108 非主張型発話の相関質問について(Regarding correlative questions for non-assertive utterances) (20240302)

[カテゴリー:問答の観点からの認識]

見出しのテーマに入る前に、前回の説明で抜けていた、表現型発話の前提と適切性の区別についての説明をしたいと思います。

「合格おめでとう」という表現型発話は、相手が合格したということが事実であることを、前提としています。もし相手が合格していなかったとすると、この発話は、不適切なものになるのでしょうか

それとも、適切でも不適切でもなく、無効になるのでしょうか。「合格おめでとう」は、相手が合格したということを意味論的に前提していると言えるでしょう。したがって、もし合格していなければ、この命題は偽なる命題を前提としており、発話は「無効」になると考えます。それに対して、もし相手が不合格であることが事実であるとき、「不合格おめでとうございます」と言えは、その発話の意味論的前提は成り立ちますが、その発話は不適切な発話だと言えます。

 発話の満たすべき意味論的前提と語用論的前提を充たす発話を「有効」な発話と呼び、充たしていない発話を「無効」な発話と呼びたいと思います。(この場合、もし「誠実性」を語用論的前提とみなすと、不誠実な発話は、無効になります。しかし、それでは嘘をつくことが不可能になります。不誠実な発話であっても、発語内行為は成立するのです。「誠実性」をどう扱うべきか、別途検討の必要があります。)

#本題に戻ります。非主張型発話の相関質問は、どのようなものになるでしょうか。

 約束発話は、「…してくれますか」という問い(これは依頼の発話でいいか可能です)に対する「…します」という返答として成立するでしょう。命令発話は、「…しましょうか」という問い(これは約束の発話で言い換え可能です)に対する「…してください」という返答として成立するでしょう。

 では、「合格おめでとうございます」の相関質問は何でしょうか。「合格しましたよ。どう思いますか(感想はいかがですか)」という問いへの答えだと言えそうです。もちろんこのような問いが明示的に行われる必要はなく、「合格しました」という報告に暗黙的に含まれる場合が多いでしょう。しかし、合格した人を目の前にするとき、「どう思いますか」という問いかけに答えることが求められていると暗黙的に感じるのではないでしょうか。

#宣言型発話の相関質問は、次のようなものになるでしょう。

行為宣言型:「開会します」「賞を授与する」

  「そろそろ会議を始めませんか」「はい、開会します」

  「だれに賞を授与しますか」「Xさんに賞を授与します」

これらの問答は、場合によっては(まだ開会の宣言を行っていないときには)、この問いは答えとして約束の発話を求める問いと、約束発話の答えとなります。場合によっては、この問答は、宣言を求める問いと、宣言する答えとなります。

主張宣言型:「アウト」「有罪とする」など審判、判決の発話

  「彼はアウトですか、セーフですか」「アウト」

という問答は、場合によっては、真理値を持つ命題を答えとする理論的問いと、事実の記述であり真理値を持つ答えであることが可能です。ある場合には、宣言を求める問いと、真理値を持たない宣言発話の答えであることが可能です。

命名宣言型:名づけの発話

  「この子の名前は何ですか」「この子の名前はソクラテスです」

この問答も、主張宣言型の場合と同様に、ある場合には(その子の命名がまだ行われていない時には)、命名を問う問いと、命名の答えであり、ある場合には(命名が行われた後では)、理論的問いとそれに対する記述の答えです。

・定義宣言型:語や対象の定義を与える宣言。

「水とは何ですか」「水とはH2Oです」

この問答も、主張宣言型の場合と同様に、ある場合には(「水」の定義がまだ行われていないときには)、定義を求める問いと、定義を与える答えであり、ある場合には(「水」の定義が行われた後では)理論的問いとそれに対する記述の答えである。

では、これらの宣言発話の適切/不適切の区別は、どのようなものになるでしょうか。これまで、宣言型発話を答えとする問答を実践的問答に含めて論じた個所もあったと思いますが、宣言的問答を実践的問答から区別すること、つまり問答全体を理論的問答、実践的問答、宣言的問答、の3つに区別した方がよいのではないかと考え始めています。これを次に検討したいと思います。

107 発話の前提と適切性について(the presuppositions and appropriateness of utterance) (20240301)

[カテゴリー:問答の観点からの認識]

前々回(105回)に依頼の発話の適切性を、前回106回に表現型発話の適切性を、それぞれ命令ないし定義に依拠するものとして説明しました。そこで今回は、宣言の適切性について説明すると予告しました。しかし、これまでの記述では、発話の前提と適切性の区別が曖昧でした。そこで、発話の前提と適切性の区別から論じ直したいと思います。

#発話の意味論的前提と語用論的前提について

発話の前提は、意味論的前提と語用論的前提に分けることができます。

問いに対する答えは、正誤の区別を持ちます。発話が、正しいかあるいは誤りであるかの、どちらかでありうるための、発話の「意味論的前提」と呼ぶことにします。そして、発話行為が成り立つための語用論的必要条件を、発話の「語用論的前提」と呼ぶことにします。

主張型発話の場合、正誤の区別は、真偽の区別となります。それゆえに、主張型発話が真理値を持つための意味論的必要条件が、主張型発話の「意味論的前提」となります。

主張型以外の発話は真理値を持ちません。そこで、それらの発話の正誤の区別を、適不適(適切と不適切)の区別と呼ぶことにします。そして、発話が適切ないし不適切であるための意味論的必要条件を、発話の「意味論的前提」と呼ぶことにします。

(紛らわしくて申し訳ないのですが、J. L. オースティンは、この意味論的前提と語用論的前提を充たす発話を’felicity’と呼び、これが「適切」と翻訳されています。用語については、工夫の余地があるかもしれませんが、上述の区別は明確だと思います。)

主として論じてきたのは、主張型発話の真理値が、遡るならば、命名や定義の宣言発話に基づくということでした。次にそれの拡張として、主張型以外の発話、行為指示型発話(命令や依頼)、行為拘束型発話(約束)、表現型発話の適切性(適切であるか、不適切であるか)が、命名や定義の宣言発話に基づくということを証明しようとしました。

 ただし、主張型以外の発話についての説明では、<発話の意味論的前提が命名や定義の宣言に依拠すること>と<発話の適切性が命名や定義の宣言に依拠すること>の区別があいまいでしたので、その点に注意して、論じ直したいと思います。

 前回(106回)に依頼の発話の適切性について、次のように述べました。

「#依頼の発話の適切性

依頼の発話が適切であるとは、次の条件を満たすことだと思われます。

  ・依頼の内容が実現可能であること

  ・発話者が発話相手に依頼する資格があること

  ・発話が誠実なものであること(発話者が、依頼内容が実現可能であると信じていること)」

しかし、これらは依頼の発話の適切性の条件ではなく、むしろ依頼の発話の意味論的前提と語用論的前提の一部です。次のように言えます。

  ・依頼の内容が実現可能であること(これは意味論的前提)

  ・発話者が発話相手に依頼する資格があること(これは語用論的前提)

  ・発話が誠実なものであること(発話者が、依頼内容が実現可能であると信じていること)(これも語用論的前提)

では、依頼の発話「水を持ってきてください」の適切性は、どのように説明されるのでしょうか。

主張型以外の発話が「適切である」とは、その発話が「より上位の目的の実現にとって役立つ」ということだろうと思います。その「より上位の目的」とは、答える者にとってのより上位の目的でしょうか、それとも問うた者にとってのより上位の目的でしょうか。

 その発話が「適切である」とは、問いに対する答えとして「適切である」ということだとすると、それは問うた者についてのより上位の目的の実現に役立つということでしょう。  では、主張型以外の発話の相関質問は、どのようなものになるでしょうか。これを次に考え、(今回考える予定であった)宣言発話の適切性についても考えたいと思います。

18 規則遵守問題、生きがい、承認(the rule-following problems, reason to live, recognition)(20240223)

[カテゴリー:哲学的人生論(問答推論主義から)]

(ブランダムのA Spirit of Trustの読書会に参加しているのですが、その第8章でブランダムがカントの自律について語っていることが、「生きがい」にも当てはまると思いますので、そのことを説明したいと思います。(以下の話は、これまで論じてきた人の「生存価値」に関わりますが、今回の話を、これまで話と結びつけることは、今後の行う予定です。)

#ブランダムによれば、カント的自律には欠陥がある。

カント的自律は、<自分で立てた法則に従うこと、それを是認すること>です。

  法則を自分で立てること

  法則に従うことを自分に是認すること

これによって、カントは、直接的に権威(尊厳)を構成します。

ブランダムは、自分で立てた法則に従うことができているかどうか、それを是認するときには、自分で立てた法則に従っていると信じているがそれが正しいのかどうかは、ウィトゲンシュタインの規則遵守問題の一種であると考えます。そして、ウィトゲンシュタインの私的言語批判とおなじく、自律もまた私的には不可能であり、他者によって、自分で立てた法則に従っていること、定言命法に従っていること、を承認される必要があると考えます。さもなければ、自律は不可能であり、自律は仮想的であり、現実的ではないと考えます。

(同じように考えるならば、「これは赤い」という認識が他者から承認されるとき、それは初めて客観性を持つ。他者からの承認がないときには、それは「仮想的」であるとブランダムは言うでしょう。)

ブランダムは、カントの「尊厳」についても、同様に考えており、人が尊厳をもつことはその人が、尊厳をもつことを自分に是認するだけでは不十分であり、他者から尊厳を帰属されること、つまり他者に尊敬されることが必要だと言います。「尊厳」の意味は、私的には成立しないからです。

さて、私たちはこの議論を「生きがい」にも当てはめることができます。人の「生きがい」は、さしあたりは、その人が自分で設定できます。「私はこれを生きがいにする」と言えばよいのです。しかしそれだけでは「生きがい」はまだ私的言語(あるいは個人言語)であり仮想的です。それが有意味であるためには、他者からの承認が必要です。他者から承認されて「生きがい」は現実的となります。それゆえに、私たちは、他者の承認を求めます。

 ブランダムは、自己意識は規範的地位であり、規範的地位は社会的地位であるといいます。つまり自己意識は承認関係において成立するであり、個人が持つ性質や機能ではありません。自由も同様であり、自由は相互承認関係において成立するものであり、個人が持つ性質ではありません。

 これ踏まえて言い換えると、自己意識や自由や「生きがい」は、他者との問答において成立するものです。「これはリンゴです」という認識は、「あれはリンゴではない」との対比の中で成立するのだから、「これはリンゴですか」や「どれがリンゴですか」という問いに正しく答える答えられることによって成立します、つまり他者との問答において成立します。これと同じく、「私は自己意識を持つ」「私は自由である」「私はこれを生きがいにする」もまた他者との問答において成立するのです。

106 表現型発話は、定義にどのように依拠するのか(How do expressive utterances rely on definition?) (20240218)

[カテゴリー:問答の観点からの認識]

表現型発話は、状況や対象に対する自己の感情的態度を表明するものです。例えば、次のようなものです。

 「おめでとう」「お祝い申し上げます」

 「ありがとう」「感謝申し上げます」

表現型発話の学習は次のように行われるでしょう。例えば、「ありがとう」の学習は、子供がある人にお菓子をもらったとき、親はその人に「ありがとうございます」と言うと同時に子どもに「ありがとうは?」などと、「ありがとう」と言うように教えます。大人は、どのような状況で、子供が他者に「ありがとう」と言うべきであるかを教えます。

「ありがとう」「おめでとう」「お悔やみ申し上げます」などの表現型発話には、言うべき時、言ってもよい時、言ってはならない時の区別が可能です。これらの語の使用法を学習するとは、基本的にこれらの状況の判別を学習するです。 これらの語の使用法の学習は問答によって行われます。つまり「こういう時には、「ありがとう」と言うべきですか」「こういう時には、「ありがとう」と言う必要はありませんか」などの問いへの正しい答えを学習して、未知の状況でも、これらの問いに正しく答えられるようになることによって、「ありがとう」の使用法の学習が行われるでしょう。

表現型発話には、語るべき時、語ってはならない時、語ってもよい時、の区別があります。それは、語るべき時には適切で必要な発話になり、語ってもよい時には適切な発話になり、語ってはならない時には不適切な発話になります。適切なときと不適切なときの区別を持つ行為や発話は、規範性を持ちます。この意味で表現型発話は、規範性を持ちます。

では、これらの語はどのように発生したのでしょうか。例えば「ありがとう」を次のように定義できるかもしれません。<「おめでとう」は、お祝いの言葉である、つまり相手によい出来事起こったときに発話し、そのことを共に喜ぶための言葉です>。相手によい出来事起こったときに、そのことを共に喜ぼうとするときの発声が、習慣化することによって、お祝いの言葉となったのだろうと推測できます。このプロセスが、この語の定義のプロセスだと言えるかもしれません。この語の使用が習慣化し、使用法が定義されると、その定義に基づいて使用されるようになるし、定義に基づいて学習が行われるようになるでしょう。この語の使用規則が慣習化するとき、この語の使用は規範性をもちます。この語は、使用法の慣習化という意味での定義を持つといえますが、しかしこの定義は宣言発話によって行われるのではありません。

 それでも、表現型発話の適切性は、表現型発話の定義および学習に依拠すると言えます。

*注1:宣言型発話は、オースティンが言うように、一定の慣習のもとで成立し、それがないときにはその発話は無効になります。表現型発話には、それを語ってはならない場合がありますが、宣言型発話には、語ってはならない場合は(おそらく)ありません。しかし、それが無効になる場合はあります。それが無効になるとき、それは不適切な発話になるのではありません。不適切な宣言というものはなく、無効な宣言発話があるだけです。これに対して、表現型発話の場合には、それが不適切な発話にある場合はありますが、慣習を前提することはありません。表現型も宣言型も「適合の方向」を持たない点では共通していますが、慣習を前提しないか前提するか、の違いがあります。

*注2:表現型発話が無効になるのは、発話相手がいない時ですが、前提とする事実が成立していない時はどうでしょうか。例えば「合格おめでとうございます」は、もし相手が合格していなければ、無効なのでしょうか。それとも不適切なのでしょうか。

*注3:表現型発話は単なる感情表現の発話ではありません。「私は嬉しい」「私は満足だ」が、感情の記述であるときには、それは真理値を持つ主張型発話です。これに対して、プレゼントをもらって「私は嬉しい」とか「私は満足だ」とか相手に言うときには、それは感情の記述ではなく、相手の行為に対する自分の態度を表現しています。サールの言う表現型発話は、適合の方向がゼロです。これは、表現型発話が、心理状態の記述ではないことを意味しています。「ありがとうございます」と言うとき、たとえ本当に感謝していなくても、その場合にも感謝の表現は成立しています。(発話の誠実性については、いつか別途考えます。)

以上みてきたことから、宣言型発話以外の発話(主張型、行為拘束型、行為指示型、行為拘束型、表現型)の発話の真理性ないし適切性は、すべて定義に依拠することがわかりました。

 では、宣言型発話の適切性については、どう考えればよいのでしょうか。それを次に考えたいと思います。

105 依頼の発話は、命名や定義にどのように依拠するのか(How do request utterances rely on naming and definition?) (20240215)

[カテゴリー:問答の観点からの認識]

#依頼の発話の適切性

依頼の発話が適切であるとは、次の条件を満たすことだと思われます。

  ・依頼の内容が実現可能であること

  ・発話者が発話相手に依頼する資格があること

  ・発話が誠実なものであること(発話者が、依頼内容が実現可能であると信じていること)

ちなみに、主張の発話の場合にも、同様に適切性を語ることができます。

  ・主張の内容が真であること

  ・発話者が主張する資格があること

  ・発話が誠実なものであること(発話者が、主張内容を真であると信じていること)

#依頼の発話の実現可能性は、命名と定義に依拠します。

「相手が水を持ってくることが実現可能である」が成り立つことを認識するには、命名と定義に依拠する必要があります。なぜなら、依頼内容「水を持ってくる」を理解するには、「水」と「持ってくる」の定義に依拠する必要があるからです。そして、「水を持ってくる」を理解するとは、どのような場合にこれが成り立つかを理解するということであり、それは、どのようの場合に「相手が水を持ってくることが実現可能である」が成りたつかを理解することです。従って、「水を持ってきてください」という依頼の発話の適切性の認識は、「これは赤い」という記述の発話の真理性と同様の仕方で、命名や定義に依拠します。

したがって、サールの分類による行為拘束型発話(命令・依頼)や行為指示型発話(約束)の実現可能性は、それに用いられる語の命名や定義の宣言に依拠する、と言えます。

 では、サールの言う表現型発話は、命名や定義とどう関係するのでしょうか。これを次に考えたいと思います。

104 発話は、命名や定義にどのように依拠するのか(How do utterances depend on naming and definition?)(20240205)

[カテゴリー:問答の観点からの認識]

このカテゴリーでは97回あたりから、<命名と定義に依拠して、問いに対する答えの真理性を正当化する>ということを考えており、命名や定義のための宣言や、その宣言を答えとする問答の成立を説明するために、規則遵守問題を論じると予告していたのですが、その前に、「(記述の発話に限らず)発話一般に関して、発話の意味理解や真理性や適切性が、命名や定義にどのように依拠するのか」を考察しておきたいと思います。

#まず次の二つの例を考えてみます。

  「これは赤い」

  「水を持ってきてください」

「これは赤い」の場合:この発話の意味の理解は、「赤い」の定義に基づきますが、それだけでなく、真偽の判定も、定義の時の対象と現在の対象との類似性と、推論規則に依拠します。

「水を持ってきてください」の場合:この発話の意味の理解もまた、語「水」や「持ってくる」という語の理解に基づくので、それらの学習過程、さらに遡ってそれらの定義に基づきます。さて、この依頼の発話は、真理値は持ちませんが適不適の区別を持ちます。この適不適の区別は、語「水」や「持ってくる」の定義には依拠しないのでしょうか(そこが「これは赤い」との違いなのでしょうか)。

それとも、発話の適切性もまた、それに含まれる語の定義に依拠するのでしょうか。

 この点をもう少し分析したいと思います。

103 「問いに対する答えが真であるとはどういうことか」への答え(The answer to “What does it mean for an answer to a question to be true?”) (20240203)

[カテゴリー:問答の観点からの認識]

(今回の発言は、一時休憩の踊り場です。)

 第97回から考えてきたことは、「問いに対する答えが真であるとはどういうことか」ということでした。そして、前回最後にのべたように、<命名や定義の宣言が成立するには、他者との問答が必要であり>、また<命名とその記憶に基づいて「あれが富士山です」と事実を主張するときにも、その記憶の正しさを保証するには、他者との問答が必要です>。そこで、「他者と問答できていることと、他者と問答できていると信じていることの区別について」考えたいと思ったのです。しかし、この問いに答えようとすると、当初の「問いに対する答えが真であるとはどういうことか」に答える必要があるように思われます。このように振り返ると、最初の問題設定からあまり前進していません。

 今回は、当初の問題「問いに対する答えが真であるとはどういうことか」への現時点での答えをまとめておきたいと思います。以下は、2024年8月にローマで開催予定の世界哲学会にエントリーするためにまとめた文章「命名と定義による真理の正当化」の一部です。

「記述の真理性は、使用する語の意味(使用法)に依拠し、語の意味(使用法)の学習は、語の意味(使用法)の定義に依拠する。その定義は宣言発話であり、それ自体は真理値を持たないが、定義の後、同じ文の発話が反復され時、それは記述となり、その真理性は定義に依拠する。では、真理値を持たない宣言発話の文を反復して発話することが、どうして真なる記述になるのだろうか。

 世界の記述が真となるのは、その命題内容が、世界の在り方と一致するからだと考えられている。命題内容が事実と一致するためには、命題内容と事実の区別が前提となる。この区別は、命名や定義のための問答において暗黙的に行われる。したがって、例えば、語「象」を定義することは、同時に対象<象>を定義することであり、定義の後で、定義の文を反復するとき、それはその対象についての記述となり、真理値を持つことになる。」

The truth or falsity of a statement depends on the meaning (usage) of the words used in it, and knowing the usage of a word depends on the definition of the usage of the word. A definition is a kind of declaration, so it has no truth value in itself, but repeating the same sentence after a definition becomes a description, and a truth value is derived based on the definition. So how can repeating a statement of a declaration, which has no truth value, become a true statement? A description of the world is said to be true because its propositional content ”corresponds” to the way the world is. In order for the content of a proposition to ”correspond” to facts, it is necessary to distinguish between the content of a proposition and facts. Defining the word ”elephant” is inseparably defining the object <elephant>, but words and objects are implicitly distinguished in questions and answers about naming and definitions. Therefore, if you repeat the definitional statement after the definition, it becomes an accurate description of that object.)

発表しようとしている内容は、このカテゴリーで97回から考えていることです。しばらくこのエントリーの準備に時間を取られ、ブログの更新が遅れてしまいましたが、そこで気づいたのは、命名や定義を行うときの問答そのものの分析の必要性です。

 命名と定義から記述の真理性を正当化する、という主張は、記述の真理性を、要素命題の真理性や語の意味に還元する立場だと思われるかもしれませんが、そうではありません。なぜなら語の命名や定義は、問答によって可能になるからです。問答によって、語と対象の区別が可能になり、問答よって、語から文の合成が可能になり、問答によって命題と事実の区別が可能になり、問答によって語の命名や定義が可能になるからです。ところで、この問答が私的言語としては成立し得ないとすれば、問答が成立するためには他者が必要だとして、他者の登場によって、規則遵守問題はどのように解決されるのでしょうか。

 この問題を次に考えようと思います。

102 記憶の問題 (Memory problems)(20240117)

[カテゴリー:問答の観点からの認識]

「あれが富士山です」という命名宣言が成立するには、「あれ」による指示が成立しなければなりませんが、それを確認するためには「「あれ」というのはどれですか」という問いに「あれです」と答えるという問答が必要です。この問答が自問自答であれば、この問答が正しいか、正しいと信じているだけか、区別できません。指示できるためには、指示を確認できなければなりません。そして指示を確認するには、(自問自答では、規則に従うことができないので)最終的には、他者との問答が必要です。したがって、命名宣言が成立するには、他者との問答が必要です。

 こうして命名宣言が成立した後で、「あれが富士山です」と事実についての主張が行われたとき、それが真であるためには、命名のときに「あれ」で指示した対象を、主張において「あれ」で指示していることが必要です。そのためには、命名の時に「あれ」で指示した対象を記憶している必要があります。この記憶が正しいのか、正しいと信じているだけなのか、を区別するには、他者との問答が必要です。(これは、記憶によって人格の自己同一性を正当化しようとするときにも、他者との問答が必要であることを意味しています。)

したがって、命名宣言が成立するには、他者との問答が必要ですが、命名とその記憶に基づいて「あれが富士山です」と事実を主張するときにも、他者との問答が必要です。

そこで、次に「他者と問答できていることと、他者と問答できていると信じていることの区別について」考えたいと思います。

101 指示性の固定性と指示の不可測性は両立可能である(Rigidity of reference and inscrutability of reference are compatible) (20240113)

[カテゴリー:問答の観点からの認識]

#富士山の命名は、次の発話によって行われます。

  「あれが富士山です」

この命名宣言には、真理値はありません。しかし、この宣言の後で、「あれが富士山です」と語るとき、(命名宣言の反復である場合もあるでしょうが)真理値を持つ事実の記述となることが可能です。この記述が真であるためには、記述の「あれが富士山です」の「あれ」が、命名の「あれが富士山です」の「あれ」と同一の対象を指示していなければなりません。逆にいえば、もし「あれが富士山です」が真であるならば、その「あれ」は命名宣言の中の「あれ」と同一対象を指示しています。

記述「あれが富士山です」が真である ≡ 記述「あれが富士山です」の「あれ」の指示対象と命名「あれが富士山です」の「あれ」の指示対象が同一である

命名宣言の中の「あれ」が何を指示しているのかが、クワインが言うように不可測(inscrutable)であるとしましょう。仮に命名宣言の中の「あれ」の指示対象が不可測であり、複数の可能性をもつとしても、指示されている可能性を持つそれぞれの対象について、真なる記述「あれが富士山です」の中の「あれ」が、命名宣言の中の「あれ」と同一の対象を指示していると想定することは可能です。

 もし「富士山」を命名した者が「あれ」で指示していたものと、それを学習した者が「あれ」で指示しているものが、ズレているならば、「あれが富士山です」という記述の真理値に関して、命名者と学習者に不一致が生じるでしょう。不一致が生じる限り、そのことは、学習者の学習がまだ完了していないことを意味します。学習が完了したならば、それは一致するはずです。もちろん、学習が完了したと思っていたのに、ある時、その用法について不一致が生じることはありえます。

次に一般名の定義を考えましょう。s「あれはブナです」と定義したとします。この「あれ」が指差しの方向にある木を指示しているのだとしても、どのような木であるのか、不可測であるとしましょう。

しかし、「あれはブナである」が真なる記述であるならば、その「あれ」は、定義の中の「あれ」と同種の対象を指示していることになります。「あれはブナである」が真なる記述であれば、その「あれ」は常に定義の中の「あれ」と同種の木を指示しているのです。これは自然種名「ブナ」の固定指示性です。

#命名の固定指示と指示の不可測性は、両立可能です

仮定1(命名の固定指示):「この子をソクラテスと命名する」という命名発話によって、この固有名「ソクラテス」はすべての可能世界で同一対象を指示することになると仮定してみます。

仮定2(指示の不可測性):この命名発話「この子をソクラテスと命名する」の「この子」による指示は不可測的であり、その指示対象については複数の可能性が残ると仮定してみます。

この二つの仮定は両立可能でしょうか。「この子」の指示対象について複数の可能性があるならば、「ソクラテス」の指示対象も複数の可能性をもちます。「ソクラテス」は、すべての可能世界で、同一の対象を指示しますが、しかしその同一の対象は複数の可能性を持ちます。このように考えるとき、この二つは両立可能です。

#自然種名の固定指示と指示の不可測性は、両立可能です

仮定1(自然種名の固定指示):「これは、リンゴである」という定義の宣言発話によって、この固有名「ソクラテス」はすべての可能世界で同一対象を指示することになると仮定してみます。

仮定2(指示の不可測性):この命名発話「この子をソクラテスと命名する」の「この子」による指示は不可測的であり、その指示対象については複数の可能性が残ると仮定してみます。

この二つは、両立可能ですs。指示の不可測性は、指示の解釈につねに複数の可能性が残るということですが。その複数の可能な対象の各々について、定義がそれを固定指示していると考えることができるからです。

(以上の説明での「固定指示」や「指示の固定性」は、固有名や一般名の使用の状況や文脈が異なっても、同一の対象を指示するという一般的な理解であり、可能世界の貫世界的同一性を認めるかどうかなどの、固定指示についての論争に踏み込んだものではありません。これについては、勉強してから別途論じたいと思います。)

次に、記憶の問題を考えたいとおもいます。

以前に、問いの答えが真であることは、次のことに基づくと述べました。

  • 言葉の学習に基づく
  • 語や文の定義に基づく。
  • 1,2からの推論に基づく
  • 1,2の記憶に基づく
  • 1,2,3,4,5についての他者の承認に基づく

ここまで論じてきたのは、1と2についてです。

次に記憶の問題を考えたい思います。

100 指示するとはどういうことか(What does it mean to refer?) (20240102)

[カテゴリー:問答の観点からの認識]

(明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします。)

問いに対する答えが真であるとはどういうことか、を考えており、最も基礎的な真理としては、語「リンゴ」を学習したときの「これはリンゴである」を真なる命題として学習するので、とりあえず個人にとってはこれは問いに対する答えが真である、もっともの基礎的な例になるだろうと考えました。ただし、語の学習は教える人の知識に依存しており、それを遡れば、最初に「リンゴ」という語を作ったときに遡ると考えました。命名や定義によって語を語を導入するとき、そこ使用される「これはリンゴである」のような命名や定義の宣言発話は、真理値を持ちませんが、それに依拠して「これはリンゴである」とか「これはリンゴではない」とかいう発話は真理値を持ち、問いに対する答えが真であるのは、命名や定義に依拠することによって成立することになります。そして、前回述べたように、命名や定義をするためには、対象ないし対象の集合を指示しなければなりません。そこで、指示するとはどういうことか、を考えたいとおもいます。

#指示は、命名や定義を前提する。

 まず、命名と定義の時に限らず指示一般について考えてみます。指示するとは、対象を指示することです。指示対象には、具体的な個物、抽象的普遍、具体的性質、普遍的性質、具体的関係、普遍的関係、具体的出来事、普遍的出来事、言語的トークン、言語的タイプなどがあり、これらは、名詞ないし名詞句で指示できます。

 名詞ないし名詞句を用いて対象を指示するのだとすれば、指示に先立って、名詞ないし名詞句の学習が必要です。学習が可能であるためには、教える人が学習を終えていることが必要です。そしてこれを遡れば、名詞ないし名詞句の命名ないし定義に行き着きます。つまり、一般的には、指示は、名詞ないし名詞句の命名や定義を前提とします。

#指示と命名・定義は循環するのか?

 このように考えるとき、指示の説明と、命名や定義の説明は、循環してしまうのでしょうか。前回見たように、命名や定義は、逆に指示を前提とします。すると、説明が循環しそうです。しかし、命名や定義が前提とする指示が、他の名詞や名詞句を使用している場合には、これらの他の名詞や名詞句の命名や定義を説明するときに、当初の名詞や名詞句を使用しないようにするならば、循環は避けられると思います。このようにして循環を避けながら遡っていくならば、命名や定義が前提とする指示が、他の名詞や名詞句を使用せずに行われるケースに行き着くでしょう。この場合の指示は、指さし行為+指示詞の発話に遡るかもしれませんが、これはさらに、指さし行為と相手の注意を喚起するための発声(「アー」や「オー」など)を結合したものへと遡ることができるでしょう。(この発声は、次の2や3に発展します。)

#命名や定義の発生順序

命名や定義の発生の順序は、おそらく次のようになるだろうと推測します。

1,自分が注目している対象に相手の注意を向けさせるために指差し行為と発声をすること

2,ある特定の対象に相手の注意を向けさせるために指差し行為とある特定の発声をすること(日本語の場合、「これ」「あれ」「それ」など、これは様々な対象の指示に使用できる)。

3,ある対象と特定の発声を結合すること(「ミルク」「おもちゃ」「ママ」など)。

現在のところ、このような段階を経て固有名の命名や一般名の定義が行われるようになるだろうと推測しています。

#語が作られる理由

このようにして生じると推測する語の発生ですが、言語の習熟が進んだ後では、自問自答によって語が作られる場合もあるでしょうが、原初的には、他者とのコミュニケーションのために語が作られるのだと思います。他者とのコミュニケーションのために語を作る理由としては、例えば次のようなことが考えられます。

(1)語があれば、対象が不在であってもその対象への共同注意が可能になります。

例えば、「リンゴをとってほしい」ということを伝えようとするとき、「リンゴ」といって手を伸ばせば、リンゴがそこになくても、リンゴをとってほしいということを伝えることができます。「何が欲しいのか」という問いに答えようとするとき、リンゴがそこにないときには、語「リンゴ」がないと伝えられません。

(2)そもそも指差し行為ができない対象への共同注意を求めるには、その対象を語句で指示することが役に立ちます。例えば、「おしっこ」「痛い」など。

これらのケースでは、語を作るのは、共同注意を生じさせるためであり、共同注意が必要になるのは、協働作業のためであろうと推測できます。

#命名と定義は固定指示です。

クリプキによれば、「この子をソクラテスと命名する」という命名宣言が承認されたなら、この「ソクラテス」はすべての可能世界で同一対象を指示します。「水はH2Oである」という定義宣言が承認されたなら、「水」はすべての可能世界で同一種を指示します。

 「水」の定義「水はH2Oである」は、H2Oの集合と名前「水」を結合しています。この定義によって、「水はH2Oである」はアポステリオリで必然的に真です、言い換えると認識的に偶然的であり、形而上学的に必然的です。この定義によって、「水」は固定指示となります。ゆえに、定義の前でもこれは真となります。

#固有名の命名の規約に依拠する真なる答え

「この子はソクラテスである」によって、固有名を作ったとしましょう。固有名は固定指示です、つまりあらゆる可能世界で、「ソクラテス」は同一の人物を指示する。クリプキは、これを規約だという。この規約は次のようなものになるだろう。

<「この子」という名詞句は、この世界ではある一人の人物を指示する。そして、その人物が他の可能世界にいるかどうかわからないが、もしいたとすると、その人物を指示する。>と規約する。

この命名の規約に基づいて、ある人物を指して「この人は誰ですか」という問いに、「この人はソクラテスである」と答えるべきであることになる。この答えは、

 (1)「「この人」の指示対象が誰であるか」の答え

 (2)「ソクラテス」の命名宣言文「この子はソクラテスである」

 (3)「この人」の指示対象と命名宣言の「この子」の指示対象が同一であること

この3つを前提として、そこから結論として推論される。「この人は誰ですか」という問いに対する答え「この人はソクラテスである」の真理性は、この推論に基づく。前提の(1)は経験的な理論的問いの答えである。前提(2)は、命名の規約である。前提(3)はもまた、経験的な理論的問いの答えである。

#自然種名の定義の規約に依拠する真なる答え

自然種名を作ることは、命名とも呼べるが、定義とも呼べる。命名という場合には、「これは、リンゴである」と命名する前に、すでに対象<リンゴ>は同定されている。定義という場合には、対象<リンゴ>が事前に同定されている場合と、語「リンゴ」の定義によって、対象<リンゴ>の同定(定義)が可能になる場合がある。どちらの定義の場合にも、定義による対象の表示は、固定指示であるが、より原初的なのは、定義のこの後者の場合であろう。そして、この固定性もまた規約である。

この定義の規約に基づいて、ある対象を指して「これは何ですか」という問いに、「これはリンゴです」と答えるべきであることになる。この答えは、

 (1)「「これ」の指示対象がどれであるか」の答え

 (2)「リンゴ」の定義宣言文「これはリンゴである」

 (3)「これは何ですか」の「これ」の指示対象と定義宣言文の「これ」の指示対象が同一であること

この3つを前提として、そこから結論として推論される。「これは何ですか」という問いに対する答え「これは、リンゴです」の真理性は、この推論に基づく。前提の(1)は経験的な理論的問いの答えである。前提(2)は、命名の規約である。前提(3)はもまた、経験的な理論的問いの答えである。

理論的な問いに対する答えである(単純な知覚報告を含む)事実の記述は、推論によって成立しますが、その前提ととして、命名や定義だけでなく、知覚、記憶、概念関係もまた前提として必要としています。つぎにこれについて考えたいのですが、その前に、クワインの指摘した「指示の不可測性」と固定指示の関係についての考えたいと思います。