鍋料理の魅力

 一昨日、仲間と忘年会をかねて鍋料理をしました。冬は鍋ですね。しかし、本当は冬だけでなく、夏こそ暑くて鍋はできませんが、一年中鍋をしたいところです。一昨日は、最近手に入れたダッチオーブンで鍋をしましたが、西部開拓時代には、ダッチオーブンを囲んで食事したはずで、彼らも鍋料理をしていたのです。それどころか、人類の最初の煮物はおそらく鍋料理だったはずです。たった一つの土器の鍋を囲んで食事をしたのではないでしょうか。人類の歴史においておそらく非常に永い間、鍋料理は料理の主流であったのです(勝手な推測です)。
 という次第で、鍋料理には懐かしさと親密な人間関係を生み出す力があるのです。

忘年会

 今日は職場の忘年会でした。Kさんによると、忘年会の意味は、今年のいやなことを忘れるというような意味ではなくて、年長者も年少者も年の差を忘れて一緒に楽しむ会、という意味だそうです。もしそうだとすると、これは年功序列規範の強い、儒教社会のものであることになります。あるいは、元は本当にこのような意味だったのかもしれませんが、しかしもしその意味がわすれられてきたのだとすると、我々の現在の社会は、長幼の序とか、年功序列というような規範が弱くなってきたということなのでしょう。

 さてさて、明日は仲間内の忘年会です。私は最近購入したダッチオーブンを持参するつもりです。

季節の儚さ

 今日は、お昼に起きました。するとまるで夕方のようにくらいのです。厚く雲がおおって、典型的な陰気な冬の天候です。しかし、自動車で仕事場に来るとき、体調もよかったせいかもしれませんが、こういう季節もいいなあ、とおもいました。落ち葉や、肌寒い曇天をいいと思うのは、年齢のせいかもしれません。桜や紅葉をめでるのと同じで、このような美的な判断の背後には、過ぎ去ってしまうという儚さの気分があるように思います。
 少し飛躍するかもしれませんが、西洋の美の背後には、永遠性があり、日本人の美観の背後には、儚さがあるように思います。(もちろん、西洋にもいろいろな審美観があり、日本にもいろいろな審美間があるでしょうが、・・・)日本人のこの審美観の背後には、悲しみを根本感情とみなす、仏教的な人生観があるのかもしれません。あるいは、もののあわれ、というような仏教以前の日本人の価値観があるのかもしれません。