43 個人言語だけがあり、私的言語も公的言語もない?  (20230318)

[カテゴリー:日々是哲学]

最近こんなことを考えました。

#個人言語だけが存在し、私的言語も公的言語も存在しない。

「私的言語はありうるか?」という問いを問うとき、大抵は公的言語があることを前提しているように見えます。しかし「公的言語があることは確実なことだろうか?」とか「共通な言語を公的に共有していることを確認できるだろうか?」という問いには、「いいえ」と答えるほかないでしょう。

 Wittgensteinは、独り孤独にいるときには、<言語の規則に従っていること>と<言語の規則に従っていると信じていること>の区別ができない(『哲学探究』§202)、ということから、私的な言語は存在しないと考えましたが、これと似た仕方で次のように考えることができます。ある気心の知れた仲間たちの中にいるとき、あるいは、ある言語を共有していると思っている共同体の中にいるいとき、<私たちが一つの言語を共有していると信じていること>と<私たちが一つの言語を共有していること>を区別できないでしょう。つまり、言語を共有していることを確認することはできません。なぜなら、二人が共にある言語の規則に従っていると信じているとき、<二人が共にある言語の規則に従っていること>と<二人が共にある言語の規則に従っていると信じていること>を区別できないからです。そしてこれと同じことが、三人でも、四人でも、n人でも生じます。そうすると、私的言語も公的言語も存在しないことになります。

しかし、ある言語を共有していることを確認できないとしても、私たちは、ある程度あるいはほぼ十分に、コミュニケーションできることを確認することはできます。それは、私や相手の問いかけや答えにたいして、互いに予測する通りに、ほぼ反応するということです。私と相手が同じ言語を話しているかどうかは確認できませんが、コミュニケーションできるということは確認できます。

デイヴィドソン(論文「第二人称」)やブランダムは、公的言語、共有された言語があることを確認できなくても、互いにコミュニケーションできていれば、お互いがそれぞれ、それぞれの言語の規則に従っていると言えると考えました。これは正しいのではないでしょうか。

そうすると、私たちは、私的言語が成立するとは言えないし、公共言語が成立するとも言えませんが、個人言語は成立すると言えるでしょう。(私はここで「私的言語」と「個人言語」を次のように理解しています。「私的言語」とは、ある個人だけが使用の規則を理解できる言語であり、「個人言語」とは、ある個人がその使用規則を理解しているが、他者もその使用規則を理解可能である言語です。)なぜなら、それについては、規則に従っていることをテストすることができるからである。

87 研究会がおわって  (20230317)

[カテゴリー:問答の観点からの認識]

(更新が遅れてしまい、すみません。)

3月10日に「概念実在論と問答」と題して「推論主義研究会」で発表しました。

その時の原稿を以下にアップします。

https://irieyukio.net/ronbunlist/presentations/20230310研究発表%20「概念実在論と問答」(Ver2).pdf

もう少し時間をもらって、その後の質疑を受けて考えたことも追加してVer.3としてupする予定です。

このカテゴリーでは82回目から、ブランダムの概念実在論と問答推論の関係を論じてきました。

その過程で、A Spirit of Trust(ST)の議論が、Between Saying and Doing (BSD)の叙述と密接に関係していることがわかりました。研究発表でもそのことを説明しました。概念の客観的形式と主観的形式、言い換えると真理様相語彙と義務規範語彙が相互に意味依存するというSTの主張を、BSDでは、「語用論的に媒介された意味論」をもちいて説明していました(この説明については、上記の発表原稿をご覧ください)。

ここでは、概念実在論が主張する事実の概念構造の「客観性」について、MIE、AR、BSD、STの議論を参照しながら、検討したいとおもいます(研究会の発表後、MIE、ARにも同様の議論があることに気づきました。それは、MIEの「8章 命題的態度を帰属すること:推理することから表象することへのみちすじ」やARの「第五章 推論から表象への社会的なみちすじ」での議論です。こうしてみると、ブランダムがMIEから同じ基本的な枠組みで論じてきたことがわかります。私が気づいていなかっただけ、というべきかもしれません。)

私はブランダムの概念実在論を問答推論の立場から検討することを目指しているので、次回からBSDの議論に問答の語彙をどう組み込みことができるのかを考えたいとおもいます。残念ながら、BSDには問答の語彙への言及が全くないのです。

86 概念的観念論の非対称性  (20230302)

[カテゴリー:問答の観点からの認識]

#概念的観念論とは

「概念的観念論は、事物を解釈する二つの仕方はともに妥当で本質的であるが、それらの間には説明上の重要な非対称性があるというアイデアである。」ST369

ここでいう「事物を解釈する二つの仕方とは、「客観的概念的諸関係」と「主観的概念的実践とプロセス」ST369です。もう少し詳しくいえば、

「世界の概念構造を分節化する実質的な両立不可能性(および、したがって帰結)の客観的関係を表象する概念」ST369

「(実質的に両立不可能なコミットメントの是認に反応して、(いくつかのコミットメントを同定したり、他のコミットメントを犠牲にすることによって)自己意識的な個人的自己を構成する)主観的実践とプロセスを表現する概念」ST369 

です。

ここでブランダムは次の問いを立てます。

「<客観的概念的諸関係と主観的概念的実践とプロセス>の配置全体は、客観性の関係的諸範疇の用語で理解されるのか、それとも主観性の実践的-プロセス的諸カテゴリーの用語で理解されるのか?」ST369

この問いに対して、ブランダムは、この配置全体は、「主観性の実践的-プロセス的諸カテゴリーの用語」で理解することが、説明上優先されるべきだと答えます。そしてこの主張を、概念的観念論をと呼びます。この主張は二つの説明方式の間に非対称性を認めます。(ちなみに、「実体は主体である」というヘーゲルの言葉は、この概念的観念論を表現していると言われます。)

実はまだSTの第三部を読めていないので、今の段階では「概念的観念論」については、まだよくわかりません。しかし、STが概念実在論、客観的観念論、概念的観念論がという三段階でヘーゲル『精神現象学』を捉えようとしていることとそのおおよその内容はわかりました。この三段階は、おそらくヘーゲル『大論理学』の三部とも次のように対応するのだろうと推測します。

「存在論」は概念的実在論に対応し、

「本質論」は客観的観念論に対応し、

「概念論」は概念的観念論に対応する。

この理解の根拠は、次の個所です。

「『大論理学』で「本質論理学」(これは論理学の第二部)は、何処であれ、存在と仮象の間の区別、実在性と現われの区別があるところで、適用される。(第三の最後の段階「概念論理学」は、人が存在と仮象の区別の発展的連鎖(これは私たちの解明が向かっているところである)を見る時に、適用される。)」ST424

さらに、この三段階は、Between Saying and Doing (BSD)の内容と次のように関係するだろうと推測します。

「概念的実在論」に対応するのが、BSD第2章(或いは第2,4章)

「客観的観念論」に対応するのが、BSD第4章(或いは第2,4章)

「概念的観念論」に対応するのが、BSD第6章

さらに、ブランダムは、「概念的実在論」を完全に理解するには「概念的観念論」まで進まなけれならないと考えているだろうと推測します。

以上の推測を踏まえて、次回から「概念的実在論」と問答(ないし問答推論)の関係をBSDを参照しながら考察したいと思います。

85 <事実の概念構造の客観性>と相互的意味依存  (20230225)

[カテゴリー:問答の観点からの認識]

事実の概念構造が、客観性を持つとは、「もしそれを認識する人がいなくても、事実の概念構造が存在している」という反事実的条件法が成り立つことだとしましょう。この反事実的条件法は、客観的世界についての語りとして成立します。

前に(第83回で)「「二様相的質料形相的概念実在論」について説明したように、ブランダムによれば、概念的内容は、二つの形式(客観的形式と主観的形式)をとります。

「主観的形式は、義務論的規範的語彙によって明示化され、客観的形式は真理論的様相的語彙によって明示化されます」(ST80)

この二つの形式ないし語彙が相互的意味依存の関係にあるのと主張するのが、客観的観念論」であることも第83回にのべました。ブランダムは、他の個所で、それらの語彙の具体例を次のように上げています。

「客観的世界の存在論的構造を分節化する諸概念:対象、性質、事実、および法則」(ST671)

「客観的世界について語り考えるプロセスと実践を分節化する諸概念:指示する、記述する、判断するないし主張する、推論する、単称名辞、述語、平叙文、仮定法条件文」(ST671)

つまり、事実の概念構造が客観性を持つことは、「もしそれを認識する人がいなくても、事実の概念構造が存在している」という反事実的条件法によって主張されるのですが、その反事実的条件法は、概念的内容の主観的形式に属するものであり、これは「存在の領域」ではなく、「思想の領域」に属します。事実の概念構造の客観性は、概念内容の主観的形式に「意味依存」しているのです。

「意味依存」は、「指示依存」と対比的に説明されます。それらは次のように定義されています。

・「意味依存」の定義

「XがYに意味依存するとは、Xの概念を把握する事が、Yの概念の把握なしには、不可能である」(ST 206)

ブランダムの挙げている例では、概念sunburn (日焼け)は 概念sun(お日様)と burn(焼ける)に意味依存する。これは一方的な意味依存の例。また、概念「親」は、概念「子供」に意味依存する。これは相互的意味依存の例。

・「指示依存」の定義

「XがYに指示依存するのは、次の場合のみである。<X(概念Xの指示対象)が、Y(概念Yの指示対象)が存在するまでは、存在しえない>場合である。」(ST 206)

ブランダムの挙げている例では、オラリー夫人の牛がランタンを蹴ることによって1871年のシカゴ大火災が起こったが、1871年のシカゴ大火災は、オラリー夫人の牛がランタンを蹴ることに「指示依存」する。これは一方的指示依存の例。

つまり、仮定法条件文の概念の把握なしには、事実の概念構造の客観性の概念の把握は不可能なのです。ただし、事実の概念構造の客観性の概念を把握するものがいなくても、事実の概念構造の客観性が成立することは可能です。なぜなら、事実の概念構造は、仮定法条件文の概念に指示依存しないからです。

この議論と問答の関係を論じたいのですが、その前に、この議論が、ヘーゲル観念論の第三段階である(とブランダムが言う)「概念的観念論」とどう関係するかを、次に見たいと思います。

84 概念的実在論と問答 (20230221)

[カテゴリー:問答の観点からの認識]

前回述べたように、「概念的実在論」とは、「客観的事実と性質が、それ自体、概念的形式の中にある」(ST3)、言い換えると、「実質的な両立不可能性と帰結の関係にある」(ST 54)という主張です。

客観的事実や性質について、例えば「これはXである」と言えば、「これはXではない」とは両立不可能ですし、「Xであること」と「Xでないこと」の区別が前提されているし、その区別ができることが前提されています。したがって、客観的事実や性質について何からの記述ができる限りで、<客観的事実や性質は、他の事実や性質に対して、両立不可能性や帰結の関係にある>と言えるでしょう。

問題は、客観的事実や性質についての両立不可能性や帰結の記述がどういう意味で<客観性>を持っているのか、ということです。

例えば「これはリンゴであり、これはナシではない」「これはリンゴであり、したがってこれは食べられる」などの記述がどのような客観性を持っているのかです。それを実際に食べてみて食べれることを確認し、その味がリンゴの味であってナシの味ではないことを確認することで、これらの記述の客観的正しさを確認することができます。

ではこれらの記述が、<客観的事実や性質>の記述であるとは、どういうことでしょうか。それは、「その事実や性質を確認する人がいなくても、つまりそのリンゴを見る人や、そのリンゴを食べる人がいなくても、それらの記述は成り立つだろう」ということです。別の例でいえば、「ニュートンが生まれなくても、また人類が生まれなくても、万有引力の法則は成立していただろう」ということです。このように、客観的事実については、様相概念(可能、必然、など)を用いて語る必要があります。

概念実在論は、客観的事実についての真理様相語彙をもちいた記述の正しさを主張することです。

(念のために言えば、「」は文や命題を表現し、<>は単なる強調を表現しています。)

 

 先ほど、「それを実際に食べてみて食べれることを確認し、その味がリンゴの味であってナシの味ではないことを確認することで、これらの記述の客観的正しさを確認することができます」と述べました。この確認作業において、私たちは次のような問答を行っていると思います。

「これはリンゴだろうか」「これはリンゴだ」。

 「これはナシだろうか」「これはナシではない」

 「これは食べられるだろうか」「これは食べられる」

このような問答なしに、この確認作業を行うということは不可能でしょう。

では、概念実在論において、疑問の語彙や疑問文の文型は、真理様相語彙と同様に必須なものでしょうか。また問答関係や問答推論の論理的関係は、どのように位置づけられるでしょうか。

 これを検討したいと思います。

83 概念的実在論、客観的観念論、概念的観念論  (20230216)

[カテゴリー:問答の観点からの認識]

今回はヘーゲル観念論の3つの段階を説明します。

ブランダムは、A Spirit of Trust (STと略記)で「概念的実在論」を、次のように説明しています。

#「概念的実在論」とは何か

・「客観的世界をつねにすでに概念形式の中にあるものとして理解すること」((ST 3)

・「自然科学が物理的実在として露わにする客観的事実と性質が、それ自体、概念的形式の中にある」(ST3)という主張。

・「世界がそれ自体で客観的に存在する仕方は、概念的に分節化されている、という主張」(ST3)

・「概念的実在論は、世界が客観的にあるあり方は、それ自体で、概念的に分節化されている、という主張である。」(ST54) 

ここで「概念形式の中にある」とは、「実質的な両立不可能性と帰結の関係にあること」(SoT 54)です。(<なぜ客観的世界がすでに概念形式の中にあるといえるのか>については後で考察したいと思います。)

#「二様相的質料形相的概念実在論」とは何か

ブランダムによれば、概念的内容は、二つの形式(客観的形式と主観的形式)をとります。

「主観的形式は、義務論的規範的語彙によって明示化され、客観的形式は真理論的様相的語彙によって明示化されます」(ST80)

このように二つの形式をとることを「質料形相的理解(hylomorphic conception):一つの内容と二つの形式」(ST80)であると言います。(ちなみに、概念内容の客観的形式が質料に対応し、主観的形式が形相に対応するというのではなく、同一の内容(質料)が、二つの形相(客観的形式と主観的形式)をとるということです。)そこでかれは「二様相的質料形相的概念的実在論」(bimodal hylomorphic conceptual realism)を主張します。

#客観的観念論とは何か

ブランダムは、概念内容の客観的形式と主観的形式が、相互的(対称的)意味依存の関係にあると主張します。そしてその主張を「客観的観念論」と呼びます。

「彼[ヘーゲル]は、主観的なものの客観的なものへの非対称的な指示依存の背後には、<概念の使用の主観的なプロセスを分節化する概念>と<客観的な概念的な関係を分節化する概念>の対称的な意味依存があると考えています。これが私[ブランダム]が「客観的観念論」と呼んだ教義です。」(ST 365)

(なぜ二つの形式が相互的に意味依存するのかについても、後で考察します。)

#概念的観念論とは何か

「概念的観念論」とは、「概念的実在論」による<二様相質料形相的概念的分節化>の主張と、「客観的観念論」による<客観的概念関係と主観的概念関係の相互的意味依存>の主張を、前提としたうえで、<客観的概念関係が主観的概念関係に依存する>と主張する立場です。

「<客観的概念的諸関係>と<主観的概念的実践とプロセス>の配置全体は、客観性の関係的諸範疇の用語で理解されるのか、それとも主観性の実践的-プロセス的諸カテゴリーの用語で理解されるのか?」(ST369)

という問いに、後者で答えるのが「概念的観念論」です。

「概念的観念論は、二様相の質料形相的概念的実在論と客観的観念論に基づいており、それを前提としています。それらは両方とも、概念的内容の主観的形式と客観的形式の間の対称的な関係を示しています。概念的観念論は、志向的結合の2つの極の間の対称関係のこれらの両方の種類に、この想起的活動の非対称的な優先性というアイデアを追加します。」ST373

(この「想起的活動の非対称的な優先性」がどのようなものであるかについては、後で考察します。)

82再びブランダムの「概念的実在論」について  (20230210)

[カテゴリー:問答の観点からの認識]

(3月にブランダムに関する研究会で発表する予定ですので、その準備を兼ねて、しばらくブランダムの概念実在論と問答推論の関係について考えたいと思います。)

このカテゴリーの第56回から65回までブランダムの「概念実在論」をめぐって考察しました。そこでは、ブランダムの推論主義を問答推論主義へと展開しようとするとき、ブランダムの概念実在論をどのように変更する必要があるのかを論じようとしましたが、ブランダムについての勉強不足もあって、十分に論じきれませんでした。現在でもまだ勉強不足なのですが、もう一度その問題を論じたいと思います。

まず、ブランダムの『信頼の精神』(A Spirit of Trust、ST)の大枠を確認したいと思います。この本は、ヘーゲルの『精神現象学』の「意味論的読解」(ST p.3)であり、それの「合理的再構成」(ST, p.1)を意図するものです。「意味論的読解」とは、「概念内容」を中心とピックと考える読解です。「合理的再構成」については次回に「概念的観念論」を説明するときに説明します。

ブランダムは、この本で、ヘーゲルの観念論が次の3つの段階(概念的実在論、客観的観念論、概念的観念論)からなると考えます。この構造が、意味論的読解の大枠です。

次にこの3段階を説明します。

65 意識の起源は難問です  (20230201)

[カテゴリー:人はなぜ問うのか?]

意識の起源はやはり難問です。

現在、意識の発生について次のことを推測しています。

・意識することは、自分を意識することである

・最初の自分の意識は、他者に見られることによって生じる

意識の発生は、また次の事柄と結びついているだろうと推測します。

・行為と認識の相対的な分離(知覚のエナクティヴィズムは、知覚が行為と不可分に結合していることを主張します。それは<知覚は、行為の仕方である>と考えます。これを踏まえて言えば、ここでいう<行為と認識の分離>は、<行為と可能な行為の仕方との分離>です。)

・認識が変化しても世界は変化しないということ

・認識と世界の分離

・認識が間違う可能性があること

しかし、現在のところをこれ以上議論するには準備不足なので、最近の神経科学の仕事をもう少し勉強してからこのテーマに戻りたいとおもいます。 

この後は、3月にある研究会で、ロバート・ブランダムの「概念的実在論と問答推論」の検討を発表する予定ですので、その準備を兼ねて、カテゴリー[問答の観点からの認識]に移って、「概念的実在論」について考察したいと思います。

64 相互覚知の一歩前、意識の発生の一歩前  (20230127)

[カテゴリー:人はなぜ問うのか?]

「Aが、Bが川を見ていることを見る」は、多義的です。

その多義性は、「Bが川を見ている」の二義性に由来します。

ある意味では「Bが川を見ている」は、Bが視線を川に向けているという、Bの身体的行動を表現しています。他の意味では「Bが川を見ている」は、Bの心の働きを表現しています。この場合、見ている対象は、心的にイメージされている対象です(川=Bの心的イメージ、ではありません。川=Bが心的イメージで志向している対象、です)。

前者で理解するとき、<Aが、Bが川を見ていることを見ること>は、<AがBの身体行動を見ること>になります。

後者で理解するとき、<Aが、Bが川を見ていることを見ること>は、<AがBの心の働き(心的イメージで対象を志向しているこ)を見ること>になります。この場合のAによる<見ること>は、眼で対象を見ることではありません。なぜならBの心の働きは眼では見えないからです。

ここでのAによる<見ること>は、<Bが川をその心的イメージで志向していること>を心的にイメージして、それが事実であると推測することだろうと思います。このとき、A自身もまたその川の心的イメージを持ち、そのイメージされている川が存在すると推測することが必要です。なぜなら、さもなければ、Bが<川の心的イメージ>でその川について考えていることを理解できないからです。

ここでは少なくとも、Aが、<Bが心的イメージを持つという心的イメージ>をもつことが必要です。そして、他者が心的イメージを持っているとイメージするためには、そのまえに心的メージを理解していなければならないでしょう。つまり、自分自身で何かについての心的イメージを持ち、そのことに気づいていることが必要だろうと推測します。

以上を踏まえて次に、互いに見合うという場合について考えたいと思います。

#相互覚知の一歩前

AとBの目があい、互いに見合ったとします。これは、<AがBを見て、同時に、BがAを見る>ということでだけではありません。<Aが、BがAを見ていることを見て、同時に、Bが、AがBを見ていることを見る>ということです。

これは上の例で見たように多義的です。

<Aが、BがAを見ていることを見る>の部分である<BがAを見ている>の<見ている>は、二義的です。つまり視線を向けるという身体的行動の意味と、心の働きとしての見ること(つまり、Aの心的イメージをもち、それの対象であるAが存在すると想定すること)という意味を持ちます。

<Aが、BがAを見ていることを見て、同時に、Bが、AがBを見ていることを見る>に4回登場する「見る」をすべて、前者の身体的行動の意味に理解するとき、相互覚知は成立していません。4回登場する「見る」をすべて、後者の心の働きとして理解するとき、相互覚知が成立していると言えそうです。

この前者の相互に見合うことから、後者の相互覚知へどのようにしてジャンプするのでしょうか。

<自分が心的イメージを持っていることの意識は、他者に見られることによって生じるだろう>ということが私の推測です。サルトルは、他者に自分を見られるときに、羞恥を感じるといい、熊野純彦さんは、Aが自分の愚かな行為をBさんに見られて羞恥を感じるとき、Aは、Bが見たAさんの愚かな行為について羞恥を感じるのだと解釈しています(熊野純彦『サルトル』)。これにならって、人は、他者に見られることによって、自分の意識(自分が持っている心的イメージ)に気づくのだろうと、推測します。なぜなら、自分の身体が他者に見られているのと同様に、自分の心のイメージまた他者に見られている、と考えることが、人にとっては原初的なことだと推測するからです。

63 相互覚知の諸段階  (20230123)

[カテゴリー:人はなぜ問うのか?]

(発達心理学では、幼児と大人と対象からなる三項関係としての共同注意については多くの研究がありますが、対象を介しない幼児と大人の二項関係としての「相互覚知」についてはあまり研究されていないようです(私の乏しい知見の範囲内で)。あるいは、私は共同注意と相互覚知を区別しているますが、発達研究においては、相互覚知もまた共同注意の一種として扱われているのかもしれません。これについては、もうすこし調べてみる必要があります。)

幼児と大人の間の「相互覚知」がいつ始まり、どのように発達するのか、などについては私にはよくわかりませんが、つぎのような記述があります。

「乳児は誕生直後から、人が放つ感覚刺激に対して鋭敏に反応する。他者が顔を見合わせて語りかけようとするとき、乳児は視線を相手の顔に向け、全身に緊張感をみなぎらせる。一方、出産直後の母親もまた、我が子に対して高い関心と配慮を保持しつづける。乳児は自らが保有する人指向特性と、母親の間主観的な応答特性に支えられて、誕生直後から母親との交流を能動的に開始させる。やがて生後2か月になると、乳児の視線と母親の視線はより一層確実に出会うようになる。こうした母子の体面的交流は、見つめあいや目そらし、母子の交互の発声といった一定のリズム構造を組み込みながら、数カ月にわたって濃密に持続される。」(大藪泰『共同注意』川島書店、2004、p.1)

乳児が2か月ころに母親と見つめあうようになるというこの現象は、乳児の最初の相互覚知かもしれませんが、幼児とチンパンジーに見られるという身振りや表情の模倣の一種のようなきもします(これについて、もしわかる方がおられたら教えていただければありがたいです)。

さて、ここから本日の本論です。相互覚知には、つぎのような諸段階を区別できそうです。

(1) 互いの存在の相互覚知:互いに相手の存在に気付いていることを相互に気づいている

この相互覚知は、基本的なものであり、以下のすべての相互覚知に伴います。

(2) 互いの対称的関係の相互覚知:

例えば、互いの同類性の相互覚知:例えば、互いに人間として、互いの存在に気付いていることを相互に気づいている。

例えば、互いに同一の目的の実現を目指していることに、互いに気づいている。

例えば、同一の目的の実現が、両立不可能であるとき、互いにライバルであることに、互いに気づいている。

例えば、同一の目的の実現が、両立可能であるとき、互いに同士であることに、互いに気づいている。

例えば、互いに対称的な感情の相互覚知:例えば、愛し合っていること、憎みあっていること、などの相互覚知。

(3) 互いの非対称の関係の相互覚知:A

例えば、AとBが、AがBの親であり、BがAの子であることを、互いに理解していることを互いに気づいていること

#相互覚知と共有知についての仮説

これらの相互覚知は、非言語的な気づきです。もし共有知を言語的なものだとすると、共有知とは、言語化された相互覚知だといえるでしょう。私の推測ないし仮説は、意識の始まりは、非言語的な相互覚知であり、言語の始まりは問答ですが、その問答は共有知として成立すると考えます。

#意識の発生

Aが意識を持つとは、Aが対象Oを見ているとき、自分が対象Oを見ていることに気づくということだろう。これは自分の行動に気づくということではない。例えば、自分が歩いているときに、自分が歩いていることに気づいている、ということではない。自分が対象Oを見ていることに気づくということは、自分の心的な働きに気づくということである。では、自分の心的な働きに最初に気づくのは、どのような場合でしょうか。

クマが川を見ているとき、Aはそのことに気づくということがあります。これはまだ、Aはクマが川を見ていることを意識したということではありません。Aが、クマが川を見ていることを見ていることに気づいたとき、Aは、クマが川を見ていることを意識している、と言えるでしょう。

相手がクマではなく人間だとします。

Bが川を見ているとき、Aはそのことを見ているということがあります。これはまだ、Aは<Bが川を見ていること>を意識したということではありません。なぜなら、ここでは、AはBの行動を見ているだけだからです。Aが、<Bが川を見ていることをAが見ていること>に気づいたとき、Aは<Bが川を見ていること>を意識している、と言えるでしょう。なぜなら、ここでは、Aは<Bの行動を見ている>という心の働きを意識しているからです。

では、Aが、<Bが川を見ていることをAが見ていること>に気づく、ということは、どのようにして生じるのでしょうか。このことは、Bが川を見るのではなくAを見るときに生じやすくなるでしょう。

次回、この続きを考えます。