相関質問との関係において成立し、それゆえに命題の概念関係は問答とは独立に成立していないことになります。私は、この立場を取りたいと思います。

しかし、この場合、<上記の問答の前には両立不可能性は成立していない>ということではありません。現実に問答が行われていないときも、もし問答③の問いが問われたならば、その答えが答えられるだろう、という反事実的条件法は成立しているだろうと考えます。この意味で、問答関係が暗黙的には成立していると考えます。このように考えるならば、両立不可能性も暗黙的に成立していることになります。だだし、それは問答とは独立に成立しているのではありません。両立不可能性を明示化する問答が暗黙的に成立しているのです。

 上記の批判は、「疑問表現の保存拡大性」とも関係していますので、次回に、疑問表現と論理的語彙の保存拡大性について考察して、その後この批判について別の角度から考察したいと思います。

53 推論法則を問答論的矛盾から証明する(20230510)

[カテゴリー:問答推論主義へ向けて]

(焦点位置を最初は、下線で表示していたのですが、それが反映されないので、[ ]Fで表示しなおしました。)

(更新が遅れてすみません。拙著の執筆のために、他の論点をいろいろ考えているうちに、ここでの話になかなか戻ってくれなくなってしまいました。科研の実績報告書の締め切りとか、GPT4のことを考えたりとか、もありました。)

 前回は、4種類の矛盾を、通常は、論理的矛盾を基礎に据えて、それをもとに意味論的矛盾を説明し、さらにそれらをもとに語用論的矛盾を説明し、さらにそれらをもとに問答論的矛盾刷ることが想定されるが、逆に、問答論的矛盾を基礎にして、そこから語用論的矛盾、意味論的矛盾、論理的矛盾を説明することもできると述べました。

この後者の説明順序を採用するとき、問答論的矛盾や問答規則によって、語用論的規則や意味論的規則や論理的規則を説明することになるだろうという予測を述べました。この予測を具体的に証明することがここでの課題です。

この課題には、『問答の言語哲学』第四章ですでに少し取り組みはじめていました。基本的な論理法則である同一律や矛盾律の正しさは、その正しさを問う問いに、否定的に答えることが問答論矛盾になる、ということから背理法によって説明できます。ただしこの論法は古典論理を前提するので、限界があります。(これについて『問答の言語哲学』第四章で論じました)。

そこで少し違ったアプローチで、この課題に取り組んでみたいと思います。(ブランダムが推論関係の基礎と考えていた)「両立不可能性」と「帰結」について、問答関係の観点から、説明を試みたいと思います。

 まず両立不可能性について。コリングウッドは、二つの主張が矛盾することは、それらが同一の問いに対する答えである場合に成り立つと考えました。その根拠は、<命題の意味は、問いに対する答として成立する>ということと、<同一の文でも相関質問が異なれば意味が異なる>ということにあります。二つの主張が同一の問いに対する答である場合に、両立不可能性が成立するのです。

 これをもう少し具体的に説明します。命題は、問いに対する答えとしてのみ意味をもつ、とすると、問答のセットが意味を持つことになります。それは、焦点付き命題です。もし二つの主張が同一の問いに対する答としてのみ矛盾するとすれば、次の二つの答えは矛盾しません。

①「[どれ]Fがリンゴですか?」「[これ]Fがリンゴである。」

②「これは[何]Fですか?」「これは[リンゴでない]F

この二つの答えが矛盾すると考えるとき、私たちは次のように考えています。

①「[どれ]Fがリンゴですか?」「[これ]Fがリンゴである。」

という問答の答えから改めて次の問いを立て、次の答えを得ます。

  ③「これは[何]Fですか?」「これは[リンゴ]Fです」

こうすると、③は、上の問答セット②の問いと同じであり、③の答えと②の答えは矛盾します。文の発話の焦点は、このように別の問いを立てその答えとして同じ文の発話をおこなうとき、焦点位置を変更できます。

 (「矛盾」と「両立不可能性」は厳密には異なります。pとrが矛盾するとは、pとrの真理値は常に逆になる、ということです。それに対してpとrが両立不可能であるとは、pとrが共に真となることはあり得なませんが、pとrが共に偽であることはありえます。コリングウッドは「矛盾」についてこのことを語っているのですが、「両立不可能性」についても同じことが成り立つと思います。)

次に、「帰結」について。(コリンウッドは帰結についてはこのように述べていませんが)私たちは、<ある命題が別のある命題から帰結するということが成り立つのは、それらの命題が同一の問いに対する答である場合である>と言えると思います。それを具体的に説明しましょう。

例えば、「これは銅である」から「これは電導体である」が帰結します。今仮にこの二つの発話を次の問答によって得たとしましょう。

   ④「これは[何]Fですか」「これは[銅]Fである。」

⑤「[どれ]Fが電導体ですか」「[これ]Fが電導体である」

この場合には、④の答えから⑤の答えが帰結するようには見えません。そこで、⑤の問答に続いて次の問答をしするとしましょう。

   ⑥「これは[何]Fですか」「これは[電導体]Fである」

このとき、この⑥の答えは、④の答えから帰結するといえます。上記の場合と同様に、文の発話の焦点位置については、このように別の問いを立てその答えとして同じ文の発話をおこなうことによって、焦点位置を変更できます。このようにして焦点位置を揃えるとき、二つの命題は「帰結」関係になりえます。

(ここでの「帰結」関係は、論理的帰結関係ないし意味論的帰結関係であり、因果的帰結関係ではありません。)

ここで或いは次のような批判があるかもしれません。<二つの命題の「両立不可能性」や「帰結」の関係が明示化されるためには、同一の問いに対する答えであることが必要であるけれども、それらが異なる問いの答えになっているときにも、「両立不可能性」や「帰結」の関係は暗黙的に成立しているのではないか。> 

この批判について、次に考えたいと思います。

52 4種類の矛盾の説明順序を逆転させる (20230501)

[カテゴリー:問答推論主義へ向けて]

#4種類の矛盾の説明の順序

①構文論的矛盾(論理的矛盾)

②意味論的矛盾

③語用論的矛盾

④問答論的矛盾

これらは、この順番で説明されることが多いでしょう(拙著『問答の言語哲学』第4章でも、この順序で説明しました)。しかし、この説明の順番を逆にするほうが適切であるかもしれない。

まず、<③語用論的矛盾は ④問答論的矛盾から説明できます。>

語用論的矛盾は、命題内容と発語内行為の矛盾から生じるが、命題内容は問いへの答えとして成立する。他方で、発語内行為も亦、質問への返答として成立する。(この二点については、『問答の言語哲学』で論じました。)したがって、語用論的矛盾は、<相関質問への答えの命題内容>と<相関質問への返答としての発語内行為>の矛盾である。語用論的矛盾は、相関質問への答えの命題内容と、相関質問への返答の発語内行為の矛盾です。返答の発語内行為は、質問において既に指定されているので、語用論的矛盾は、発話の命題内容が、相関質問の想定と矛盾するということです。このように理解するとき、<すべての語用論的矛盾は、問答論的矛盾の一種である>と言えます。

次に、<①論理的矛盾は、②意味論的矛盾の一種として説明できます。>

推論規則やそれに基づく論理的推論は、おそらくブランダムがMaking It Explicit、やArticulating Reason (『推論主義序説』)で主張するように、実質推論の一種として説明できるでしょう(これについても『問答の言語哲学』で論じました)。したがって、①論理的矛盾は、②意味論的矛盾の一種として説明できます。

さらに最後に、<②意味論的矛盾は、③語用論的矛盾の一種として説明できるのではないでしょうか>。

「わたしは存在しない」は語用論的矛盾の一例です。こでは、<話し手が主張する>という発語内行為と、<話し手が存在しない>という命題行為(命題内容を構成する)が矛盾します。他方、「この赤リンゴは青い」は、意味論的に矛盾しています。この命題から、「このリンゴは赤い。かつこのリンゴは青い。」を導出できますが、これが矛盾するのは、「赤い」と「青い」という二つの述語を一つの対象に述語づけることができないからです。より正確にいうならば、「このリンゴは赤い」と「このリンゴは青い」が同一の問いに対する答だからです。同一の問いに対するこの二つのコミットメントが両立不可能だからです。

「この赤いリンゴは青いですか」に「それは青いです」と答えることは、問いの前提に矛盾します。つまり、この問いは、「この赤いリンゴ」が指示する対象が存在することを前提していますが、答えはその前提を否定しているからです。これは、問答論的矛盾です。また他方で、意味論的矛盾は語用論的矛盾の一種だともいえます。答えが、問いに対する答えとなるためには、問いの前提を受容している必要がありますが、問いに答えるという発話行為は、問いの前提を受容することを含意しているのに、答えの命題内容はそれを否定しているからです。

もし、発話の意味や発語内行為が、問答関係において成立するのだとすると、これらの矛盾は、問答論的矛盾から説明する方が適切であるかもしれません。

もし問答論的矛盾から論理的矛盾が説明することが適切であるならば、論理法則もまた問答論的矛盾から説明することが適切であるかもしれません。次回は、それを試みたいと思います。

92 遅くなりました3/10の研究発表の質疑の部分です (20230423)

[カテゴリー:問答の観点からの認識]

87回で予告したのですが、20230310の私発表「概念実在論と問答推論」の後に行われた質問コメントに対する回答を作りましたのでupしました。

(https://irieyukio.net/ronbunlist/presentations/20230422%20%E7%A0%94%E7%A9%B6%E7%99%BA%E8%A1%A8%E3%80%8C%E6%A6%82%E5%BF%B5%E5%AE%9F%E5%9C%A8%E8%AB%96%E3%81%A8%E5%95%8F%E7%AD%94%E6%8E%A8%E8%AB%96%E3%80%8D%EF%BC%88Ver3%EF%BC%89.pdf)

最後の2ページに以下の質疑の部分があります。その他の部分は、Ver2とまったく同じです。

以下には、質疑の部分だけを掲載します。

質疑:

1、川瀬さんからの質問:「発表の中での次の引用文

「彼は、主観的なものの客観的なものへの非対称的な指示依存の背後には、<概念の使用の主観的なプロセスを分節化する概念>と<客観的な概念的な関係を分節化する概念>の対称的な意味依存があると考えています。これが私が「客観的観念論」と呼んだ教義です。」(ST 365)

この中の「主観的なものの客観的なものへの非対称的な指示依存」というのは、どういうことでしょうか。」

(多分このようなご質問だったと思いますが、記憶があいまいなのでちがっていたかもしれません。当日は、うまく答えられなかったので、ここで答えたいと思います。)

この「指示依存」は、たとえば語「机」が対象<机>を指示するというような表象関係のことではありません。発表の中で述べたように、指示依存は、概念間の依存関係であり、<概念Xが概念Yに指示依存する>とは、<概念Xの指示対象が、概念Yの指示対象が存在しなければ、存在しえない>ということです。たとえば、語「机」という主観的なものの概念は、対象<机>という客観的なものの概念に指示依存します。なぜなら、語「机」という主観的なものは、対象<机>という客観的なものが存在しなければ、存在しえないからです。

2,大河内さんからのコメント:問いは、発話の意味を考えるときの、一つの条件に過ぎないのではないか?

[

わたしは、問いは、初の輪意味を考えるときの<一つの条件に過ぎない>のではなく、<不可欠な条件>であると考えています。その論拠として当日は、次の二点を答えました。

1,発話の意味は推論関係によって示されるが、より正確には問答推論関係によって示される。

2,発話は焦点をもつが、発話の焦点の位置は相関質問との関係によって明示化される。

この答えに、次の点を加えたいとおもいます。

3,発話がどのような発語内行為を行うかは、その相関質問においてすでに指定されており、発語内行為は、発話が相関質問への返答であることによって成立する。

以上の3点は、『問答の言語哲学』で詳しく論じたことでです。次は、最近考えていることです。

4,発話の意味は推論関係によって示されるのですが、ブランダムによれば、なかでも重要なのは<両立不可能性>と<帰結>の関係です。ところで、複数の発話の<両立不可能性>は、(コリングウッドが指摘したように)それらが同一の問いに対する答えであることによって成立します。また、ある発話から他の発話が<帰結>する実質的推論関係は、問いから答えが帰結するという実質的問答推論関係に基づいていると考えています(<帰結>についてはBSDの議論を援用して詳しく論じたいと思っています)。

3、(その後の居酒屋での)井頭さんからの質問:「ブランダムは、分析哲学研究にとって、ヘーゲル研究はどういう意味があると考えているのか?」

発表後、ブランダムの論文‘Some Pragmatist Themes in Hegel’s Idealism: Negotiation and Administration in Hegel’s Account of the Structure and Content of Conceptual Norms’(1995)を読んでみました。彼は、その冒頭において、二つのテーゼ:「意味論的プラグマティズムのテーゼ」=「言葉の意味は使用である」と、「観念論のテーゼ」=「概念構造と自己の構造は同一である」を示し、この二つのテーゼについて「意味論的プラグマティズムのテーゼは、観念論のテーゼによって実行可能になる」と主張します。ブランダムは、意味論的プラグマティズムが完成するためには、ヘーゲル的な観念論によって補完される必要があると考えているのだとおもいます。

                                                                                                                                                                                                                                                                                        

4、(居酒屋での)朱さんからのコメント:「問いの答えのペアが単位として閉じてしまう印象がある。」

ブランダムは語ではなく命題を言語的な意味の単位であると考えます。その理由は、命題の発話によって言語行為が可能になるからです。そして、それを「命題主義」と呼びます(AR訳、19,47)。それに対して私は、言語行為は問答のペアによって可能になると考え、それを「問答主義」と呼びたいとおもいます。したがって、問答のペアを強調するのは、<命題主義をより広い文脈に開くための問答主義>であり、また<推論主義をより広い文脈に開くための問答推論主義>の説明のためなのです。しかし、確かに朱さんの言うように、問答のペアが単位として閉じてしまうという印象を与えただろうと思います。それを回避するために、二重入れ子型問答関係を強調したいと考えます。それは次のような関係です。

Q2→Q1→A1→A2

これは、<問いQ2を解くために、問いQ1を立てその答えA1をもとに、Q2の答えA2に辿り着く>という関係です。私たちが問いを立てるとき、多くの場合それはより上位の問いに答えるためであり、そのより上位の問いは、さらにより上位の問いを解くために建てられているだろうとおもいます。A1を中心にみるとき、Q1→A1の関係は、Q1から必要に応じて他の前提を加えてA1を推論する<A1の上流推論>になってます。またQ2→A1→A2は、Q2とA1から必要に応じて他の前提を加えてA2を推論する<A1の下流推論>になっています。

ここで重要なのは、問答のペアは、言語的な意味や言語行為の「単位」とはならないということです。問答関係は、他の問答関係と直列関係や並列関係になることもあるのですが、それと並行して、大抵は、内部に他の問答関係を含んでおり、また他方ではそれ自体がより大きな問答関係のなかに含まれています。問答関係は反復するパターンですが、意味や行為の単位ではありません。この説明によって、問答ペアが単位として閉じてしまうという印象を払拭したいと思います。

46 問答と推論の成立が、<言語>の成立に先立つ  (20230416)

[カテゴリー:日々是哲学]

(第43回から、規則遵守問題および私的言語批判の問題を論じていました。43回では、私的言語も公的言語もなく、個人言語だけがあると論じました。44回では、個人言語について、規則に従っているかどうかをチェックできることを説明しました。45回には、問答できる限り、規則に従っているということを説明しました。「私は、規則に従っていますか、それとも規則に従っていると思っているだけでしょうか」と問われた者は、「あなたは、規則に従っておらず、規則に従っていると思っているだけです」と答えることはあり得ません。また自問自答の場合にも、「私の発話は、規則に従っているだろう」と自問するとき、「いや、私の発話は従っていない」と答えることはあり得ないということを説明しました。)

その後、私の考えは少し変化しました。私たちは共有言語を持たず、各人が個人言語をもっているにすぎないと考えることはできるのですが、その場合には、相手の個人言語のモデルを仮定して、それをもとに相手の発話の意味理解を予測し、それが正しいかどうかをチェックし、誤差が最小になるように習性を繰り返すことになるでしょう。そして自分の個人言語についても、どうように自分の個人言語のモデルを仮定して、それから自分の発話の意味の理解を予測し、予測誤差最小化śプロセスにかけるということになるでしょう。しかし、二人の個人言語のモデルが非常に類似している可能性があるときに、それぞれの個人言語モデルを仮定するのは、煩瑣ではないでしょうか。むしろ二人がある言語を共有していることを仮定し、共有言語のモデルを仮定して、予測誤差最小化プロセスにかけることが、現実に行われていることではないかと思います。公共的な共有言語があることを検証することはできませんが、他者の個人言語や自分の個人言語についても、それが成立していることを検証することは、同様に不可能です。

相手の個人言語の理解のチェックは、問答推論的意味論では、つぎのように説明できるでしょう。相手の発話の上流問答推論と下流問答推論の両方について、正しいものとそうでないものを判別し、それが相手のその判別と一致するかどうかをチェックします。しかし、相手の個人言語と私の個人言語を区別するとき、相手の個人言語のある発話についての私の(例えば)ある上流問答推論は、推論になりうるのでしょうか。異なる言語の二つの文が推論関係、例えば両立不可能性の関係に立ちうるのでしょうか。そのためには、二つの文が、同一問いへの答えでなければなりません。では、相手の個人言語の文が、私の個人言語の疑問文に対する答えになりうるでしょうか。

例えば、相手の「これはリンゴである」という発話と、私の個人言語の「これは何ですか」や「これは赤い」は、問答推論関係をもちうるでしょうか。共通の言語を前提することによって推論や問答が可能になるのではなく、発話の間に推論や問答が可能になることによって、共通の言語の想定が可能になるように思われます。このように考えなければ、言語の発生を説明できないでしょう。異なる言語の二つの文が、問答関係になることは可能です。異なる言語の二つの文が問答関係になることによって、それらは融合し一つの言語になると思われます。

今回のタイトル「問答と推論の成立が、<言語>の成立に先立つ」を読んだ人は、問いや答え、推論を構成する文や発話が成立するためには、言語が成立しなければならないのだから、このタイトルは間違っている、と考えるかもしれません。しかし、発話の意味は、その問答推論関係であり、問答推論が成立することで、言語が成立するのだと考えます。

91 答えの両立不可能性と<問いの前提>の客観性  (20230410)

[カテゴリー:問答の観点からの認識]

「主張の両立不可能性が、問いの同一性から生じるのだとすると、そのことから、問いを構成している前提(事実の概念構造や概念関係)の客観性を主張できるでしょうか?」

この問いに答えたいと思います。

複数の主張が両立不可能であるのは、それらが同一の問いへの答えであることによります。もし主張が異なる問いに対する答えであれば、それらは両立可能です。したがって、主張の両立不可能性のあるところには、同一の問いがあります。

では、問いが同一であるとはどういうことでしょうか。前回述べたように、二つの問いが同一であるとは、二つの問いの<問われるもの>と<問い求められるもの>がそれぞれ同一であるということです。答えの違いは、多くの場合<問い合わされるもの>の違いに起因すると考えられます。例えば、

「そのリンゴは何色ですか?」「そのリンゴは赤色です」

という問答の問いに登場する「そのリンゴ」の指示対象が、<問われているもの>であり、「そのリンゴ」の指示対象の色の説明が<問い求められていること>です。<問われているもの>は答えの中の「そのリンゴ」の指示対象でもあります。そしてこの答えが<問いも求められていること>を提供するものです。この問答において、問いと答えの中の「そのリンゴ」は同一の対象を指示することに成功しています。もし成功していなければ、それは問いと答えの関係になりません。

もし別の二人が「あのリンゴは何色ですか?」「あのリンゴは青色です」という問答を行い、その問いの「あのリンゴ」の指示対象が、前の問いの「そのリンゴ」の指示対象と同じであるとき、この二つの問いは、<問われれるもの>と<問い求められること>が同一であり、この二つの答えは両立不可能となります。この二つの問い中の「そのリンゴ」と「あのリンゴ」は同一の対象を指示するとき、同一の対象の指示が、異なる仕方で行われています。それによって、対象の存在の客観性が暗黙的に示されています。

<問い求められていること>は、前の問いでは「その対象」の指示対象がどんな色を持つか、ということであり、後の問いでは「あの対象」の指示対象がどんな色をもつか、といことであり、「その対象」と「あの対象」の指示対象が同一であるならば、二つの問いの<問い求められていること>もまた同一です。

前の問いの前提は、<「その対象」の指示対象が何らかの色を持つ>ということであり、後の問いの前提は、<「あの対象」の指示対象が何らかの色を持つ>ということであり、二つの問いの<問いの前提>も同一です。この問いの前提は、同一の事実であり、これらの問いを受け入れる者は、同一の事実を受け入れていることになります。

ところで、主張の両立不可能性は、客観的なものではなく主観的なものです。なぜなら、両立不可能性は客観的事実の中にはないだろうからです。そして、客観的事実の中に両立不可能性がないにも関わらず、主張の両立不可能性があるから、その両立不可能性を解消する必要性があります。この必要性は、客観的なものとここでの主観的なものの両立不可能な関係から生じます。このことが、事実の客観性の論拠となるでしょうか。

私たちは、事実の記述を答えとする理論的な問いの答えの客観性は、問いの前提の客観性を前提としていますが、問いの前提の概念構造は主観的に構成されたものである可能性があります。しかし、私たちが主張の両立不可能性を修正しようとするとき、問いの前提は客観的なものであると考え、それに対する主観的な答えを修正しようとしています。私たちが変化を認識することは、変化しないものとの対比において可能になります。(今は、これ以上のことが言えません。)

90 両立不可能性は<問い合わされるもの>の違いから生じる  (20230403)

[カテゴリー:問答の観点からの認識]

 二つの記述が両立不可能になるのは、それらが一つの対象についての記述(descriptions of one object)だからであるというのがブランダムの指摘ですが、私はそれらが一つの問いについての答えであるからだ、というほうがより正確だと考えます。

では、同一の問いとはどういうことでしょうか。前回述べたように、問いが<問われるもの><問い求められるもの><問い合わされるもの>という3つの要素を持つとき、同一の問いであるというためには、この3つがすべて同一であることが必要でしょうか。<問われるもの>と<問い求められるもの>は同一である必要です。なぜなら、これらは疑問文の中で明示される必要があるからです。しかし<問い合わされるもの>は疑問文の中には明示されていません。「Xさんは何歳ですか」という問いの<問われるもの>はXさんであり、<問いも求められるもの>はXさんの歳ですが、<問い合わされるもの>は、この疑問文の中には明示されていません。それをネットで調べてもよいし、友人に訪ねてもよいし、本人に尋ねることもできるかもしれません。<問い合わされるもの>がことなるとき、答えが異なることがあるかもしれません。問いに答えるには、何かに問い合わせる必要があり、問いの答えが異なる場合、その差異は、問い合わされるものの違いから生じることも最も多いだろと思います(ただし、同じものに問い合わせても、何らかの勘違いで、異なる答えを引き出すことはあり得ます)。

問いに答えることは、推論によって答える場合と推論によらないで答える場合があります。推論によって答える場合、<問い合わされるもの>から得られる平叙文が、その推論の前提の一部になります。問い合わされるものが異なれば、その異なる平叙文が前提として利用されます。場合によっては、<問い合わされるもの>が同一であっても、そこから異なる平叙文を得て、それを前提とする推論で答えに至るとき、答えは両立不可能なの者になるかもしれません。

では、問いに対する答えが知覚報告として、推論によらずに得られる場合には、<私たちが問い合わすもの>は何でしょうか。

「これは何色か」という問いに答えるために、対象の性質(色)そのものに問い合わせるのだとすると、その答えは、対象の知覚についての報告というよりも、対象の色についての報告というのがよいでしょう。(もし、「これは何色か」という問いに答えるために、対象の性質(色)の知覚に問い合わせるのだとすると、その答えは、知覚についての報告だというのがよいでしょう。しかし、大抵は、対象の色の知覚に問い合わせるとは思っていなくて、対象の色そのものに問い合わせていると思っているのではないでしょうか。)

 ある物体を指さして「これは何色ですか」と問われたとき、それに答えるためには、問われるまではぼんやり見ていた対象の色に注意します。そのとき注意するのは、その物体の色ですが、私たちはその物体の色を指示できるでしょうか。物体の色を指示できるとすれば、それは色のトロープ(個別的属性、<この赤さ>など)です。しかし、逆転スペクトルの思考実験を考えるとき、もし物体の色があるとしても、それがどのようなものであるかは、知りえないことになります。私が知覚している色を、他者も知覚しているという保証がないからです。

 「これは何色か」に答えようとするとき、私たちは対象の色そのものに問い合わせることはできないとすれば、(たとえ、対象の色そのものに問い合わせていると思っているとしても)私たち実際に問い合わしているのは、対象の色の知覚です。そして、ノエの「知覚のエナクティヴィズム」が主張するように、その知覚は静止画のような像ではない、知覚は注意におうじて常に変化しているものです。 対象の色の知覚は、(非言語的)探索の(非言語的)答えとして成立している知覚変化だと思われます。この知覚変化は、客観的なものではなく、主体に依存した主観的なものです。

この(非言語的)探索が問い合わせているものは、対象についての事実そのもの、脳の外部に成立している事実だといえるかもしれません。この場合、対象についての事実そのものは、知覚にも知覚報告とも異なり、それ自体を捉えることのできないものです。

事実の概念構造や概念関係の客観性というものは、知覚報告とは別のところに求める必要がありそうです。主張の両立不可能性が、問いの同一性から生じるのだとすると、そのことから、問いを構成している前提(事実の概念構造や概念関係)の客観性を主張できるかもしれません。

これを次に考えてみます。

89 主張の両立不可能性と問答  (20230328)

[カテゴリー:問答の観点からの認識]

前回述べたように、ブランダムは、主張やコミットメントの両立不可能性は、対象や主体が一つであることを前提して生じていること、また、それらの両立不可能性を修復するプロセスは、対象や主体の統一性を確立するプロセスでもあることを、主張します。

(これによって、対象に関する事実の客観性を証明できているとは言えないと思いますが、ブランダムならば、対象は客観的に然々である、と語ることは、of志向性で語るしかなく、これ以外の仕方で対象の客観性について語ることはできないと言うでしょう。だからこそ、ブランダムは「概念的観念論を最終的に主張するのです。」

主張やコミットメントの両立不可能性が成立するのは、対象や主体が一つであるためである>というブランダムの指摘に対しては、問答の観点から次の批判が可能です。

#コリングウッドの指摘からの展開(2023年3月10日の研究会での発表原稿の一部です)

コリングウッドの指摘によれば、二つの命題が矛盾するのは、それらが同じ問いに対する答えであることによる。これに従うならば、二つの概念関係が両立不可能であるのは、二つの概念関係が同じ対象についてのものであるからではなく、同じ問いに対する答えであるからである。なぜなら、同じ対象であっても、問いが異なれば、答えが異なっていても、両立不可能ではないからである。たとえば、「リコリスはおいしい」と「リコリスはまずい」はそれぞれの相関質問が「チョコレートを食べたあとリコリスを食べると、リコリスはおいしいですか」と、「リンゴを食べた後リコリスを食べると、リコリスはおいしいですか」とであるとき、この二つの答えは両立可能であるかもしれない。

ここで次の反論があるかもしれない。この場合、<「チョコレートを食べた後のリコリス」と「リンゴを食べた後のリコリス」は同一の対象ではないので、二つの答えが両立可能になるのだ>という反論があるかもしれない。この反論をみとめてもよいのだが、しかしこのように考えるときには、対象が同一であるかどうかは、問いが同一であるかどうかに依存することになる。

したがって、主張が両立不可能であることは、問いの同一性を前提としていることになり、問いの同一性を構成することになる。コリングウッドがいうように、二つの命題が両立不可能であるのは、それらの相関質問が同じであることによる。

同様のことは、コミットメント両立不可能性についても言えるだろう。二つのコミットメントが両立不可能であるのは、それが同一の問いに対する答えであることによるのであり、同一の主体のコミットメントであることによるのではない。「コーヒーが欲しいですか」という問いに、「欲しいです」と答えることと「欲しくありません」と答えることが両立しないのは、主体が同一だからではなく、問いが同一だからである。同じ主体であっても、異なる状況で発せられたのであれば、同じ疑問文でも異なる意味をもつ問いとなる。

複数の主張やコミットメントが両立不可能になるのは、たしかにそれらが一つの対象、一つの主体についてのものであることが必要だが、しかしそれではまだ十分ではない。それらが同一の問いに対する答えであることが必要である。(つまり、問いの同一性が、対象や主体の同一性を構成するのである。)

―――――――ここまで

ハイデガーは、『存在と時間』の第二節で、問いが次のような3つの要素からなると考えました。

・問われるもの(Gefragtes)

・問い合わされるもの(Befragtes)

・問い求められること(Erfragtes)

ある対象についての問いに答えるには、何かに何かに問い合わせることが必要です。推論で問いの答えを得るときには、他の知識に問い合わせて、それを推論の前提として使用します。推論によらずに直接に答えをえるときには、例えば、知覚報告で答えると時には、知覚に問い合わせて、知覚報告を得ることになります。推論の前提となる知識は、別の問いの答えとして得られると思われます。では、知覚に問い合わせて、知覚報告を得ることは、どのようにして可能なのでしょうか。

 これについて、次に考えたいと思います。