14 指示と自由 (reference and freedom) (20230904)

[カテゴリー:自由意志と問答]

前の個所(11回から13回まで)では、<選択の不可避性が選択を可能にするということ>(ある種の制限が自由を可能にするということ)を説明してきました。

これと同様のメカニズムで、<指示の不可避性が、指示を可能にすること>が言えると思います。まずこれを説明します。「Xさんの車はどれですか」という問いに対して、指差し行為をともなって「あれです」という発話が行われたとしましょう。これは、典型的な指示行為です。

「あれです」がこの状況で語られたら、それは「Xさんの車はどれですか」という問いの答えであると、そこにいる人々(話し手、聞き手、観客)に予想するでしょう。そこにいる人々は、「あれです」は「Xさんの車」の指示対象を指示していると予想するでしょう。そのような状況で、「あれです」と発話することは、何らかの対象を指示することになります。そして、聞き手は、その状況で、「指差しの方向に存在して、<Xさんの車>と見なすのにもっとも適切な対象は何か」と自問して、「あれを、指示しているのだ」と自答することでしょう(もしそれができなければ、「どれですか?」と問い返すことでしょう。)

このような状況において「あれです」で、対象を指示することは不可避ですが、しかし同時に、指示が不可避な状況において、初めて指示が可能になるのです。ある発話で対象を指示していることが、可能になるのです。

これを一般化するとつぎのような定式になります。

「○○が不可避な状況において、初めて○○が可能になる」

この○○には、選択、自由な行為、指示、主張、コミットメント、約束、命令、宣言、などが入ります。これらは、すべて自由な行為です。

13 選択の問答論的必然性と自由のデフレ主義の関係は?(What is the relation between the necessity in question and answer and the deflationary liberty?) (20230820)

[カテゴリー:自由意志と問答]

これまで(08回から12回まで)論じてきたように、<選択は常に自由な選択であり、この自由な選択は、問答論的必然性によって生じる>としましょう。このような自由理解から、(07回に説明した)自由のデフレ主義が帰結するのでしょうか。

前々回と前回に述べたように、「Aを行うか、行わないか」という選択を意識したときには、どちらかを選択せざるを得ません。この選択が、自然な欲求や無意識の欲望によって決定しているとしても、そのことは、この選択に対する責任を免除しません。この選択は自由に行われたのです。選択せざるを得ないことを意識していて、またどちらを選択するもことも可能であることを意識していたことが、この選択を自由な選択、選択の結果に責任を負うべき選択にします。

意識している選択や行為は、すべて自由な選択や自由な行為です。行為者因果を引き起こすような不思議な力が働いて、自由な選択や自由な行為が可能になるのではありません。自由な選択は選択可能性を意識したときに、不可避に成立するのです。このような自由は、デフレ的です。

前回最後の問い「私たちが問答する限り、選択する限り、自由であるとすれば、自由は偏在するのであり、自由のデフレ主義というよりも、自由のスーパーインフレ主義と呼ぶ方がよいのでしょうか」について。

自由のインフレ主義は、選択や行為を、自由な選択や自由な行為にするものを、特別な能力や作用として理解します。たとえ自由が偏在するとしても、その場合には、その特別な能力や作用が偏在することを主張することになります。しかし、上記の自由理解では、選択や行為を自由な選択や行為にするものは、特別な能力や作用ではありません。あえて言えば、問答論的必然性ですが、これが問答が成立するための超越論的条件であり、何が特別な能力や作用ではありません。すべての問答が成立するための条件です。たしかに、問答は常に自由な問答であるので、問答の能力自体が特別な能力であると言えるかもしれません。例えば、もし<人間の探索や行為は自由であるが、人間以外の動物の探索や行為は自由ではない>と考えるならば、探索や行為を自由にするものは、特殊な能力や作用であることになります。しかし人間以外の動物の探索や行為は、見かけ上の探索や行為であって、探索や行為とは言えない物であると考えるならば、探索や行為自体が自由であり、不自由な探索や不自由な行為は存在しないことになります。次に「選択の不可避性」「問いの不可避性」とよく似たメカニズムである「指示の不可避性」や「伝達の不可避性」について見ておきたいと思います。

12 選択は常に自由に行われる (20230814)

[カテゴリー:自由意志と問答]

問答論的必然性とは、<問いQに対する答えAが問答論的矛盾になるとき、Qを問われたときには、「¬A」と答えることが必然的になる>ということです。これを選択問題に応用すると、次のようになります。

「今Aを行うか、行わないか、という選択が可能であるが、私はどちらかを選択するのだろうか」という問いに、「いいえ、わたしはどちらも選択しません」と答えるとき、私はAを行っていません。したがって、Aを行わないことを選択したことになり、矛盾します。これに対して、「はい、私はどちらかを選択します」と答えるとき、私はAを行っていません。したがって、Aを行わないことを選択したことになります。この場合には、矛盾は生じません。つまり「はい、わたしはどちらかを選択します」と自答することが、問答論的に必然的です。

このように、「Aを行うか、行わないか」という選択を意識したときには、どちらかを選択せざるを得ません。このとき、その選択は自由に行われたのでしょうか。何らかの選択をすることは、問答論的に必然的です。しかし、どちらを選択するかは、問答論的に決定していません。この選択の結果に責任を負うことになるでしょう。つまり、その選択は自由に行われたのです。

ところで、何かを問うことは、常に何らかの選択を求めることだとすると、問いに答えることは、常に選択することであり、問いに答えるのは、常に自由に答えることです。さらに、問うこと自体も、ある問いを問うかどうかの選択の結果だとすると、あるいは、その問いを問うことを選択することだとすると、問うことは常に自由に問うことです。

ところで、私たちが問答する限り、選択する限り、自由であるとすれば、自由は偏在するのであり、自由のデフレ主義というよりも、自由のスーパーインフレ主義と呼ぶ方がよいのでしょうか。

10 自由と制限 (20230804)

[カテゴリー:自由意志と問答]

(upしたつもりだったのですが、できていなかったので、8月9日に11回目とあわせてupします。順番が逆になってしまいました。)

(更新が遅れてすみません。ようやく『フィヒテ研究』31号の原稿が仕上がり、送ることができました。この号からはネット掲載になる予定ですので、掲載されたら案内します。)

今回のフィヒテ研究の論文執筆に合わせて、08回から自由意志について、改めて考察しようとしました。

まず論じようとしたのは、<規則性、規範性、自由>という3つの概念の関係です。

まず規則性を、次の二種類に分けました。

事実としての規則性

規範としての規則性

規範は常に、規則性を持ち、規範性は規則性の一種だと考えます。

 次に規範性と自由の関係ですが、「…すべきである」という規範は、「…することができるし、…しないこともできる」ということを前提するので、規範は、自由を前提すると考えます。

 

 前回の最後の方で述べた問いは、「規範性は自由を前提するが、自由もまたある制限を前提するのではないか」ということでした。

規範概念は確かに自由を前提します。しかし、<Aすべきである>という規範性は、<Aすることもしないこともできる>という自由を前提します。ところが、<AすることもAしないこともできる>ということを意識するとき、私たちは、<Aするかしないか>を選択しなければならなくなります。他行為可能性を意識するとき、選択は不可避になります。もし自由の意識が他行為可能性の意識であるとすると、<Aをするかしないか>が自由であるとき、その選択は不可避です。

                       

(補足注:これに対しては、そのような状況では<Aするかしかないか>という選択があるのではなく、<Aするか、Bするか、どちらもしないか>という選択を設定することもできる、という反論があるということもできます。確かに、この状況で選択肢の設定の仕方が複数あることは事実です。しかし、自由であるためには、自由の意識が必要であり、自由を意識するためには、具体的選択肢を意識することが必要です。そして具体的選択肢を意識するとき、選択は不可避になります。)

以上の説明を、意識哲学的な語彙でなく、できるだけ意味論的語彙で表現すると次のようになります。「わたしは、いまここで、自由である」という判断は、「私は今ここで、Aしよう」というような具体的な事前意図において成立します。なぜなら、「私は今ここで、Aしよう」という事前意図は、「私は今ここで、Aすることができる」という可能性の判断を伴立するからです。そして、「私は今ここで、Aすることができる」という判断には、「私は今ここで、Aするかしないかを選択できる」という判断が伴立します。そしてこの判断からは、「私は今ここで、Aするかしないかを選択しなければならない」という判断が帰結します。

ところで、「私は今ここで、Aするかしないかを選択しなければならない」の「しなければならない」は英語でいえば、mustであり、ought to ではないでしょう。mustは、自然法則に基づく自然的な必然性を表すことがありますが、ここでは、自然的な必然性ではありません。この必然性は、論理的な必然性でしょうか、形而上学的な必然性でしょうか、語用論的必然性でしょうか、問答論的必然性でしょうか。

 これは論理的な語彙の使用法に基づく必然性ではないので、論理的な必然性ではありません。これは何らかの存在に訴える必然でもないので、形而上学的必然性ではありません。これは発話の命題内容と発語内行為の関係に基づく語用論的必然性でしょうか。ただし私は、語用論的必然性は、問答論的必然性によって説明できるだろうと予測しているので(これについては、別途論証が必要です)、おそらくは問答論的必然性であるだろうと予測します。

 次回、これを説明します。

 ただし、ここで次のことを付け加えておきたいと思います。

 ここので<選択の不可避性が選択を可能にするということ>(ある種の制限が自由を可能にするということ)は、<指示の不可避性が、指示を可能にすること>、<伝達の不可避性が、伝達を可能にすること>、<問うことの不可避性が、問うことを可能にすること>、という私が論文「発話伝達の不可避性と問答」(『大阪大学文学部紀要』第43号, p.207-215, 2003年3月所収)、『問答の言語哲学』、その他で論じてきたことと同じメカニズムで成立していると予測します。

11 選択の問答論的必然性 (20230809)

[カテゴリー:自由意志と問答]

動物が行動するとき、選択していると言えます。しかし、それは意識的な選択ではありません。それはいわば見掛け上の選択です。木からリンゴが落ちるのは、見かけ上の落下ではなく、本当の落下です。落下は、リンゴの行動ではありません。では、リンゴの落下と、動物の行動の違いは何でしょうか。走性や反射による行動は、感覚刺激、知覚刺激に対する自動的反応です。リンゴの落下は、外的刺激に対する反応ではありません(ただし、リンゴと木が結合している個所の現象を細かくみれば、ある種の反応だと言えるかもしれません)。

動物がおこなう見かけ上の選択は、外的刺激に対する反応です。選択肢を意識したうえで、その一つを選択するという選択ではありません。その選択が、オペラント反応として生じるときにも、われわれ観察者には、他の選択肢が考えられるとしても、当の動物には、他の選択肢は意識されていません。それゆえに、それは反射の一種です。

これに対して、人間の行う選択は、外的刺激に対する単なる反応ではありません。人間の行う選択は、複数の反応の可能性を意識したうえで、一つの反応を選択することです。私たちにとってのここでのとりあえずの問題は、<複数の選択肢を意識したとき、どれかを選択することが不可避になるが、この不可避性(ないし必然性)は、問答論的必然性なのか>です。

問答論的必然性とは、<問いQに対する答えAが問答論的矛盾になるとき、Qを問われたときには、「¬A」と答えることが必然的になる>ということです。これを選択問題に応用すると、次のようになります。

「今Aを行うか、行わないか、という選択が可能であるが、私はどちらかを選択するのだろうか」という問いに、「いいえ、わたしはどちらも選択しません」と答えるとき、私はAを行っていない。したがって、Aを行わないことを選択したことになり、矛盾する。

「はい、私はどちらかを選択します」と答えるとき、私はAを行っていない。したがって、Aを行わないことを選択したことになる。この場合には、矛盾は生じない。

以上の説明でよいのかどうか、もう少し検討したいと思います。

48 ニーチェの「強者」の道徳と規則遵守問題 (20230715)

[カテゴリー:日々是哲学]

少し唐突ですが、自由について考えていて、ニーチェ風の「強者」の道徳を、規則遵守問題をもちいて批判できることに気づいたので、ここに記しておきます。

「自由であるとは、その帰結の責任を負うことである」というのは、小市民的な臆病な自由概念であるように見えます。ニーチェ的な「強者」ならば、自由な行為の帰結に対して責任を持たない自由を持つというでしょう。そのような強者またも、「Aを行うことから帰結する状態や出来事」を予測できるでしょうが。しかし強者はその責任を認めません。強者は、弱者からの訴えを無視できると思っているからです。強者は、弱者の道徳とは異なる自分が立てた規範に従うことができると思っているからです。

しかし、強者にとってもまた、「Aしよう」とする意志や行為が成立するためには、Aを理解可能にする、Aと他のものとの概念関係を認める必要があります。そのとき、概念的規則に従うことができるためには、社会的なサンクション、他者との相互承認が必要です。強者もまた、ある一定の内容の意志を持つためには、その意志の内容の理解についての相互承認が必要です。

09 <規則性、規範性、自由>の関係:再説 (20230711)

[カテゴリー:自由意志と問答]

今回は、規則の規範性の起源の解明のために、前回述べた<規則性、規範性、自由>の関係を再説します。

#規則性について

何かが規則的であるとは、何かが反復するということです。規則性は、(自然法則のような)事実としての規則性と、(法律のような)規範としての規則性に区別できます。事実としての規則性とは、ある事実(状態や出来事)が反復しているという事実です。規範としての規則性とは、行為が反復すべきであるということです。言い換えると、ある行為の規則性を実現すべきであるということです。したがって、規範性があるところには必ず規則性があり、規範性とは、ある規則に従うべきであるという規範性のことです。しかし逆は成り立たないように見えます。つまりすべての規則性が規範性をもつとは限らないように見えます。なぜなら、自然現象には規則性があるが、規範性はない、と思われるからです。

規範Rに従うとは、Rから帰結する行為Aをすることですが、単にある行為Aをすることでではなく、Aを、Rから帰結する行為として、言い換えるとRに従うこととして、行うことです。

ちなみに、「ある状況である行為をすべきである」とは、「それとよく似た状況では、それとよく似た行為をすべきである」というということを含意する、つまり、ある行為をすべきであるとは、ある行為を反復すべきであるとか、ある規則に従うべきである、ということをつねに含意します。つまり、<ある行為をすべきである>とか<ある行為を反復すべきである>とか<ある規則に従うべきである>ということは、同義なのです。

ある行為Aは、単なる身体運動ではありません。行為は、ある条件下でのある身体運動です。行為は、意図的な身体運動です。行為とは、ある目的を実現するための身体運動です。

「その目的を実現するには、どうしたらよいのか」という問いに、「Aすればよい」という答えを得たなら、「その目的を実現するために、Aしよう」と意図し、その目的を実現するために>、Aすることになります。そのとき「何をしているのか」と問われたら、「Aをしている」と答え、「何のためにAしているのか」と問われたら、「その目的を実現するために、Aしている」と答えることになるでしょう。「なぜその目的を実現するために、Aするのか」と問われたら、先の実践的推論、精確に書けば次の実践的推論で答えることになるでしょう。

その目的を実現しよう。

その目的を実現するためにはどうすればよいのか。

Aすれば、その目的を実現することができる。

ゆえに、Aしよう。

ここでは、「Aすれば、その目的を実現することができる」という事実の規則性があって、それに基づいて、その目的を実現するためには、「Aすべきである」という規範性が成立します。

「Aすべきである」と考えることは、「Aできる」と考えることと「Aしないこともできる」と考えることを伴立します。さらに、「Aするか、Aしないか、を選択できる」と考えることを伴立します。行為の自由は、行為の選択可能性に他ならないでしょう。また、行為の規範性の意識は、常に行為の自由の意識をともないます。

他方で、行為の自由や、行為の選択可能性だけから、行為の規範性が生じることはないように見えます。行為の規範性は、行為の自由を制限することであり、行為の自由を前提する。この行為の自由の制限によって生じるのが、行為の規範性です。行為の規範性<Aすべし>とは、<Aすることも、Aしないこともできるが、Aすべし>ということであり、<Aしないこともできるが、Aしない可能性(自由)を制限して、Aすべし>ということです。

しかし、果たしてそうでしょうか。規範性は自由を前提するが、自由もまたある制限を前提するのではないでしょうか。

<Aすることができる>ということは、<Aしないこともできる>ということを伴立しています。さらに明示的に言えば<Aすることができるし、Aしないこともでもできる、つまりAするかしないかを自由に選択できる>ということを意味しています。ところが、この自由は、実はある制限によって可能になっています。その状況において一旦<Aすることができる>と意識したならば、<Aするかしないかを選択しなければならない>ことになるのです。つまり、<Aする自由を意識するときには、Aするかしないかの選択をせざるを得ない>という制限を伴うことになるのです。ある情況で、<Aする自由がある>ということは、その状況で<Aするかしないかのどちらかを選択しなければならない、という制限を引き受けることです>。

これに対しては、そのような状況では<Aするかしかないかという選択ではなく、Bするかしないかという選択をすることも可能である>という反論があるかもしれません。しかし、たとえそのように反論するとしても、その場合でも、自由であると意識するためには、(Aでも、Bでも、その他でもよいのですが)何らかのある行為をすることができると意識することが必要です。そして、そのような意識には、その行為をするかしないかを選択しなければならないという制限が伴うのです。したがって、自由は制限によって可能になるのです。

では、自由を可能にするこの制限は、規範性とどう関係するのでしょうか。

08 <規則性、規範性、自由>とデフレ的自由概念 (20230706)

[カテゴリー:自由意志と問答]

7か月ぶりにこのカテゴリーに戻ってきました。

このカテゴリーでは、 まず「自由意志はあるのか、ないのか」を考え、次に、もしその答えが「自由意志は存在しない」ならば、そのときには「道徳や法をどう考えたらよいのか」、またもしその答えが「自由意志は存在する」であるとき、その場合の自由意志がどのようなものであるか、を検討する予定でした。

 これまでの01~07では、「自由意志はあるのか、ないのか」を考えるために、スピノザによる自由意志の批判とフィヒテによる自由意志の擁護を、考察しました。その最後07回では、スピノザの自由論とフィヒテの自由論を、インフレ的自由論とデフレ的自由論として捉え、前者の批判と後者の擁護を試みました。(01~07の考察は、フィヒテ協会シンポジウムでの発表の準備を兼ねていました。現在、その発表をもとに論文を仕上げる必要があり、それが7月末締め切りなので、その仕事に合わせて、しばらく、デフレ的自由概念について考えたいと思います。)

#<規則性、規範性、自由>の関係

 まず規則性と規範性の関係について説明します。規則性は、(自然法則のような)事実としての規則性と、(法律のような)規範としての規則性に区別できます。規範性があるところには必ず規則性があり、規範性とは常に、ある規則に従うべきであるという規範性のことです。しかし逆は成り立ちません。つまりすべての規則性が規範性をもつとはぎりません。なぜなら、自然現象には規則性がありますが、規範性はないからです。

 つぎに、規範性と自由の関係について説明します。規範としての規則性は、従うべき規則であり、それは、従うことが可能であること、従わないことが可能であることの二つを伴っています、あるいは前提しています。言い換えると、規範性は、意志決定や行為の自由を伴っています。

 もし<知は、問いに対する正しい答えとして成立する>と言えるならば、問いとそれに対する正しい答えの関係は、規則性をもち、また規範性を持つの、問いに答えること、知ることは、自由を伴うことになります。知は規範性を伴うので、自由を伴ういえるのではないでしょうか。

 このような知と自由の理解は、フィヒテが「意識の事実」(1810)で述べている次のことと、ほぼ同じことだと考えます。

「知そのものは、その内的形式と本質からすると、自由の存在である。[…]人は一見して、自由というのはそれだけで存立する別のなにものかがもつ特性であって、そのものに内属するのだ、と考えたくなるかもしれないが、そうではなくて、自由は独自の自立的存在にほかならないのである。そして、自由のこの自立的で別個の存在こそが知なのである、と言いたい」(SW II, 550, 全集19巻43)

知と自由についてこのように考えるとき、重要になるのは、規則の規範性をどうのように証明するかということになりそうです。

61 実質的暗黙的問答か形式的暗黙的問答か (20230626)

[カテゴリー:問答推論主義へ向けて]

前回推論の成立順序についてつぎのように述べました。

<実質的暗黙的推論→実質的明示的推論→形式的明示的推論→形式的暗黙的推論

この最後の形式的暗黙的推論とは、形式的推論であるけれども、論理的語彙をもちいて完全に推論関係を明示化できていないという推論です。例えば、次のような省略三段論法がそれになります。

   「雨が降るならば、道路が濡れる。」

これを省略三段論法として理解するときには、次の()の中の前提が省略されていると考えます。

   「雨が降る。(雨が降れば、雨が当たるところは濡れる。道路には雨が当たる。)ゆえに

道路が濡れる」

ブランダムは、「雨が降るならば、道路が濡れる」を省略三段論法ではなく、実質的推論(私の分類では、実質的明示的推論)だと考えます。この違いについて、次のように言います。両略三段論法は、形式的明示的推論の前提のいくつかが省略されているものですが、実質的推論には、そのような省略はありません。

 では、ブランダムはなぜ実質的推論の存在を主張するのでしょうか。もし論理的語彙の意味が、その使用法であり、論理的語彙の意味から使用が決定するのではなく、論理的語彙の使用法から、その意味が決定されるのだとすると、論理的語彙の最初の使用は、論理的語彙の意味によって正当化されるのではないことになります。つまり論理的語彙の使用は、少なくとも当初は、形式的な使用ではありません。その使用は、実質的推論となります。

 同じことが、疑問表現にも言えるはずです。そこで、問答は少なくとも当初は、実質的問答であるはずです。明示的問答は少なくとも当初は、明示的実質的問答であるはずです。

第52回から論じてきたことは、<論理や意味や発話行為が問答に基づくだろう>また<論理的矛盾、意味論的矛盾、語用論的矛盾を問答論的矛盾から説明できるだろう>という予測です。

これらは、実質的問答(つまり、「問答関係の正しさが、その問と答えの概念内容を決定するような種類の問答」)のアイデアに基づいていると言えそうです。

 では、「私たちは、どうして問答関係の正しさを理解できるのでしょうか」あるいは「わたしたちは、どうして問答ができるのでしょうか」

60 問答の、暗黙的/明示的、実質的/形式的、の区別 (20230618)

[カテゴリー:問答推論主義へ向けて]

前々回(58回)に、疑問表現を使用しない問答を「暗黙的問答」、疑問表現を使用した問答を「明示的問答」と呼ぶことにしました。次に、(前回(59回)紹介した)ブランダムの「実質的推論」の定義にならって、「実質的問答」を次のように定義したいと思います。

実質的問答」とは、「問答関係の正しさが、その問と答えの概念内容を決定するような種類の問答」です。これとの対比で、「問と答えの概念内容にもとづいて、問答関係の成立を説明できる問答」を「形式的問答」と呼びたいと思います。

さて、このように定義した「実質的問答」は存在するでしょうか。まず明示的問答の前に成立していたと考えられる「暗黙的問答」は、実質的問答でしょうか、形式的問答でしょうか。いまだ疑問表現を持たない言語、あるいはまだ疑問表現を学習していない幼児を考えると、その場合の

「これは」「リンゴ」

というような問答は、これらが問答関係になることを、それぞれの発話を構成する表現(「これは」「リンゴ」など)の意味から説明することはできません。したがって、これは「実質的暗黙的問答」です。また、形式的問答が成立するには、疑問表現が言語に導入されていること、また疑問表現を幼児が学習済みであることが必要になることがわかります。

ところで、疑問表現を使用する明示的問答が最初に登場するとき、疑問表現の意味はまだ曖昧です。その意味は、その使用において明確になり構成されるでしょう。したがって、この段階の明示的問答は、問いと答えの意味に基づいてその問答関係を説明することはできません。したがって、この問答関係の正しさから、問いを構成する疑問表現の意味が説明されるでしょう。つまり、少なくとも当初の明示的問答は、「実質的明示的問答」です。

こうして疑問表現の意味が成立し、また習得されたとすると、「形式的明示的問答」が可能になります。一旦「形式的明示的問答」が成立すると、これに含まれる疑問表現を省略したものとして、「形式的暗黙的問答」が可能になるのだと思われます。

まとめると次のような順序で成立することになります。

<実質的暗黙的問答→実質的明示的問答→形式的明示的問答→形式的暗黙的問答>

前回は推論についてて次の順序で成立すると述べました。

<実質的暗黙的推論→実質的明示的推論→形式的暗黙的推論→形式的明示的推論>

しかし、この最後の二つの順序は次のように逆にすべきでした。

<実質的暗黙的推論→実質的明示的推論→形式的明示的推論→形式的暗黙的推論

論理的語彙の意味が学習されて、形式的推論が可能になり、形式的明示的推論が成立した後で、はじめて、そこから論理的語彙を省略して形式的暗黙的推論が可能になるからです。

さて、以上を踏まえて、私たちが日常的によくおこなう暗黙的問答は、「実質的暗黙的問答」なのか「形式的暗黙的問答」なのか、を考えたいと思います。