85いちろうさんの質問への回答(7) (20220420)

[カテゴリー:『問答の言語哲学』をめぐって]

いちろうさんの質問17は次です。

「質問17 p.234の同一律についての「Aは、Aですか?」「いいえ、Aは、Aではありません」の例は、冗長ではありませんか。

この例には「①Aは、②Aですか?」「いいえ、③Aは、④Aではありません」というように4つのAが出てきますが、問答により①と③、②と④の同一性は確保されても、①と②、③と④の同一性はどのように確保するのでしょうか。

「Aですか」「Aではありません」のような文を用いないと、原初的な同一律は確認できないように思えます。
(ブログ29に「p┣pは、pの意味を変えないのですが、それはpの意味を保存するからではなく、pの意味を作り出すからではないでしょうか。」とありましたが、「Aですか」の問いを受け入れ、「Aですか」の前提承認要求を受け入れるからこそ、そこで意味の作り出しがあり、「Aです」と答えられるのでは、ということだとも言えるかもしれません。)

または、「同一律に従っていますか。」「いいえ、従っていません」でもいいのかもしれませんが。」

p.234では、 「Aは、Aですか?」という問いに「いいえ、Aは、Aではありません」と答える時、この返答は、問答論的矛盾を引き起こすことを示そうとしました。いちろうさんの言うように、次のように表記すれば、より明解になるかもしれません。

  「①Aは、②Aですか?」「いいえ、③Aは、④Aではありません」

この場合、問答が成立するには、①と③の同一性が成立しなければなりません。(いちろうさんが言うように、②と④の同一性も確保されているのかもしれません。)これを明示すると「①Aは、③Aです」となります。つまり、「AはAです」が成り立っています。したがって、この問答関係が成立していることと、「いいえ、AはAではありません」という答えの命題内容は矛盾(問答論的矛盾)します。これがここで私が言いたかったことです。

 いちろうさんは、「問答により①と③、②と④の同一性は確保されても、①と②、③と④の同一性はどのように確保するのでしょうか」という疑念を持っておられるので、私が、「①Aは、③Aです」を「AはAです」として理解することにも疑念を持つるかもしれません。なぜなら、もしこの理解を認めれば、①と③、②と④、①と②、③と④の同一性を区別せず、すべて「AはAである」として理解することになるからです。

  しかし、もし①と③、②と④、①と②、③と④の同一性を区別することにすれば、「A」の発話トークンをすべて区別することになります(そうするとここに何度も書いてきた「①A」もまた区別しなければなりません)。しかし、同一律を「AはAである」で表現するとき、そこでは「A」のタイプのことを考えており、トークンのことを考えているのではないだろうとおもいます。したがって、私は、「①Aは、③Aです」を「AはAです」として理解することができるとおもいます。タイプとトークンの区別は重要なのですが、もしここでそれを持ち出そうとすると、最初の問い「AはAですか」の設定そのものを変更する必要がありそうです。

いちろうさんの質問18は次です。

「質問18 p.235以降で取り上げられていた「根拠を持って語る義務」、「嘘をつくことの禁止」が三木さんからの質問でも問題になっていましたが、これはつまり日常では問題にならないが、普遍的な主張である限りは、これらのルールが適用される、という理解でよいのでしょうか。

もしそうだとすると、主張を重視し、そこに、常に嘘をついてはいけない、というような普遍的なルールを持ち込む(問答)推論は、嘘も方便を容認するような日常の言葉遣いとは乖離しているということなのでしょうか。
直感的に、僕は日常的には理由の空間に住んではいないような気がするのですが、(問答)推論は、そのような日常を取り扱うものではない、ということなのでようか。(もう少し理想化された言語活動みたいなものを想定しているということでしょうか。)」

日常の会話の中で、これらの規範を無視して話すことがありうることは認めますが、人は、大抵は、自分の発話や相手の発話の根拠を問題にしているし、嘘をつくことは悪いこととされていると考えているのではないでしょうか。もしこれらの規範がないとしたら、会話することはほとんど無意味になると思います。互いに嘘をついてもよい嘘つきゲームをしてみたらわかりますが、それはちっとも面白くなくて、続ける気がなくなると思います。

いちろうさんのご質問は、「「根拠を持って語る義務」、「嘘をつくことの禁止」について、「これは、日常では問題にならないが、普遍的な主張である限りは、これらのルールが適用される、という理解でよいのでしょうか」ということだったのですが、前に(70回に)三木さんの質問に答えたときの一部を繰り返します。

(引用はじまり)「この三木さんの質問を次のように理解しました。「事実としては人間は根拠のない主張や嘘もおこなうし、それらをおこなうと認める発言もしているはずだ。」このような事例を「不純物」として「取り除ける前提はどこかに置かれていて、それによって事実と規範のギャップが埋められている」が、その「前提」とは何か、ということです。

もしこのような問題設定を受け入れるとすれば、次のように答えたいとおもいます。ここでいう「不純物」が、「人は嘘をついてもいい」のような発言であるとするとき、それを取り除ける前提とは、<その発話が相関質問に対する答えとして成立する>ということです。そして、この前提を認める時、「人は嘘をついてもいい」という返答は問答論的矛盾を引き起こすために取り除かれることになります。」(引用おわり)

「常に嘘をついてはいけない、というような普遍的なルールを持ち込む(問答)推論は、嘘も方便を容認するような日常の言葉遣いとは乖離しているということなのでしょうか」というご質問に対しては、次のように応えたいです。

「嘘も方便だ」と考えて、嘘を容認する場合があるとしても、その場合にも、「嘘をつくべからず」という規範を認めているのではないでしょうか。様々な事情・理由で、その規範の適用を制限しようとしているだけであって、「嘘をつくべからず」という規範は、その場合も生きている、妥当しているとおもいます。

規範を規範として見ているということと、規範に従がうということは、別のことであって、常に一致するとは限りません。

「直観的に、僕は日常的には理由の空間に住んで」いるような気がしますので、「理由の空間」の理解の仕方が違うのかもしれませんね。

以上で、いちろうさんからの沢山の質問に一応答えおわりました。どの質問も、私の説明不足や考え不足をついた難問で、答えを考えながら、沢山の発見がありました。ありがとうございました。

いちろうさんには、沢山の誤植のご指摘もいただきましたので、もし修正の機会に恵まれたならば、活かさせていただきたいと思います。ありがとうございました。

84いちろうさんの質問への回答(6) (20220419)

[カテゴリー:『問答の言語哲学』をめぐって]

いちろうさんの質問14は次です。

「質問14 p.196の13行目に「問答推論関係によって明示化できるだろう。」とありますが、p.196の7行目までの例が問答になっていないように思えます。例えば「私は学生に「水をもってきてください」と依頼してよいのだろうか。」という問いが冒頭にあるのを省略しているということでしょうか。

その場合、「私は学生に水を持ってきて(も)欲しい」は発語媒介行為の意図であると同時に、前提(誠実性)承認要求でもあるということになります。

それとも全く別のことを言っているのでしょうか。」

p.196では、発語内行為、前提承認要求、発語媒介行為が、つぎのような実践的三段論法になっていることを指摘しました。

  私は学生に水を持ってきてほしい」(発語媒介行為の意図)

  学生が短時間で水を持ってくることができる。(前提(真理性)承認要求)

  私が学生に水を持ってくるように依頼することは正当である。(前提(正当性)承認要求) 

∴私は学生に「水を持ってきてください」と依頼する。(発語内行為)

実践的推論も含めて、推論は、問いに対する答えを求める過程として成立する、つまり問答推論として成立します。従って、この場合も、問答推論の結論として依頼の発語内行為が行われることになります。

いちろうさんが指摘するように、ここでの「私は学生に水を持ってきてほしい」は、前提(誠実性)承認要求であるように見えます。これは、欲求を表現しする表現型発話であって、発語媒介行為の意図(事前意図を表明する発話)になっていません。そこで上の実践的推論をつぎのように変更したいと思います。

  私は学生に水をもって来させよう。(発語後媒介行為の意図)

  私は学生に水を持ってきてほしい。(前提(誠実性)承認要求)

  学生が短時間で水を持ってくることができる。(前提(真理性)承認要求)

  私が学生に水を持ってくるように依頼することは正当である。(前提(正当性)承認要求) 

∴私は学生に「水を持ってきてください」と依頼する。(発語内行為)

ここで、省略されている問いを明示すべきでした。この場合に省略されているのは、次のような問いだと思われます。

  「私は学生に水をもって来させるために、どうしたらよいだろうか?」

これにたいする答えが、この実践的推論の結論、

  「私は学生に「水を持ってきてください」と依頼する」(発語内行為)

になります。

しかし、以上の説明には、問題点が残っています。「私は学生に「水を持ってきてください」と依頼する」という結論は、正確に言えば、発語内行為そのものではなく、発語内行為の意図(事前意図)を表明するものだとということです。一般的に、実践的推論の結論は、行為そのものではなく行為の事前意図を記述するものになります(このことは、p.9, 80で触れました。)。

以上をまとめて上記の実践的推理を、実践的問答推理として書き直せば次のようになります。

  私は学生に水をもって来させよう。(発語後媒介行為の意図)

  私は学生に水をもって来させるために、どうしたらよいだろうか?(実践的な問い)

  私は学生に水を持ってきてほしい。(前提(誠実性)承認要求)

  学生が短時間で水を持ってくることができる。(前提(真理性)承認要求)

  私が学生に水を持ってくるように依頼することは正当である。(前提(正当性)承認要求) 

∴私は学生に「水を持ってきてください」と依頼しよう。(発語内行為の事前意図)

いちろうさんの質問15は次です。

「質問15 p.208で「ここでは静かにしてください」は矛盾だという例が示されています。私はこれに同意できるのですが、そこには、そもそも、静かにしていなければならない状況で大きな声を出すことは、それがたとえ矛盾を含まない内容であっても、誤り?不適当?だという考えがあると思います。(例えば、赤ちゃんをちょうど寝かしつけたときに、「1+1=2だ!」と叫ぶなど。)そのような議論というのは既に哲学業界?のなかでは常識的なことなのでしょうか。もし新たな話だとしたら、この(語用論的誤り?の)発見自体が価値のあることなのではないでしょうか。

そして、語用論的矛盾は、この語用論的誤り?に付随するものだということになるのではないでしょうか。
(学校の朝の朝礼で、校長先生が「静かにしなさい」と大声で言うことは、特に、赤ちゃんを起こしてしまうというような問題も引き起こさないので、特に誤りではない、ということになります。)」

「ここでは静かにしてください」と大きな声で言うことが語用論的矛盾なのは、「ここでは静かにしてください」という命題内容と、大きな声で言うという発話行為(音声行為 cf.162f.)が矛盾するからです。

ご提案の「静かにしていなければならない状況で大きな声を出すこと」は、私が分類した二つのタイプの語用論的矛盾

   (A)発話行為とその命題内容の間の矛盾

   (B)発語内行為とその命題内容の間の矛盾

これらのどちらにも属しません。したがって、この分類が正しければ、ご提案の発話は語用論的矛盾ではありません。

ただし、次の第三のタイプの語用論的矛盾を設定できるかもしれません。

  (C)前提承認要求とその命題内容の間の矛盾

もしこの(C)のタイプの語用論的矛盾が認められるとしたら、かつ、いちろうさんのご提案の発話がこの(C)に属するとすれば、それは語用論的矛盾になるとおもいます。

(実は、(A)と(B)を考えたときに、従来の言語行為の再分類をおこなって「前提承認要求」を追加するということを考えていませんでしたので、この(C)のタイプの可能性の検討をしていなかったのです。これは、今後の課題としたいと思います。したがって、一郎さんのご提案の検討も課題とさせてください。発話の語用論的矛盾は、発話を社会的行為として論じる時に、重要なトピックになると思っています。)

いちろうさんの質問16は次です。

「質問16 p.224の「#問いの語用論的前提」が唐突に感じました。特に「答えを知らないこと」と「相手が答えを知っているかもしれないと考えていること」は必須なのでしょうか。

例えば、

A「高校の時の同級生のCくん覚えてる(よね)?」

B「うん」

A「Aくんが結婚したんだよ。」のように、BがCくんのことを覚えているという答えは知りつつ、話を進めるために問いを使うような場面もあるように思います。(他にも、試験の質問なども、答えを知っている問いになると思います。)

また、「我社は海外に進出すべきだろうか。」のように相手が答えを知らないことを知りつつ、一緒に答えを考えよう、という意図で質問をする場合もあるように思います。」

p.224に書いたように、問いの語用論的前提とは、問いという発語内行為が成立するための必要条件であり、問いの誠実性と正当性から成るだろうと思われます。ご質問の「答えを知らないこと」と「相手が答えを知っているかもしれないと考えていること」は、「誠実性」という問いの語用論的条件に関わります。

・答えを知っていても問うことがあるという場合に、試験での問いは、よく例に上がるものです。教師は、正しい答えを知ろうとしているのではなく、生徒が正しい答えを知っているかどうかを知ろうとしており、生徒もまたそのことを理解しています。したがって、それは通常の問いとは異なる別種のものだと考えます。

・「BがCくんのことを覚えているという答えは知りつつ、話を進めるために問いを使うような場面」、たしかにこのようなケースはよくあることと思いますし、通常の問いと明確に区別できるものでもないと思います。この場合には、A君がB君に「高校の時の同級生のCくん覚えてる(よね)?」と尋ねる時には、B君は、A君が「わたし(B)はCくんを覚えている」ということを確認したいのだと考えて、答えるでしょう。B君は、Cくんのことを覚えていることをAとBの会話の共通前提として設定するために問うのだとすると、そこに不誠実なところはありません。

いちろうさんの疑念を祓うためには、「答えを知らないこと」ではなく「答えを確実には知らないこと」としたらよいかもしれません。

・「「我社は海外に進出すべきだろうか。」のように相手が答えを知らないことを知りつつ、一緒に答えを考えよう、という意図で質問をする場合」について。たしかにここでは「相手が答えを知っているかもしれないと考えていること」という条件が成り立っていなくても、問いは誠実であるように思われます。このようなケースを含めるには、「相手が答えを知っているかもしれないと考えていること」を「相手が答えを知っているかもしれないと考えていること、あるいは、相手との話し合いで答えを知ることができるかもしれないと考えていること」と修正した方がよいかもしれません。

83いちろうさんの質問への回答(5) (20220418)

[カテゴリー:『問答の言語哲学』をめぐって]

いちろうさんの質問13は次です。

「質問13 p.191下から5行目以降は、真理値を持たない文には「実現可能性」だけが大事なように読めますが、例えば「現在のフランス王を連れてこい!」という文は、実現可能性以前に、指示表現の指示対象が存在しないという問題もあるように思えます。平叙文の場合の3つの必要条件に「加えて」実現可能性の問題もある、という理解でよいのでしょうか。」

「現在のフランス王を連れてこい」という命令の発話が、適切なものであるためには、実現可能性が必要です。

指示表現の指示対象が存在することもまた、実現可能性が成り立つための必要条件に含まれていると考えます。

ここでのご質問は、発話の<意味論的前提>に関するものです。私はここで、発話の意味論的前提とは、「発話が真か偽であるために、あるいは適切か不適切であるための必要条件」であると述べました。

そして、これを3つに分けました。

「第一は、指示表現の指示対象が存在すること」

「第二は、対象に述定される述語が適切なものであること」

「第三は、発話を構成する語が有意味であること」

発話が真か偽であるとは、真理値を持つということです。命令や約束のように発話が真理値を持たない場合には、発話は適切であったり不適切であったりする(広い意味での「適切性」をもつ)と思われます。ただし、平叙文が真理値を持つとは限りません。例えば、「私は・・・と命令します」「私は…と約束します」などの平叙文は、真理値を持たず、適切性を持つからです。

82いちろうさんの質問への回答(4) (20220416)

[カテゴリー:『問答の言語哲学』をめぐって]

#いちろうさんの質問9は次です。

「質問9 p.117の「何」疑問への返答は、同一性文の場合と主語述語文の場合があるとのことですが、「それはリンゴです。」はなぜ、「それ=リンゴ」の同一性文では駄目なのでしょうか。(「リンゴはそれのことです。」と言えるような気がします。)もし、駄目なのだとしたら、p.122からの決定疑問の問答でも、「これはリンゴですか。」のような問いの場合は、答えは同一性文にはならないということでしょうか。その場合、「それはリンゴです。」は焦点を持たないということでしょうか。

また、補足疑問の答えが同一性文にはならず主語述語文になる場合が挙げられていましたが、その場合には、その主語述語文全体が焦点となるので、p.105の「一つの発話は一つの焦点しか持ちえない」の例外になるということでしょうか。」

質問の前半について

「それはリンゴです」は、主語述語文であって、同一性文ではありません。なぜなら「それ」は個体を指示するのですが、「リンゴ」は一般名であり、対象の集合を指示ないし表示するからです。

「それはリンゴです」は主語述語文ですが、主語述語文であっても、「それ」あるいは「リンゴ」の部分に焦点を持つことができます。

質問の後半について、

補足疑問への答えが主語述語文になるのは、例えば次のような場合です。

   「それは何色ですか」「それは赤色です」

この答えは、主語述語文ですが、主語述語文もその部分、「それ」や「赤色」の部分に焦点を持つことができます。

#いちろうさんの質問10は次です。

「質問10 p.130で主たる焦点、第二の焦点とありますが、p.105の「一つの発話は一つの焦点しか持ちえない」との関係はどうなるのでしょうか。なんとなく、補足疑問の主たる焦点は疑問詞にあるというのが怪しいような気がするのですが。もしそうだとすると、「図書館では静かにしなさい!」という発話の焦点は、「!」にあることになってしまう気がします。(日本語では、前後の文脈で命令であることが明確ならば!は使わないことも多いので、そうすると、表記上のテクニックで、焦点が変わることになってしまいます。)」

私は、現実におこなわれた一つの発話の焦点は、一つになると考えています。その理由は、現実の発話は相関質問への答えとして発話され、相関質問が補足疑問ならば、答えの焦点はその疑問詞のところに代入される表現におかれるからです。したがって、p.130での例のように、主たる焦点と第二の焦点を想定できる場合でも、主たる焦点は一カ所だけになると考えます。そして、第二の焦点もまた一カ所だけになると考えています。なぜなら、主たる焦点の部分を除いた残りの部分を文とみなす場合に、それもまたある相関質問に対する返答として成立すると考えるからです。

補足疑問の焦点が、疑問詞の部分にあるので、返答の発話の焦点も、その疑問詞に代入される表現におかれることになります。補足疑問の焦点位置とその返答の焦点位置は、同じところにおかれることになります。決定疑問の場合に、たとえは「これはリンゴですか」は「これ」に焦点がある場合と、「リンゴ」に焦点がある場合があります。そして答えの「はい、それはリンゴです」は、前者への返答ならば「それ」に焦点があり、後者への返答ならば「リンゴ」に焦点があります。つまり、次のように決定疑問の場合にも、質問の焦点位置と返答の焦点位置は、同じところになります。

  「これはリンゴですか」「はい、それはリンゴです」(下線部は焦点位置を表します)

  「これはリンゴですか」「はい、それはリンゴです」

#いちろうさんの質問11は次です。

「質問11 p.141注記で、返答と並行するかたちで、質問についても格率が示されていますが、返答の場合は常に質問があるけれど、質問の場合は常により上位の質問があるとは言えないのではないでしょうか。(質問の前提には、より上位の質問があるとしても)もし常には質問に上位の質問がないのだとすると、グライスの格率は適用できない場合もある、ということになってしまうのでしょうか。」

質問するときには、何かの目的があるはずです。ある目的を持っているということは、ある問いを立てているということでもあります。したがって、質問するときには、(無自覚に、暗黙的に、であるかもしれませんが)何かのより上位の問いをもっていると考えます。

グライスの格率は、破ることも可能であるような規範であり、自然法則のように、常に成立しているものではありません。それゆえに、格率を意図的に破っていることを伝えることによって、何かを会話の含みとして伝えることも可能になります。このことは質問発話の場合も同様だろうと思います。たとえば、それまでに会話の内容と無関係な質問をすることによって、「話題を変えたい」ということを伝えることができます。

もし上位の質問がない場合があれば、その時には私がp.140の脚注30で述べた、質問発話の格率は、有効ではなくなるかもしれませんが、その場合にも、より一般的なグライスの格率は規範として妥当するだろうと思います。

#いちろうさんの質問12は次です。

「質問12 p.153の例がしっくりこないのですが、旧情報の「ベンツは高級車だ」が、新情報「メアリーはベンツを運転している」よりもあとの発話になるのはなぜでしょうか。

第一章のQ,Γ├pの前提Γを用いるならば、

前提Γ「ベンツは高級車だ」(旧情報)「お金持ちは高級車に乗る」

Q2「メアリーは、お金持ちだろうか?」

Q1「メアリーはベンツを運転しているだろうか?」

A1「メアリーはベンツを運転している」(新情報)

Q2「メアリーは、お金持ちだ」

では駄目なのでしょうか。」

ここでは、関連性理論が、会話の含み(推意)をどう説明するのかを説明しています。

聞き手が、「メアリーはベンツを運転している」という発話を聞いたときに、その会話の含み(推意)として伝えようとしていることは「メアリーはお金持ちだ」だと理解するとします。その場合に、聞き手はその含み(推意)にどのようのようにしてたどり着いたのか、ということを説明しようとしています。聞き手は、「ベンツは高級車だ」という旧情報を想起して、これと新情報を合わせることによって「メアリーはお金持ちだ」という文脈含意を得ることができ、話し手がこれを「推意」として伝えようとしているということを理解することになります。そのために、この順番になります。

なお、ここでは、このような関連性理論による説明では、複数の「推意」が可能であるので、二重問答関係で説明する方がより優れていることを示しました。

81いちろうさんの質問への回答(3) (20220415)

[カテゴリー:『問答の言語哲学』をめぐって]

#いちろうさんの質問8は次です。

「質問8 聞き手のコミットメントについてですが、p.89の下から4行目あたりでは、聞き手は、話し手の選択のコミットを理解しても、聞き手がコミットするとは限らないとあります。一方で、p.90の上から3行目あたりでは、聞き手が理解するためには指示へのコミットが必要な場合があるとあります。この、話し手の選択のコミットと、聞き手の指示へのコミットは別のことなのでしょうか。

僕は、たくさん車が並んでいる駐車場で、「君(聞き手)の車はあの車だよね。」と、(一台しかない)赤い車を指差す場面を想像しました。ただし、実は聞き手の車は青い車なので、話し手の選択は間違いだったという場面です。この場合、聞き手は、話し手の選択のコミットは理解した上で、聞き手自身は、その選択にコミットしていないことになります。(よってp.89の話とは合う。)

また、指示=選択とするなら、聞き手は、話し手の指示のコミットは理解しているが、聞き手自身は指示自体にはコミットしていないことになります。(よってp.90の話とは合わない。)

どのあたりで理解が間違えているのでしょうか。

(また、p.90の上から3行目あたりの記載は、p.90の11行目からの記載とも齟齬があるように思えます。11行目では理解→コミットという順序だとしているのに、3行目あたりでは、コミット→理解という順序の場合があるとしているので。)」

ご指摘のように一見すると矛盾しているように見える記述があるので、確かにこの個所はわかりにくいかもしれません。矛盾しているように見えるとしたら、説明不足のせいだとおもいます。

p.89の下から4行目あたりで、聞き手は、話し手の選択のコミットを理解しても、聞き手がコミットするとは限らないと書いたのは、次のような意味です。言語表現(語、語句、文)は、多義的です。話し手が、ある言語表現を発話するときにはその中の一つの意味を選択して、その意味で使用することにコミットしています。聞き手は、話し手のその選択とコミットを理解する必要がありますが、しかし、聞き手自身がそのコミットメントを受け入れるとは限りません。たとえば、「あれは桜です」と話し手が言うのを聞いて、聞き手はそれを理解しても、それは桜ではなく梅だと考えるような場合です。

 他方で、この場合、話し手の「あれは桜です」を聞き手が理解するには、話し手が「あれ」である特定の対象を指示していることを理解するとともに、(聞き手がその発話を真であるとみなしたり、偽であると見なしたり、真か偽かを問おうとしたりするためには)、「あれ」で話し手が指示しているのと同じ対象を指示してみる必要があります(つまり、同じ対象を指示することコミットする必要があります)。そうしなければ、聞き手は、話し手の「あれは桜です」を理解できないからです。p.90の上から3行目あたりで、聞き手が文を理解するためには指示へのコミットが必要な場合があると書いたのはこのような意味です。ここでは、聞き手は、文を理解するために、その真理性にコミットする必要はないのですが、文を理解するために、その文に含まれている語や句の多くの意味の中の一つの意味の選択(コミットメント)や語や句による対象の指示へのコミットメントを行う必要があります。

 したがって、

「質問8 聞き手のコミットメントについてですが、p.89の下から4行目あたりでは、聞き手は、話し手の選択のコミットを理解しても、聞き手がコミットするとは限らないとあります。一方で、p.90の上から3行目あたりでは、聞き手が理解するためには指示へのコミットが必要な場合があるとあります。この、話し手の選択のコミットと、聞き手の指示へのコミットは別のことなのでしょうか。」

という最初のご質問には、「はい、別のことです」と答えたいと思います。

次の疑念について

「僕は、たくさん車が並んでいる駐車場で、「君(聞き手)の車はあの車だよね。」と、(一台しかない)赤い車を指差す場面を想像しました。ただし、実は聞き手の車は青い車なので、話し手の選択は間違いだったという場面です。この場合、聞き手は、話し手の選択のコミットは理解した上で、聞き手自身は、その選択にコミットしていないことになります。(よってp.89の話とは合う。)

また、指示=選択とするなら、聞き手は、話し手の指示のコミットは理解しているが、聞き手自身は指示自体にはコミットしていないことになります。(よってp.90の話とは合わない。)

どのあたりで理解が間違えているのでしょうか。」

この例では、聞き手は、「君(聞き手)の車はあの車だよね」という発話を理解しています。したがって、話し手が「あの車」でどの車を指示しているのかを理解しています。聞き手が、この発話を理解するとき、聞き手もまた「あの車」で話し手が指示しているのと同じ対象を指示することにコミットする必要があります。しかし、聞き手はこの発話が間違いだと考えるので、この発話の真理性にはコミットしません。語句による対象の指示にコミットすることと、発話の真理性にコミットすることを区別したら、良いのではないでしょうか。

ついで説明すれば、p.89の下から二行から書いたように、「言語表現の意味が全て理解できた後に、それに対するコミットメントが行われる、という二段階」にはなっていません。たとえば、「Xさんの車はどれですか」と問い「あの赤い車です」という返答があったとしましょう。質問者がそのあたりを見ても、赤い車はないのですが、朱色の車が一台見えるとします。そこで、質問者は、返答者は「あの赤い車」で、あの朱色の車を指示しているのだろうと理解します。返答者が「あの赤い車」によってある対象を指示していることを理解したり、返答者によるその指示にコミットするのは、質問者が「あの赤い車です」という返答が正しいということに暫定的にコミットしたあとで、その正しさを前提することによって、「あの赤い車」がどれを指示しているかを理解することが可能になっています。まず文の真理性に暫定的にコミットし、次に、それを前提として文の意味を理解しようとする(これは同時に、文が含む語句の複数の意味の中から適切な一つの意味を選択したり、語句の指示対象を理解しようとする、などを伴う)場合があります。問いに対する返答を理解しようとするときには、このような順序になることが多いでしょう。

意味の原子論への批判(全体論)に従うならば、<語の理解が句の理解に先行し、語や句の理解が文の理解に先行する、という>順番は常に成り立っているわけではないでしょう。また語や句のある使用方法へコミットメントが、文の内容へのコミットメント(是認)に常に先行しているといこともでないでしょう。

(ちなみに、私は、<コミットする>ということを、<選択すること>として理解しています。ある関数を選択することは、その関数にコミットすることです。ここでは<選択すること>を、<あることを意識的に意図的に選択し、その結果に責任をもつこと>ということを伴うこととして理解しています。)

最後に、次の疑念に答えたいと思います。

(また、p.90の上から3行目あたりの記載は、p.90の11行目からの記載とも齟齬があるように思えます。11行目では理解→コミットという順序だとしているのに、3行目あたりでは、コミット→理解という順序の場合があるとしているので。)」

p.90の11行目からの「語や句や文などの言語表現のそれぞれに関する理解とコミットメントの関係について言えば、聞き手がその表現の意味を理解したあとに、それに対するコミットメントが行われる」という部分が言わんとすることは、ある語(ないし句、ないし文)の理解とコミットメントの順序に関して言えば、理解が先行し、コミットメントが後続するということです(ただしコミットメントが後続しない場合もあります)。例えば、<ある語の理解とコミットメントの関係に限っていえば、聞き手によるその理解が先行し、聞き手によるコミットメントはその後で生じる>ということです。なぜなら、聞き手は、語の意味を理解する前に、その語の使用を聞き手が是認することは無いだろうとおもいます。ある文の理解とコミットメントの関係についても同様です。つまり、<文の場合、聞き手は確かに、文を理解する前に、それが真であるだろうということを暫定的に認めて、文の理解に進む場合があります。しかし、その場合に行われていることは、聞き手が、話し手の発話の意味を理解するまえに、話し手がその発話を真だと見なしているということを理解し、その発話が真であるとしたら、その文はどのような意味でなければならないかを、聞き手が推論する、ということです。この場合も、聞き手が、話し手の文の真理性にコミットするのは、文の意味を理解した後で、それを聞き手自身が是認できるかどうかを検討した後で、それを最終的に是認する場合です。>

以上のこの11行目以後の部分が、3行目あたりに述べたこと、つまり「聞き手が文を理解するには、文を構成する語句の意味を理解するだけでなく、それがある対象を指示することにコミットすることが必要な場合があるだろう」と齟齬があるようにみえるという疑念ですが。

3行目当たりの記述は次のような順序になっています。

  語句の理解→語句による指示へのコミットすること→文の理解

したがって、語句に限るならば、語句の<理解→コミット>という順序になっていますので、少し紛らわしいですが矛盾していないだろうと思います。

この質問8にお答えする中で、「2.1」での「関数」概念の説明が不十分であること、しかもその概念を残りの部分で十分に活用できていないことに気づきました。今後、機会を見つけて論じたいと思います。ありがとうございました。

80いちろうさんの質問への回答(2) (20220408)

[カテゴリー:『問答の言語哲学』をめぐって]

#いちろうさんの質問4は次です。

「質問4 p.68で「人物と時間と場所に関する専用の疑問詞がある」ことについて指摘し、家畜専用の疑問詞のようなものも想定し、疑問詞が社会的なものだということを示しましたが、そうすると、例えば、はい・いいえのような決定疑問についても、そのような問い方を知らない社会というものも想定できるので、決定疑問・補足疑問という区別すらも文化的なものだということになるのでしょうか。または、極端に言えば、全く疑問詞がない社会も想定できるということでしょうか。(平叙文しかなく、前後の文脈で疑問詞かどうかを見分けるような社会。)そうすると、問答というアイディアにとって、形式的に疑問文か平叙文かという差異は根源的なものではない、ということでしょうか。」

疑問詞をつかわないで補足疑問を行う方法というのは、面白いアイデアだとおもいます。疑問詞の部分を単に空所を示す( )にしてもよいかもしれませんが。しかし、この場合には「( )」をある種の疑問詞だと見為すべきかもしれません。あるいは、疑問詞を使わないで補足疑問のような問いをおこなう方法は他にも可能かもしれないとおもいます。

決定疑問についてはどうでしょうか。私たちは語尾を上げるなどして簡単に平叙文をもちいて決定疑問を行うことができます。英語なら、語順を変えることによって、日本語なら文末に「か」という助詞付け加えることによって、決定疑問文にすることができます。決定疑問を行う方法は、さまざまな言語で様々ですし、現にあるどの言語でのやり方とも異なる方法で、決定疑問文をつくるという規約を作ることは可能です。

ひょっとすると、補足疑問や決定疑問をもたない言語が可能かもしれませんが、私は、問答関係が、言語の成立、考える(問答推論)の成立にとって不可欠だと考えるので、その場合でも、異なった形式の問い方、あるいは問答の仕方が採用されているだろうと思います。たとえば、未来のAIは、私たちとは異なった形式の問い方で問答するかもしれません。しかし、そのAIとっても、問答は必要だろうと思います。

#いちろうさんの質問5は次です。

「質問5 p.22の「アンドリューは、幸福である。アンドリューは健康ですか。」は、「アンドリューは、幸福である。」が偽だとしても妥当な推論である、ということです。そうすると、「たいていの中国人は信用できない。Aさん(中国人)は信用できますか。」というヘイトスピーチも、「たいていの中国人は信用できない。」が偽だとしても妥当な推論になってしまうということでしょうか。

p.22の例で「アンドリューは、幸福である。」が偽だとしたら、アンドリューが幸福であることを受け入れていないので、(C1)「もしこの前提が真であれば、結論は健全である」の「もしこの前提が真であれば」を受け入れておらず、条件を満たしていないように思えます。前提承認要求を拒否しているとも言えると思います。」

ご質問の前半部分について。

   「アンドリューは、幸福である」┣「アンドリューは健康ですか」

この場合、前提が成り立つならば、結論の問いは健全(真なる答えを持つ)であるので、妥当な推論です。

   「たいていの中国人は信用できない」┣「Aさん(中国人)は信用できますか」

この場合も、前提が成り立つならば、結論の問いは健全(真なる答えを持つ)であるので、妥当な推論です。

前提の「たいていの中国人は信用できない」はヘイトスピーチですし、この結論の「Aさん(中国人)は信用できますか」という質問もヘイトスピーチにあたると思います。この前提は偽だと思いまうが、前提が偽であるとしても、この推論は妥当な推論だと思います。例えば、「p, r┣s」という推論がある場合、これはp、r、sの真理値については何も語っていません。「もしpとrが真ならば、必然的にsが真となる」という関係を語っているだけです。

ご質問の後半部分について、

   (C1)「もしこの前提が真であれば、結論は健全である」

この(CI)は条件文の形をしています。一般に条件文は、前件が偽の時には、つねに真となります。したがって、この場合、前提が偽ならば、(CI)は常に成り立ちます。

したがって、

   「アンドリューは、幸福である」┣「アンドリューは健康ですか」

という推論において、前提が偽だとしても、この推論は妥当です。

#いちろうさんの質問6は次です

質問6 問いの前提となる平叙文にも更に問いがあるとするならば、問答というのは無限に連鎖しているということなのでしょうか。(問い1の前提としての平叙文1は、その平叙文1に着目するならば何らかの問い0の答えであり、更にその問い0には前提としての平叙文0が含まれており、その平叙文0は、何らかの問い-1の答えであり、問い-1にも前提としての平叙文-1が含まれており・・・・となるので。)
もしそうだとすると、p.30の1行目で「Q1はQ3に対して認知的有用性を保つ必要がない」と言っているのは重要なことだと思います。事実としては問答は無限に連鎖するけれど、認知的有用性の観点から、問答の分析としては、(三重や四重までは不要で)二重問答関係までを分析すればいい、ということになるので。」


ご指摘、その通りです。「事実としては問答は無限に連鎖するけれど、認知的有用性の観点から、問答の分析としては、(三重や四重までは不要で)二重問答関係までを分析すればいい」

わたしもこのように考えています。

気になるのは、もし問答が無限に連鎖するとしたら、最初の問答はどのようにして生じるのか、ということかもしれません。もし最初の問答が、知覚報告を答えとする問答でならば、例えば、Q「あれは何だろう」┣ p「蛇だ」、という問答推論によって成立し、これは平叙文の前提を含まないので、無限の連鎖はそこで止まります。あるいは、もし最初の問答が、欲求の報告を答えとする問答で、「何をしようか」┣「食べ物を探そう」、という問答推論によって成立しするならば、これもまた平叙文の前提を含まないので、無限の連鎖はそこで止まります。(この問題をさらに詳細に説明しようとすると、人類や個人における言語の発成を説明する必要があるとおもうのですが、ご承知の通りの難問ですので、とりあえずここまでとします。)

#いちろうさんの質問7は次です。

「質問7 p.81で実践的知識は実践的下流(問答)推論を持つ、という話のなかで述べていることは、p.6のアリストテレスの実践的推論の説明に基づくならば、「何をしているのか」の下流(問答)推論に〈ピストルを撃つという行為〉が含まれているということでしょうか。

 P.77のブランダムは「知覚報告は言語参入であり、行為は言語退出であると考えた。」の問題提起のうち、知覚報告は言語参入ではないことを丁寧に説明していると思いますが、行為が言語退出なのかどうかを説明いただけていないように思えます。」

ご質問の前半部分についての回答。

「実践的知識」というのは英語でも日本語でも多義的です。一つには、how to の問いへの答えを指します。つまり、自転車の乗り方のような知識です。一般的にはこれがよく知られた「実践的知識」かもしれません。これは「自転車に乗るにはどうした良いのか」という実践的な問いに対する答えであり、「・・・すべきだ」「・・・したらよい」というような形式や「…しよう」という形式の発話になります。最初の二つの場合は、行為を指示する発話であり、真理値を持ちません。最後のものは、事前意図を表明する発話であり、これも真理値を持ちません。実践的推論の結論は、真理値を持たない発話になります。

他方で「実践的知識」には、別の用法、つまりアンスコムのいう「実践的知識」があります。私たちは、行為をしているときに、「何をしているの」と問われたら、観察によらずに即座に、例えば「コーヒーを淹れています」のように答えられるのですが、この場合の「私はコーヒーを淹れています」という知をアンスコムは実践的知識と呼びます。これは、その時に話し手が行っている行為の記述であり、真理値を持ちます。このような実践的知識は、実践的推論の結論にはなりません。

p81の「実践的知識」とは、このアンスコムの言う意味の「実践的知識」です。意図的行為の場合、「何をしているのですか」と問われた、観察に寄らずに即座に「ピストルを撃っています」のように答えられるのですが、そこでさらに「なぜ、そうするのですか」と問われたとわれたら、即座に「Bさんを殺すためです」などのように理由を答えることができます。この人は、「Bさんを殺すためにどうしようか」と問い、実践的問答推論によって、答え「Bさんにピストルを撃とう」(事前意図)を得たのです。ここで、この人は、実践的知識「Bさんをピストルで撃つ」の下流推論(「Bさんをピストルで撃つ」┣「Bさんは死ぬ」)を行っています。結論「Bさんは死ぬ」を答えとする相関質問で、この推論によって答えを見つけることになるような問いには、いろいろなものがあるだろうと思います。例えば「Bさんはどうなるだろうか」という問いであるかもしれません。どのようなものであるにせよ、この結論は記述ですので、相関質問は理論的な問いでなければなりません。

ご質問の後半部分についての回答。

ブランダムは、行為は言語退出であるという考えるのですが、私はそう考えません(そのことが十分に明示的になっていなかったのかもしれません)。私がそう考えない理由は、行為は実践的知識や行為内意図を、不可欠な構成要素としており、言語的に分節化されたものだと考えているからです(「長所4:問答推論と行為」(pp.80-83)でそれを説明しました。

79 いちろうさんの質問への回答(1)(20220406)

[カテゴリー:『問答の言語哲学』をめぐって]

いちろうさん から2022年3月15日に沢山の質問をいただきました。丁寧に読んでくださり、ありがとうございました。少しずつそれに答えてゆきたいと思います。

#質問1は次の通りです。

「質問1 世界哲学の日のイベントでの朱さんの指摘は興味深かったです。
僕は、朱さんの指摘とその後の入江さんのブログから次のようなことを考えました。このような理解でよいのでしょうか。


①ブランダムはどこまでも推論にこだわり、認識を推論の中に取り込むことで、世界の認識という認識論的な問題を無効化しようとしている。(実際にはブランダムに要素主義的な残滓があり、不徹底だとしても。)
②入江さんは、推論で全体論的な大方針を示し、そのうえで要素主義的なアプローチも認めるという両面作戦を展開しようとしている。だから真理条件意味論的に真偽(妥当性・非妥当性)を判断することも認め、世界の認識(世界と言語の対応関係)のようなものを直接的に取り込むことができている。(入江さんは、ブランダムよりも、要素主義的なことをもう少し確信的にやっている。)」


入江の回答:

①について。たしかにブランダムは、ローティの認識論批判を継承しようとしているのだとおもいます。最近のブランダムは、おそらく認識論に代わるものとして、「概念実在論」を考えているのだろうとおもいます(A Spirit of Trust(『信頼の精神』)2019)。彼は、「概念実在論」で、客観的事実とは何か、それをどう考えるべきかについて、説明しようとします。(『問答の言語哲学』やその他の私の書くものには確かに要素主義的な残滓があり、それを注意深く取り除いていきたいと思っているのですが、ブランダムにもそのような残滓があるかどうかは分かりません。)

②について。デイヴィドソンは、語による対象の指示と見えるものは、実際には、その語を含む文の発話によって行われているので、語が対象を指示するということはないと考えます(デイヴィドソンの論文「指示なき実在論」)。私は語による対象の指示と見えるものは、文の発話ではなく、問答によって行われると考えます(例えば「マダガスカルはどれですか」「あれです」のように)。このような仕方で、言語の意味に関する要素主義を批判できるだろうと考えています。

 他方で、従来の意味の全体論は(ブランダムも含めて)、語の意味は文の中で成立し、文の意味は他の文との推論関係として成立すると考えているのですが、私は次のように考えたいと思っています。語の意味は問答の中で成立し、文の意味(あるいは、命題の統一性)は、問答関係として成立します。この問答関係は、何かに問い合わせることによって成立します。知覚報告を答えとする問答の場合、知覚に問い合わせます。より複雑な報告、例えば交通事故の原因の報告を答えとする問答の場合、多くの情報(道面の状況、他の自動車の状況、その自動車の状況、運転者の精神状況、など)の報告文に問い合わせて、それらを前提とした推論の結論として、事故原因の報告文を得ることになります。自問自答において、問いへの答えとしてある文を理解するとき、その文を理解することと、その文を真とみなすことは同時に成立しています。これが、文の理解の原初的なあり方だろうと思います。

 

#いちろうさんからの質問2は次です。


「質問2 関連しますが、勝手な先読みかもしれませんが、入江さんは朱さんに対して、自分のアイディアは問答主義ではなく問答推論主義だ、と応じていられましたが、もし僕の理解が正しいとすれば問答主義でもいいような気がします。なぜなら入江さんはブランダムの規範的語用論と推論的意味論という二つのアイディアの間にも、相互依存性というか問答性のようなものを読み込んでいるように思えるからです。(入江さんがやっている全体論と要素主義の両面作戦とは、問答的な両面作戦でもあるということです。)もしそうだとしたら、問答というアイディアは推論というアイディアを大きく超えてしまっているような気がします。そのあたりは僕の誤読でしょうか。」

入江の回答:

大変好意的に捉えていただいてありがたいです。私は「問答推論主義」という用語について、推論は問いに対して答えるプロセスとして成立するという立場から、(ブランダムに限らず)推論主義が主張されている場合には、それを「問答推論主義」として捉えなおせると考えています。これに対して、「問答主義」という語の使い方については、まだ迷っています。

  「問答主義」という語を、問答推論主義をも含むものより広い意味で用いるようになるかもしれません。問答関係は多くの論点で重要な働きをしています。指示を可能にするのは問答です。命題の統一を可能にするのは問答です。発語内行為を可能にするのは問答です(この場合には、ブランダムが「命題主義」と呼んだものに対する対案として「問答主義」を使うことになりそうです)。推論に統一を与えるのは問答です。(これらは、『問答の言語哲学』で不十分ながら示したことです。次は次の本で示したいことです。)知識と呼びうるのは、問答です。真理は、問答関係の性質です。事実は問答関数です。

いちろうさんからの質問3は次です。

「質問3 ブランダムにも共通するのかもしれませんが、上流(問答)推論と下流(問答)推論の区別について、ちょっとイメージがわかないところがあります。上流推論は既に行われた推論なので、イメージがわくのですが、下流推論はこれから行う推論なので、その発話された時点では、下流推論は、まだ存在しない、行われていない推論ということのように思えます。推論の妥当性を判断するためには上流推論と下流推論の両方を参照する必要がある場合、その妥当性はいつ決定するのでしょうか。下流推論が実際に行われてからでしょうか。
なお、この疑問は、推論が問答推論に拡張されることで、より明確になるように思います。例えば次のような例では、発話Bの妥当性は、発話Aの適切な答えになっていること加え、発話CDという適切な問答を引き出しているという点にも依拠していると言えると思います。この場合、発話CDが終わるまでは、発話Bが妥当なものだったかどうかはわからない、ということになるのでしょうか。

(土曜の朝の夫婦の会話)

A妻 「明日はどこに行きますか。」

B夫 「明日は雨です。」

C妻 「明日、美術館は閉館日ですか。」

D夫 「明日は、美術館は開いているから、美術館に行きましょう。」

(以上は適切な場合だが、C「テレビの天気予報なんて見てないで、ちゃんと私の話を聞いて、明日のお出かけの計画を立ててよ。」という展開がありえ、この場合はBの発言は不適切なものになりうる。) 」

入江の回答:

ブランダムによれば、ある発話の意味を理解するとは、その発話の正しい上流推論と正しくない上流推論、正しい下流推論と正しくない下流推論を判別できる能力を持つということです。したがって、実際に行われた発話を理解するときに、その発話の現実に行われた上流推論とその後行われるであろう下流推論を理解することではないのです。現実に行われた推論またこれから行われるであろう下流推論も含めて、それら様々な可能な推論を正しいものと正しくないものに判別する能力がある、ということなのです。私が、発話の意味を上流と下流の問答推論関係で説明するときも、同様です。(これで疑問の解消になっているとよいのですが)。

ご質問後半のA、B、C、Dという会話の部分は、「会話の含み」の問題になり、それについては二重問答関係で説明出来ると考えています(参照、『問答の言語哲学』第二章「2.3会話の含み」)。

78 佐々木さんの質問への回答(8) 問答の観点からの「概念実在論」批判 (20220122)

[カテゴリー:『問答の言語哲学』をめぐって]

今回は「質問1、私は「概念実在論」を採用するのかどうか」に答えたいと思います。

前回示述べましたが、ハーバーマスが批判する「概念実在論」は次の主張1+主張2でした。ブランラムは主張1を「概念実在論」と呼び、主張3(あるいは主張1+主張3)を「客観的観念論」と呼びます。

主張1:存在するのは、物ではなく事実であり、事実は、概念的に構造化されています。事実は、他の様々な事実と、推論的関係(帰結と両立不可能性)にあります。

主張2:ある事実が暗黙的に持つ推論関係が無数にあります。そしてほとんどの推論関係は現実には語られていません。しかし語られていなくても、すべての事実は、他の事実との間に帰結や両立不可能性などの関係を持ち、それによって成立しています。

主張3:ある事実の他の諸事実との客観的推論的関係(帰結と両立不可能性)とある事実についての主張と他の諸事実との主観的推論関係(帰結と両立不可能性)は、相互に意味論的依存の関係にあります。したがって、事実は、事実についての主張から離れて成立するものではありません。

この主張3には次のような問題点があります。

問題点1:ブランダムの理解では、客観的推論的関係と主観的推論的関係はともに実質的推論的関係であり、訂正の可能性に開かれています。客観的推論的関係が修正されるとき、事実そのものが変化するのではなく、事実についての私たちの理解が変化するのではないでしょうか。もしそうならば、客観的推論的関係とみなされてきたものは、実は主観的推論的関係であるということになります。

問題点2:デイヴィドソンとローティは、異なる概念枠が存在することを認めません。ブランダムもおそらくそうでしょう。このとき、上のような問題が生じますが、これに加えて、次のような問題も生じます。論理学には、古典論理学、直観主義論理学、パラコンシステント論理学などあいます。様相論理学にも、古典的なものと直観主義的なものがあります。また様相論理の意味論としては、可能世界意味論のほかに、Belnapのbranching space and time theoryのようなものもあります。またこれら以外にも多くの論理学が可能だろうとおもいます。問題は、これらから一つを実質的な論理学として選択することは難しい、ということです。同様のことは、科学理論の場合にも生じます。競合する科学理論があるときに、どれを実質的な理論として選択することもできないということです。

これらの問題点は、直接実在論者にも生じる問題であるかもしれません。私は、これらの問題を、問答推論の観点から解決できるだろうと考えています。その説明は、簡単だろうと思っていたのですが、すこし込み入った議論になりそうです。これは次著として計画している『問答の理論哲学』の重要なトピックになりそうなので、別のカテゴリー「問答の観点からの認識」に移ってこの議論の続きを行いたいと思います。

しかし、ここで回答すべきご質問がまだ残っています。それらのご質問には、「概念実在論」への批判的考察が一段落した時点で、このカテゴリーに戻ってお答えしたいと思います。

備忘録として、他のご質問について記しておきます。

合評会の質疑の中では、嘉目道人さんから『問答の言語哲学』第4「問答論的超越論的論証」

で論じた規範の超越論証について次のような質問をいただきました。

「アーペルの討議倫理学では、討議の超越論的条件として規範を論証するのですが、アーベルがいう討議のための超越論的条件は、理想的なものとして考えられています。では、入江さんが論証する超越論的な規範は、アーペルが言うような理想的な統制的原理なのか、それともそれを満たしていないとそもそも問答が成り立たない構成原理なのでしょうか。」

三木那由他さんからの質問は次のようなものでした。

「ブランダムが反表象主義の立場から批判している「指示」や「表示」の使用を、入江さんはわりと無造作に使っているように思えるのですが、それはブランダムのアプローチをフルパッケージで受け入れるということと矛盾しないでしょうか。また「指示」と「表示」同じような仕方で説明するのでしょうか。」

朱喜哲さんからの質問は次のようなものでした。

「入江さんが、知覚報告を上流推論を持つと考えることは、ブランダムが採用しない、超推論主義をとることになるのではないでしょうか」

このご質問については、朱さんへの回答(55回)で回答しました。

77 佐々木さんの質問への回答(7) ハーバーマスの批判は成功したか (20220120)

[カテゴリー:『問答の言語哲学』をめぐって]

佐々木さん質問は、(71回で述べたように)次のようなものでした。

「ハーバーマスは、ブランダムの推論主義をとるとき「概念実在論」にいたると指摘し、その点を批判していました。入江さんが、ブランダムをフルパッケージで継承し、推論主義をとる時、「概念実在論」をとるのでしょうか。また入江さんはハーバーマスが「概念実在論」を批判することについては、どう考えるのでしょうか。」

これに答えるためにここまでは、ハーバーマスとブランダムの「概念実在論」の理解と論争を確認してきました。とりあえずの準備は出来たので、これに答えたいとおもいます。ご質問をさらに短くまとめると次の二つです。

  質問1、私は、「概念実在論」を採用するのかどうか。

  質問2、私は、ハーバーマスによる「概念実在論」への批判をどう考えるのか。

(質問1への答えを考えていたのですが、まだ時間がかかりそうなので)

まず質問2に答えたいと思います。

ハーバーマスの考えている「概念実在論」は、ブランダムの用語を使って、次のふたつの主張の組み合わせとして理解できると考えます。

主張1:存在するのは、物ではなく事実であり、事実は、概念的に構造化されています。事実は、他の様々な事実と、推論的関係(帰結と両立不可能性)にあります。

主張2:ある事実が暗黙的に持つ推論関係が無数にあります。そしてほとんどの推論関係は現実には語られていません。しかし語られていなくても、すべての事実は、他の事実との間に帰結や両立不可能性などの関係を持ち、それによって成立しています。

ブランダムは、主張1を認めるのですが、主張2を批判します。ブランダムは主張2を次の主張3に取り換えると思います。

主張3:ある事実の他の諸事実との客観的推論的関係(帰結と両立不可能性)とある事実についての主張と他の諸事実との主観的推論関係(帰結と両立不可能性)は、相互に意味論的依存の関係にあります。したがって、事実は、事実についての主張から離れて成立するものではありません。(ブランダムは、主張3を(あるいは主張1+主張3を)「客観的観念論」と呼びます。)

ハーバーマスによる主張2への批判は、正しいと思います。しかし、ブランダムは主張2を採用していないのだから、それはブランダムへの批判にはなりません。

ハーバーマスのブランダムに対する第二の懸念、I-youコミュニケーションへの軽視については、ブランダムも認めています。しかし、I-youコミュニケーションを重要ではないと考えているわけでありません。彼がそれを今後考察する可能性はあるとおもいます。ここでは、「主張」を基礎的な言語行為とみなすことに対する批判も述べられていましたが、ブランダムはそれに直接には応答していなかったように思えます。ブランダムのいう「主張」は大変広い概念ですが、キーポイントはそれが「理由を与え求めるゲーム」を始める行為であるという点だと思います。それゆえに、遂行的は発話(命令、依頼、約束、表現、宣言)などもまたこの「主張」に含まれると思います。この「主張」は、記述であるとか真理値を持つとかによって、他の言語行為から区別されるようなものではありません。オースティンやサールがいう「主張」ではありません。したがって、遂行的発話の重要性を軽視しているという批判は当たらないとおもます。

第三の懸念、認識判断の規範性と道徳判断の規範性を同質化するという批判については、ブランダムは、判断の規範性一般の考察を、道徳を考える上でも必要になる基礎的な考察として行っていると答えていました。認識の規範性と規範(道徳的規範に限らない規範)の規範性が異質なものではないかというハーバーマスの批判に対して、ブランダムのこの応答は十分であるとは思えません。二つの規範性が異質であるか、同質であるかについて答える前に、それらの規範性についての分析を進める必要があるという応答ならば、私はそれに賛成します。

以上のように考える時、ハーバーマスのブランダムへの批判(懸念)は、成功しているとは言えません。しかし、ブランダムの立場を明示するうえでは、大いに役立ったとおもいます。

次に質問1に答えたいと思います。

76 佐々木さんの質問への回答(6) ブランダムのハーバーマスへの応答(3)規範的事実について (20220117)

[カテゴリー:『問答の言語哲学』をめぐって]

ハーバーマスの懸念3は、規範的事実の観念をめぐるものでした。ブランダムは事実の記述にも規範性を認めるので、事実と規範の区別がなくなり、そこから道徳実在論が帰結するという懸念でした。この懸念は、事実と規範の区別がなくなることへの批判と、そこから道徳実在論が帰結することへの批判の二つに分けられます。

ブランダムは第一の批判にIIIで答え、第二の批判にIVで答えています。

まずIIIでの応答を紹介したいと思います。

ブランダムは、ハーバーマスが重視する<事実と規範の区別>が重要であることを認めたうえで、この区別を、<非規範的事実と規範的事実の区別>として捉えます。その理由は、ブランダムが事実でないものは存在しない、と考えるからであろうと推測します。なぜなら、彼にとって事実とは概念的に構造化されたものであり、存在するものは概念的なものだけであり、非概念的なものは存在しないので、事実でないものも存在しないと考えるからであろうと思います。

 この非規範的事実と規範的事実の区別は、語彙の区別によって可能になるとされます。「規範的語彙」とは、「コミットメント」や「資格付与」のような語彙であり、実践的推論を可能にするものです。このような語彙は非規範的事実について推論するときには不要なものです。

ここでブランダムは、「規範的事実」を語ることについてのハーバーマスの懸念を次のように説明します。

「ハーバーマスの懸念のいくつかは、<規範的事実についての語りが、例えばコミットメントを引受けるということによって、私たちがそのような事実[規範的事実]をつくりだすことができることを認めることを妨げる>という印象から生じるように見える。あたかも、すべての規範的事実は、私たちの実践的活動性から独立して、すでにそこにあり、多くの非規範的事実と同様に、私たちの認知的認可だけを待っている、に違いないかのようである。」(365)

ブランダムは、確かに「判断と信念は、行為への意図と同じく、規範によって導かれる」のだが、しかし「行為に対する記述的関係と指令的関係の違いは、明白である」と言う。また「実践的コミットメントは、信念的コミットメントから簡単に区別できる」と言う。「というのも、両者は推理において大変異なる役割を持つからである。特に実践的推理においてかなり異なる役割をするからである。(実践的推理においては、実践的コミットメントは、前提および結論として役立ち、信念的コミットメントは、前提にだけ役立つ。)」(366)

つまり、非規範的事実を主張することは、信念的コミットメントを引受けることであり、規範的事実を主張することは、実践的コミットメントを引受けることです。この二つのコミットメントは非常に異なります。前者は信じることへのコミットメントであり、後者は行為することへのコミットメントです。この二つの違いは、上に述べたように推論における役割の違いによって明示化されます。それゆえに、「規範的事実」について語っても、規範を実在論的に捉えることにはならないというのです。

 ここでのブランダムの応答の論旨は、複雑で私には、また不明なところがあります。

 ここでブランダムは規範的事実と非規範的事実を区別して、私たちは、非規範的事実については、それを発見するが、規範的事実については、それを発見するのではなく、作りあげる(produce)すると言っているように思われます。

 しかし他方では、ここでブランダムは、事実と事実の主張の間の依存関係を分析しようとしていて、それによって、(規範的事実だけでなく、非規範的実も含めて)事実が、主張から離れて存在すると考えることを、見直そうとしているように見えます。その議論は、後のTMDやSoTにおける議論<客観的推論的関係(客観的両立不可能性)と主観的推論的関係(主観的両立不可能性)の、相互的意味論的依存関係の主張>につながっていくものだと思われます。

 複数の議論の筋道が絡まっているように思われるのです。

(ここでは、事実と主張の間の「明示化的非対称性」の説明がなされており、「事実」の理解と「事実の主張」の理解の間の関係(後のFDMやSoTで名付けられる「相互的な意味論的依存」)の分析が行われています。この点に関する議論が面白いので、ここに備忘録として記しておきます。

「<概念Aが概念Bへの関係をはなれては理解できないがゆえに、Aは、Bが存在することなしには、存在しえない>と考えることは間違いである。」36

ブランダムは、これを仮想の「δ粒子」の比喩で説明します。

「δ粒子発生器の概念は、δ粒子の概念を離れては理解できない。しかし、その装置は、その粒子が存在する前から存在しているかもしれない。」369

同じように、「δ粒子検出器」の概念は、δ粒子の概念なしには理解できない。しかし、その装置は、δ粒子が存在しなくても存在している。

主張は、事実の検出器です。主張(事実検出器)の概念は、事実の概念なしにはないのですが、しかし、事実がなくても、主張(事実検出器)は存在します。つまり、<事実の主張は、事実に意味論的に依存する>ということになります。

 他方で、後の「相互的な意味論的依存」のために必要なのは、これとは逆の関係です。事実の明示化は、事実の主張によって行われます。したがって<事実は、事実の主張に意味論的に依存する>ということです。こちらの方はわかりやすいと思います。 }

#次にIVでの道徳実在論になるという批判への応答を説明します。

IIIでのべたように「規範的事実」を認めても、MIEは「非規範的事実」と「規範的事実」の区別を重視するので、「規範の実在論」にはなりません。したがって、また「道徳実在論」にもなりません。

「MIEでは、実践的コミットメントを信念的コミットメントと同化しないことが重要である。

特に、実践的コミットメントは、実践的な行為から独立である事実に対して、その正しさに関して責任を負うと見なされるべきではない。」370

MIEでは、「実践的コミットメント」について論じますが、「道徳的コミットメント」はその一部にすぎません。MIEでは、規範についても語りますが、そこで語られるのは「無条件的規範」(道徳的規範)だけでなく、「道具的な規範」「制度的な規範」などがあります。

「MIEは、このトピック(道徳的コミットメント)については公式には沈黙している。」(371)

それは、「規範性の理論家が道徳的規範にフォーカスするという事実によって、概念的規範性の理解が妨げられてきた」(371)考えるからであると言われています。

このように述べた後、ブランダムは、道徳についての二つの極、「自然種的懐疑論(natural kind skepticism)」(入江:道徳的概念を自然種名の一種とみなす立場なか、それとも自然種だけを認め道徳を認めない懐疑論なのか、よくわかりません)と超越論的表現的理解(カントやハーバーマス)の間に多くの立場がありうるが、MIEの仕事は、それらのための概念的源泉を提供することにあると述べています。

さて、以上でハーバーマスのブランダム論に対するブランダムからのReplyの紹介を終わります。

次に、「問答推論を重視するとき「概念実在論」についてどう考えることになるのか」に答えたいと思います。