別案の検討

       今日は東京出張でした。

15 別案の検討 (20120714)

前回、次のような「社会問題」の定義を提案しました。
「社会問題とは、クレイムを申し立てる人やグループ自身が社会によってのみ解決できるような問題として申し立てる問題である」

この定義は、
①社会学者が<社会がある機能を持ったシステムとして理解し、その機能に反する逆機能を持つ状態を、社会問題である>と理解するのでは、客観性を持ち得ないという欠点を回避しています。
②キツセとスペクターによる、「社会問題」とは「何らかの想定された状態についてを述べ、クレイムを申し立てる個人やグループの活動(claim-making activity)」であるという定義がもつ、広すぎるという欠点を回避しています。
③クレイムを申し立てる個人がグループの数によって、社会問題とそうでないものを区別ことはできない、という基準をクリアしています。

ここで念の為に別の案を検討しておきたいと思います。

別案1
「社会問題とは、クレイムを申し立てる人やグループ自身が、社会が原因となって生じた問題として申し立てる問題である」
別案2
「社会問題とは、クレイムを申し立てる人やグループ自身が、社会が解決すべき責任のある問題として申し立てる問題である」

別案1の欠点は、<社会が原因となって生じたのではないとしても、社会全体で取り組まなければ解決できない問題>が社会問題から除外されることにあります。なぜなら、それでは困る場合があるからです。例えば、大規模な自然災害の場合に、いかにして復興するかは社会で取り全体で取り組まなければ解決できない問題なのですが、これは社会問題に入れる必要のあるだと考えるからです(さらに理由を問われたら、なんと答えたらよいものでしょうか。)
別案1のもう一つの欠点は、それによると、社会問題が生じるためには、すでに社会が存在していることが前提される、ということです。このとき、社会そのものが社会問題の解決のために創られたと考えることができなくなります。

別案2の欠点1は、<社会に解決すべき責任がないのだが、社会全体で取り組まなければ解決できない問題>が社会問題から除外されることにあります。上に述べた大規模な自然災害の場合がこれに当たります。
別案2の欠点2は、別案1の欠点2と同じことです。

では、<社会全体で取り組まなくても解決できるが、しかし社会が原因となって生じた問題>は社会問題ではないといえるでしょうか。
微妙な美妙なケースでは「社会が原因となって生じた」ということの意味が問題になりそうですが、大抵の場合には<社会が原因になって生じた問題の解決については、社会全体の責任である>と言えそうです。その意味で、その問題の解決は社会がスべきことであるとおもいます。しかし、それは社会問題ではないと考えます。もし社会が解決すべき問題であるにもかかわらず社会が解決しようとしていないのならば、そのときに初めて、社会問題になると考えられます。

別案2の場合も同様です。<社会全体で取り組まなくても解決できるが、しかし社会が解決すべき責任のある問題>は、これ自体が社会問題なのではなくて、社会がこの問題を解決しようとしていない時に、社会問題になります。

このように考えるならば、別案1と2は不要であり、私達の提案1だけでよいことになります。

では、これで十分でしょうか。

社会問題とは何か

 
 
              7月の 水田の緑 美しき

              (前回の「ゆすらうめ」と「さくらんぼ」はどうも別のようです)
 

13 社会問題とは何か (20120702)

 
前回の図表が「問答としての社会」を考えるときの基本的な枠組みです。しばらくは、この基本枠組みの説明をします(それが終われば、つぎにこれを拡張したいとおもいます)。まず、もっとも基本的な概念である「社会問題」の説明をしましょう。
 
 社会問題とは何でしょうか。
 まず社会システム論者の理解を紹介します。
「社会問題」という概念が使われ始めたのは、それほど古いことではないだろうとおもいます。社会学での「社会問題」論として有名なものは、マートンの「社会問題と社会学理論」(1969)だろうと思います。そこで彼は、「社会問題とは、ひろい範囲の人々が共有している社会的標準と社会生活の現状との実質的な食い違い」(マートン、1969、p. 417)である。と定義しています。マートンは、このような「社会問題」を、さらに「社会解体」と「逸脱的行動」に区別します。「社会解体」とは、「相関連する地位や役割の社会体系における不適切ないし欠陥」(同書、四四二頁)のことであり、「逸脱的行動」とは、「それぞれの社会的地位にある人々のために設けられた規範からはずれている行為」(同書、446)のことです。この両方は、社会システムの中で、「逆機能」をもつものであるとされます。「社会的逆機能」とは「社会体系の特定の一部分の、その充足すべき要件に対する不適切さ」(同書、464)のことです。
 マートンは、社会システムのなかで逆機能を持つ「役割」「地位」「行為」を社会問題と呼ぶわけです。これによると、何が社会問題であるかは、社会学者が客観的に判断することになります。
 
 これに対して、異議を唱えたのが、社会構築主義です。彼らは次のように考えます。客観的な状態というものについての、専門家の同定が、価値判断とは独立に可能なものではない、とすれば、マートンの立場,つまりある状態が社会問題であるかどうかの判断に関して、メンバーの判断よりも、社会学者の判断を優位におく立場は、無効になります。社会構築主義者であるキツセ&スペクターは、「もしある状態がそれに関わる人々によって社会問題と定義されないのならば、その状態とは、部外者や科学者にとっては問題かもしれないが、人々にとっては問題ではないのである。」(キツセ&スペクター著『社会問題の構築 ラベリング理論をこえて』マルジュ社、1990、p. 67)という。つまり、マートンのいう(学者は気づいているが、当事者たちは気づいていない)「潜在的社会問題」というようなものを認めません。また、逆に、第三者や、科学者が、問題ではないといっても、当事者が間違って社会問題だと考えている「偽の社会問題」というようなものも、認めません。それは、当事者たちが問題であると考えている限りで、社会問題なのです。
 では、社会構築主義者の定義で十分なのでしょうか。
 
 
 

いよいよ本題へ

                                     サクランボ またの名を 桜桃 またの名を ゆすらうめ
 
12 いよいよ本題へ (20120626)
 
以前にも書きましたが、私の仮説は、「社会の規則や組織などは、一人では解決できず集団で取り組まなければ解決できない問題(社会問題)を解決するために作られたものであり、またそのようなものとしてのみ正当化される」ということです。この仮説の説明ないし証明が、この書庫の本来の課題でした。
しかし、それに先立ってこれまで、次の二つの課題を論じてきました。
課題1「人間社会そのものが、一人では解決できず集団で取り組まなければ解決できない問題を解決するために作られたものである」を説明すること
課題2「人格は、個人(あるいは個体)では解決できない社会問題を解決するために作られた制度である」を証明すること
 
どちらも明晰に説明ないし証明ができたとはいえません。それにもかかわらず、まずこれを論じたかったのは、「社会」や「個人」を前提したうえで、当初の仮説(テーゼ)「社会の規則や組織などは、一人では解決できず集団で取り組まなければ解決できない問題(社会問題)を解決するために作られたものであり、またそのようなものとしてのみ正当化される」の証明をするということを避けたかったからです。「社会」や「個人」がどのようなものであり、どのようにして成立するのかをも、このテーゼにもとづいて論じたいと考えたからです。その試みは、現段階では不十分ですが、私が考えようとしていることのあらましを理解してもらえれば、一応の意図は達成できたことになります。
 
―――――――――――――― 
というわけで、いよいよ本題です。次のテーゼの説明をしたいと思います。そして、このテーゼを出発点にして、社会の全体についての包括的な説明を追求したいと思います。
 
テーゼ「社会の規則や組織などは、一人では解決できず集団で取り組まなければ解決できない問題(社会問題)を解決するために作られたものであり、またそのようなものとしてのみ正当化される」
 
 このテーゼを次の図をもちいて説明したいと思います。(以下は拙論「社会問題とボランティアの公共性」の一部からの転載です。)
 

 
 <社会的出来事と社会問題の関係>の説明
 ある社会的出来事は、社会問題の現れ、一事例として「解釈」されたり、「説明」されたりします。逆に、社会的出来事は、ある社会問題があることを確かに示す「証拠」となります。
 ここで、<社会的出来事・社会現象>と<社会問題>を点線の四角形で囲んであるのは、これらが別の現象ではなくて、同一の現象の異なる捉え方だからです。これに対して、<社会問題>と<社会運動>と<社会制度>の3つは社会を構成する、別の現象であって、単なる見方の違いなのではありません。
 <社会的出来事>の説明
 社会の中のすべての出来事が、つねに社会的出来事であるわけではありません。ある出来事を「社会的出来事」として捉えることは、すでに一つの「解釈」です。また、ある出来事を、単なる個人的な出来事とか私的な出来事としてとらえるのも一つの「解釈」です。たとえば、「ニート」(NEET=“Not in Employment, Education or Training”の略語で、英国の労働政策の中から生まれた言葉だといわれる。「無業者」ともいう)について考えてみましょう。この出来事は、当初は単に個人的な出来事と見なされたことでしょう。しかし、類似の出来事が多く観察されるようになると、それはある「社会現象」として理解されるようになります。そして、「社会現象」として捉えられることによって、それは「社会的な出来事」として解釈されるようになります。(もちろん、ある出来事が社会的出来事として解釈されるときに、それが頻出して見られる「社会現象」として解釈されるということを常に介するわけではありません)。また「社会現象」や「社会的出来事」のすべてが、問題を孕んだ困った出来事であるとは限りません。しかしこれが問題を孕んだものと理解される場合、この「社会的出来事」は、「社会問題」の一事例として理解されるようになります。「ニートの増加」は、最近社会問題として認知され始めている。すべての社会問題は、具体的に誰かある人(人々)が困窮するという社会的出来事として現象するはずです。この「ニート」の場合には、その当人や家族が常に困っているとは限らない。しかし、もし多くの場合に当人も家族も困っており、しかもその解決には何らかの社会的な取り組みが必要だと考えられているのだとすると、それは「社会問題」として「解釈」され、「社会的に構成」されていくのです。
 
 <社会問題と社会運動の関係>の説明。
 社会問題とその解決方法についてのある信念が一般的に広まると、その解決の実現を求める社会運動が起きます。大きな事件や災害など一回の社会的出来事が、社会運動を活性化するきっかけになるということもありますが、その場合にも、その社会的出来事が社会問題の現れとして解釈され、その解決方法についての信念が共有されるということが必要です。こうして社会問題は、社会運動の「原因」となります。逆にいうと、社会運動は、社会問題によって「正当化」されることになります。社会運動は、①ある問題が社会問題であることの認知をもとめる活動、②社会問題の解決のための直接的な活動(災害救援など)、③社会問題の解決方法を政府や企業などに政策提言する活動、などに区別することが出来ます。ところで、これら①②③に関して、人々の合意が得られるとは限りません。ある現象を社会問題として認めない人もいれば、解決方法に反対の人もいることが予想されるからです。そのとき、この考えの対立自体が、深刻な社会問題となることもありえます。(このような場合に、公共の議論が必要になります。)
 
 <社会運動と社会制度の関係>の説明
 社会運動は、社会問題の解決の為にある制度の創設や改廃を目標にするということがあります。しかし、社会運動の中には、制度の創設・修正を目標にしないものもあります。たとえば、災害救援のボランティア活動のように、運動そのものが、社会問題の解決である場合があります。したがって、社会運動がすべて社会制度の創設・改廃へ向かうとはかぎりません。また、社会問題は、いわゆる社会運動を経由せずに、直ちに社会制度の創設・改廃によって解決される場合もあります。ところで、社会運動が、社会問題によって「正当化」されるのと同様に、社会制度は、社会問題の解決策としてのみ「正当性」を獲得することができます。ある社会運動自体が別の社会問題を引き起こすことがあると述べたのと同様に、従来の社会制度自体が、社会の変化のために、社会問題の解決のために適切に機能しなくなるということや、別の社会問題を引き起こすということもありえます。この場合には、社会制度は「正当性」を失ったということであり、その制度の修正や廃止が「正当化」されることになるでしょう。
 
 

変な論証の終わり方

                台風で倒れた自転車たち
 
 
11 変な論証の終わり方 (20120620)
 
 「こいつ」「あいつ」などの指示詞、「このひと」「あのひと」などの指示詞+一般名と、ひとの固有名たとえば「ユウちゃん」の違いは、前者は持続的な人格の同一性を必ずしも前提しないということです。
 しかし、人類は、言葉を使用する前に、おそらく持続的な人格の同一性を認識(?)していたとおもわれます。なぜなら、あるTV番組で、雄猿が、自分とメスザルがいるところを撮影したビデオを見て、自分を認識できず、自分が知っている雌猿が別の雄猿と仲良くしているとおもって、興奮するシーンを見たことがあるからです。もしそれのシーンが、本当にそのように理解できるのなら、雄猿は、自己の覚知はできないが、他の個体についてはある程度の長い期間持続する個体の認識ができていることになります。
 したがって、人間もまた利害関心から個体を識別するようになった時、その個体を持続的な連続性をもつ存在として理解している可能性が高いと思われます。もし人間が言葉を持つ前から、持続的な個体識別をしているのだとすると、言葉をもつようになったとき、早い段階でひとの固有名を持つようになったのではないかと思われます。
 もし言語が発生した原因が、自分が敵意を持っていないこと、あるいは互いに敵意を持っていないことを確認することにあったのだとすると、固有名(あるいは人称代名詞)を用いて、自分が敵意をもたないこと表明することもまた重要だったはずだからです。また言語が発生するときには、相手が言ったことがどういう意味なのかたずねたり、自分の言ったことがどういう意味なのかを説明することは、不可欠です。そのとき、単純に聞き返したり、「それは、どういうことですか」とか「それは、こういうことです」などの言い方で説明することもできるが、よりはっきりさせようとするのならば、固有名や人称代名詞で相手や自分を指示して、それについて語ることが必要になります。
 
 ーーーーー 
 
 指示詞、固有名、人称代名詞の発生順序や、発生メカニズムについて、ここでこれ以上推測に推測を重ねることはやめにしたいと思います。おそらく次のようにいえるでしょう。
 
 ①持続的な個体の識別は、おそらく言語が発生する前から成立していた。
 ②それゆえに、言語が発生した時に、持続的な個体を指示する表現が登場した。
 
表現(指示詞、固有名、人称代名詞)のそれぞれが、個人では解決できないどのような問題を解決するために作られたのか、を特定することは非常に難しいことです。しかし、そのような問題を解決するために作られたことは、確実なことではないでしょうか。なぜなら、もしそうでなければ、なぜ作られたのか、あるいは仮にあるひとが作ったとしても、それがなぜ集団内で受け入れられ広まったのか、を説明することができないからです。
 
ということで、議論をまとめましょう。
まず次の論証を考えました。
 
  ①人格は、問答ないしその連鎖です。
  ②問答は、言語によって成立します。
  ③言語は、社会的制度です。
  ④ゆえに、人
格は、社会的制度の一つです。
  ⑤社会的制度は、個人(あるいは個体)では解決できない社会問題を解決するめに作られた制度です。
  ⑥ゆえに、人格は、個人(あるいは個体)では解決できない社会問題を解決するために作られた制度です。
 
しかし、この⑤は断定されているだけなので、それに代えて、私たちはつぎのように言い換えることにしたいと思います。
 
  ⑤-1ひとを指示する表現(指示詞、固有名、人称代名詞)は、個人(あるいは個体)では解決できない社会問題を解決するために作られた制度です。
  ⑤-2人格は、ひとを指示する表現の集団内での使用によって、社会的に構成される。
 
以上で、課題であった⑥の論証を終わります。
(以上の論証では、「ひと」「個人」「個体」「人格」などを定義せずに曖昧に使ってしまいましたので、どこかで論証が循環している恐れはないのか、という危惧がのこります。到底厳密な論証とは言えないことを認めます。もし他のご批判があったら、ぜひお願いします。)
 
つぎに問いたくなる問題は、ひとを指示する表現(指示詞、固有名、人称代名詞)が成立することによって、それ以前の個体の識別はどう変化したのか、集団のあり方はどう変化したのか、ということです。群れの遊動生活や、定住生活において、ひとを指示する表現がどのような機能を持っていたのかを、あれこれ想像することもできます。
 
ところで、これらに答えたとしても、それで探求は終わりません。社会制度としての人格のもつ機能は、その発生の時の機能のままであるとは限りません。むしろ、社会の変化に連れて、その機能が変化したと考えられます。ニーチェがいったように、起源と本質は異なる、ということです。
人格の意味ないし機能は、例えば、封建的な儒教思想でのそれと、西洋近代の国家契約論でのそれとでは、異なります。さらにこれらは、グローバル化した現代の人格のあり方とも異なります。
 
これらについては、問答としての社会の分析をもっと進めたあとで、行うのが良いと思います。そこで次にいよいよ、「問答としての社会」の本論に入ろうとおもいます。
 
 

仕切り直し

                                      梅雨の間の6月の光です。 これを俳句にすると・・・
 
10 仕切り直し (20120614
 
前回疲れきっていたのので、仕切り直しをします。
 
復習
08(20120602)から取り組んでいる課題は、「人格は、個人(あるいは個体)では解決できない社会問題を解決するために作られた制度である」を証明することです。
 
<人格は社会的制度の一つです>
これはつぎのように証明できます。
  ①人格は、問答ないしその連鎖です。
  ②問答は、言語によって成立します。
  ③言語は、社会的制度です。
  ④ゆえに、人格は、社会的制度の一つです。
 
冒頭の課題は、次のように推論を続けることで証明できます。
  ⑤社会的制度は、個人(あるいは個体)では解決できない社会問題を解決するために作られ    た制度です。
  ⑥ゆえに、人格は、個人(あるいは個体)では解決できない社会問題を解決するために作ら
    れた制度です。
 
以上の推論で、弱いところがあるとすると、前提①と⑤でしょう。
①については(まだ不十分ですが一応)書庫「問答としての人格」で説明しました。
⑤については、これを説明し、証明することがこの書庫の課題です。
 
⑤の証明が先か、⑥の証明が先か、この関係の不透明性は、そこに登場する「個人」と「人格」の関係が不透明であることに由来します。そこで、以下では、⑤を用いるこの推論によらないで、⑥の証明に取り組みたいと思います。
 
前回(09回)で考えたことは、人格が問答からなり、かつ、問答が現実認識と意図からなるとすると、人格の成立は、意図表明の発話「私は、・・・したい」を前提します。しかし、一人称代名詞「私」の使用よりも、固有名(例えば)「ユウちゃん」の使用のほうが先です。ゆえに、「ゆうちゃんは、・・・したい」という形式の意図表明の発話が先になります。すると、「ひとの固有名はどうして生じたのか」が問題になります。
私の予測では、
   ⑦ひとの固有名は、社会制度の一つであり、個人では解決できない問題を解決するために
    つくられました
ということになります。これを証明することと⑥を証明することは同一ではありませんが。まず、これを証明することが、⑥の証明に近づく重要なステップになるでしょう。
 
そこで問題はこうなります。
「なぜひとの固有名がつくられたのでしょうか」
 
ひと名前がないときにも、あるいはひとが言語を持つ前にも、ひとは個体を識別していたと思われます。それは猿も同様です。
 
  ⑧猿は、群れの中の個体を識別しています
 
これは、群れに新しい猿が来た時に、彼らの行為が変化すること、緊張しているように見えること、などから、観察できることです。サルの研究では、このような推論をすることに問題はないだろうと思います。しかし、認識論的に考えるときには、猿の行動の観察から、⑧を結論することには、大きな飛躍があるように思われます。
 
この⑧は、次の⑨を想定しているように思われます。
 
  ⑨猿は、群れがあることや、群れが多くの猿からなることを理解しています
 
まずこの想定を、どのように理解すべきかを考えたいと思います。
 
「そもそも、世界には何が存在するのでしょうか」
これは難しい問いです。世界は、素粒子からできています。世界は原子からできています。もしこれらが正しのだとすると、机は存在するのでしょうか。それは素粒子の集まりに過ぎません。素粒子が存在することと、机が存在することの間には、一枚のトランプカードが存在することと、トランプの一セットが存在することのような違いがあります。これと同様に一匹の猿は、素粒子の集まりであったり、細胞の集まりであったり、臓器の集まりであったりします。また生物の個体の集まりが、生態系であり、生態系もまた存在します。では、何が存在すると言うべきなのでしょうか。しかしここでは存在論の問題はさておいて、とりあえず、素粒子も、細胞も、臓器も、猿の個体も、群れも、生態系も、存在するといっても良いことにしましょう。
 
次に問題になるのは、「猿が、世界の中から、何を存在しているものとしてを取り出すかは、どのようにして決まるのでしょうか」ということです。センサー付きのコンピュータが、「あなたの見える世界には何がありますか」と問われた時に、どのように答えるかは、それがどのような概念枠組みで世界を記述するかに依存するでしょう。同様に、ある生物が、世界をどのように捉えるかは、その認識能力と利害関心に依存するでしょう。このことは、猿でもヒトでも同様です。そして、おそらく猿について次のように言えるでしょう。
  ⑨猿は、群れがあることや、群れが多くの猿からなることを理解しています
 
この延長上で考えるとき、
  ⑧猿は、群れの中の個体を識別しています
これもまた、猿の認識能力と利害関心に基づいて成立したのだと言えます。ただし、猿が利害関心に基づいて個体を識別している、といっても、これは人間による記述であって、猿自身は、利害関心を意
識していません。なぜなら、猿は言語を持たないからです。猿について⑧が言えるようにおもえるのですが、私たちに確実に言えるのは、猿の行動について記述だけであって、その意味では、⑧もまた猿の行動の記述の言い換えにすぎない、ということになります。脳研究が進むと、猿の脳内のプロセスの言い換えだといえるようになるかもしれません。
 
幸いにも、私たちにとっての現在の問題は、言語を持つひとの場合です。ひとの場合には、本人が利害関心を意識しているといえるでしょう。
 
  ⑩ひとは、集団の中の個人を識別している。
 
これもまた、ひとの認識能力と利害関心に基づいて成立したのだと言えます。
(もし「利害関心を意識しているとはどういうことか」と問われたならば、どう答えたらよいでしょうか。<利害関心を言語で表現できるならば、利害関心を意識している>と言えます。しかし、<言語で表現できないならば、利害関心を意識していない>と言えるかどうかは微妙です。なぜなら、言語が発生するときの、利害関心については、言語で表現されてはいないが、意識されているように思われるからです。)
 
もし人間社会に言語が成立しており、個人を識別するときの利害関心が意識されているのだとすると、個々人に関する利害を言語的に表現しているのではないでしょうか。「あいつは危険だ」「こいつは仲間だ」というようにです。「あいつ」や「こいつ」は、人称代名詞ではありません。「これ」「あれ」に類する指示詞だと考えられます。
 
――――――――――― 
話が回りくどくなったので、まとめておきます。
 
「人格は何故生じたのか」
これに答えるための、ひとつのステップとして
「固有名はなぜ生じたのか」
という問いを考えることにしました。これに答えるために、まず
「ひとが、集団のなかで個人を識別するのは、どのようにしてか」
という問いを立てました。これに対して、
「それは、ひとの認識能力と利害関心に基づいて、である」
と答えました。この利害関心にもとづいた、個人識別は、例えば
   「あいつは危険だ」
   「こいつは仲間だ」
というような発言になると思われます。
 
 
 
 

社会問題の解決としての人格

 

                            今日はつかれました。

 
 
09 社会問題の解決としての人格 (20120608)
 
別の書庫で述べたように、「人格とは、問答ないし問答の連鎖である」と考えることにします。
ではそのような人格はいつ、どのようにして成立したのでしょうか。
 
問答の成立は、言語の成立と同時だと考えられます。では、人格の成立はいつでしょうか。人格を構成する問いは、現実認識と意図の矛盾から生じるとしましょう。人格が成立するには、意図「私は・・・したい」の成立が必要になります。ところで、幼児の発達段階では、自分の名前を言うことが、「ぼく」「わたし」などの一人称代名詞の使用に先立つと言われています。人格が成立するときには、名前の成立、例えば「ゆう」の成立が最初に必要であるかもしれません。「ユウは、・・・したい」という意図が成立して、初めて人格を構成する問いが成立することになります。では、人の名前は、どのようにして発生したのでしょうか。
 
猿は、すでに群れのなかの個体を識別していると思われます。だからこそ、群れの中に新しい猿が参加することがむずかしくなります。人類も、言語を使用する前から、個体を識別していたと思われます。では、人に名前を付けるようになる理由は何なのでしょうか。名前があれば、その個体について語ることが可能になります、また特定個人に呼びかけることが簡単になります。名前は、最初は、個人について語るためよりも、個人に呼びかけるために、作られたのではないかと想像します。呼びかけることが必要なのは、より迅速、正確なコミュニケーションのためでしょう。
 
個人の名前は、物の名前と同様に、集団の中でその使用が承認されることによって成立します。したがって、個人が名前を持つことは、社会によってのみ解決可能な課題です。このときの問題は、「より迅速、正確なコミュニケーションをどのようにして実現するか?」だったのでしょうか。これだけでは、理由として弱いような気がします。
 
各人が名前を持つことによって、集団は、どのように変化するのでしょうか。
 
 今日は疲れ果てて、あまりかけません。)

相互覚知から生じる問題 

 
五月晴れ 緑の木々に 鳥が鳴く
 
07 相互覚知から生じる問題 (20120527)
 
 相互覚知が生じることによって、ヒトの群れに生じる問題は、西田定規さんが、言語の発生の原因になったと考えているある事態と(同じではありませんが)よく似ています。西田定規さんは『人類史のなかの定住革命』(講談社学術文庫)の第十章「家族・分配・言語の出現」において、ヒトはオナガザルに襲われた時に彼らを追い払うために、石や棍棒を携帯するようになったが、それは同種同士の喧嘩においても、互いにとっても危険な存在になったということです。鋭いキバなどをもつ動物の場合には、同種の殺し合いが生じないように、攻撃抑制の遺伝的なメカニズムを持っている。しかし、霊長類の場合、同種内の殺し合いが、カニクイザル、ラングール、ゴリラ、チンパンジーで観察されているそうです。
 この争いの原因の中心は、食べ物と性であろうということです。そこで、食べ物の分配と、家族(性の対象を特定の異性に限定する)が争いを防ぐために作られたのだろうと、西田は推定します。類人猿は、「挨拶行動や宥和行動によって互いの緊張を解消し、また親和的であることを確認して」います。これは毛づくろい、抱き合い、交尾の姿勢をとるなどによって行われますが、それには身体を接近させる必要があります。しかし、「棒や石をもった人類が、安全を確認する前に身体を接近させることは、はなはだ危険なことである」(p.246)そこで、音声による伝達が類人猿よりもはるかに重要な位置を占めるになったのであろう、と西田定規は推測しています。(もちろん、私には判定する能力がありませんが、この議論は説得的であるように思われます。)西田定規さん、人類の最初の言語をこのような「安全保障の言語」であったと考え、それに対して、分配や計画、命令、約束などの言語を「仕事をする言語」と呼んでいます。
 西田定規さんの議論で一箇所だけ気になったところは、「われわれは、挨拶に答えないことが原因になって緊張が生じてくるかのように感じるが、そうではなくて、挨拶を無視すれば、出会うことで生じた緊張が解消されないまま顕在化してしまうのである」(前掲書p.248)と言われているところです。彼はおそらく次のように考えています。<挨拶に答えれば、緊張を鎮めることになるが、挨拶をしなければなになかったのと同じである。挨拶に答えなかったときに、緊張が生じるように感じるのは、錯覚であって、以前からあった緊張が顕在化するだけだ。>これは、<言語によるコミュニケーションは相互覚知を前提して、初めて成立する>という想定が正しいとすれば、間違いです。なぜなら、相互覚知が成立しているところでは、<挨拶することは、仲良くしようという意図を伝えること、そしてその意図を持つことが相互覚知になることを意図しています。したがって、そのような状況で挨拶に答えないことは、仲良くしようという意図をもつことを相互に覚知しているにもかかわらず、それ無視したことになり、しかも無視したことが相互に覚知されることを予期することになるからです。>
 相互覚知が成立しているところでは、<どのように行為するにせよ、そこの何らかの意図が読みこまれてしまうこと、しかもそのことが相互に覚知している>という状況が発生しており、そのことが、<望んでいないのにもかかわらず伝わってしまう意図をコントローする>必要を生じさせるのです。つまり敵意をもっているかのように伝わってしまうことのないように、つねに態度や発声を反省し、それをコントロールする必要が生じるのである。言語がこうして生まれてきたのではないでしょうか。
 相互覚知によって、言語によるコミュニケーションが可能になると同時に、相互覚知がなければ生じなかったような誤解の発生も可能になるので、それを避けるためにも、言語によるそのコントロールが必要になるのです。
 
 
 
 

相互覚知の成立時期

奈良からみた金環日食です。
これって、太陽を見ているのでしょうか。それとも月をみているのでしょうか。
 
 
06 相互覚知の成立時期 (20120521)
 
私が「共有知」と呼ぼうとしているものについては、書庫「世にも奇妙な「共有知」」を読んでいただければありがたいです。しかし、これは、通常「共有知」とか「相互知識」と呼ばれているものとは、少し異なっています。通常「共有知」と呼ばれているのは、xとyがいた時に、pを二人が知っていることを、二人が知っていることを、二人が知っている、・・・というような自体なのです。しかし、しかし、知や信念の主体は、最終的には、個人であるので、最後には「・・・・と、xは思っている」という表現になってしまいます。もちろん、yも同じように考えている可能性はあるのですが、そのこととも、最終的には、「xさんは、そう思っています」ということになります。これに対して、私は、個人主体の知に還元されないような、まさに一つの知を共有知と呼ぼうとしています。(残念ながら、それの証明は、まだ十分な形では出来ていません。)
 
前回、「共有知が生み出す個人では解けない問題」を、解決するために生み出されたのが言語であるという仮説をのべました。しかし、共有知というのは、(私の場合も、通常の場合も)命題知を共有することを意味します。しかし、ここでは言語が成立する前の共有知についての問題にしたいのです。つまり、そこで共有されているのは命題知ではありません。ある種の気づきのようなものです。それはグレゴリー・ベイトソンが「相互覚知」(mutual awareness)と呼んだものです。それは、人間と人間が出会い互いに相手の目を見た時には、互いに目があったことに気づくということです。つまり、相手が私を見ており、私が相手を見ていることを、二人はともに気づいており、そのことに二人はともに気づいており、・・・という自体のことです。
 
 そのような相互覚知を類人猿がもつだけでなく、家畜も持つだろうと、ベイトソンは述べています(ロイシュとの共著『コミュニケーション』)。しかし、私には、それは信じられません。相互覚知が成立するためには、相手が自分を見ていると気づくことが必要であり、自分に気づくことつまり、自己覚知が必要であり、しかし、牛などの家畜は、自己覚知を持たないからです。マカクザルもまた自己覚知を持たないかもしれません(板倉昭二さんの研究によると、自己覚知を持つのかもしれません。板倉昭二『「私」はいつ生まれるか』ちくま新書)。これを持つとはっきりと言えるのは、チンパンジーです。
 自己覚知(Self-awareness)というのは、鏡を見た時に自分が写っていることに気づくということです。これを調べるマークテストというのがあります。それは動物が寝ているあいだに、赤い印を額や耳につけて、目覚めたあとに鏡を見て、それに触るかどうかを調べる有名なテストです。チンパンジーはこのテストにパスします。つまり、ヒト族のチンパンジーは、自己覚知を持っているということです。それゆえに、ヒト族の中のヒト亜族のアウストロラロピテクスも自己覚知を持っていただろうとおもいます。
 
 では、チンパンジーが相互覚知を持つかどうかですが、私にはどのような実験をすれば、それがわかるのかわかりません。ただし、私はチンパンジーはおそらく相互覚知を持たないだろうとおもいます。
 自己覚知があるとしても、「相手が私を見ていることに私が気づく」ということが成立するとは限らないと思います。これは相手の気づきについての気づきがひつようだからです。マークテストをパスするよりももっと複雑です。さらに、「私が相手を見ていることを、相手が気づいていることに、私が気づく」ということも必要ですが、これはもっと高度です。私は、チンパンジーには、おそらくこのようなことは不可能だろうと推測するのですが、しかし根拠を示すことは出来ません。
 これと同様に、アウストラロピテクスにとっても、おそらく相互覚知
は不可能であっただろうと思っています。これもまた根拠はありません。打製石器をつくる様になった人間ホモ・ハビリスならば、それが可能になったかもしれませんが、おそらくは、もっと後だろうとおもいます。これもまた根拠はありません。
 言語の発生を、ホモ・ハビリスに想定する研究もあるようですが、多くの研究者は、もっと後の時代に想定しているようです。私は、相互覚知が引き起こす問題を解決するために、言語が登場したと考えますので、相互覚知の成立は、言語成立時期とあまり変わらないと考えます。したがって、言語の発生がもっと後ならば、相互覚知の発生ももっとあとになるでしょう。
 このような相互覚知によって、ある問題が生じて、それを解決するために言語が生み出されるというのが、私の仮説です。それを次回に説明します。
 
 
 

 言語の起源について

 
     a Japanese balloon bombe の説明文です。
 
 
 
05 言語の起源について (201205015)
 
(言語起源論という悪名高い深みにはまってしまって、しばらく思弁的な勝手な推量を語ることになりそうです。)
 
復習ないし議論の再構成をしたいと思います。
 
「動物の群れと人間の社会を区別するものはなにだろうか?」
これに対して、「言語の有無だ」と答えると仮定しよう。
 
もし言語の有無によって、動物の社会から人間の社会を区別できるのだとすると、私たちは、次のような社会の定義を仮定することもできるだろう。(この二つの仮定が、必然的に結合しているのかどうかを検討してみる必要があるが、それはまだ未確定である)
 
仮定「個人では解けない問題を解決するために作られたものが、社会(社会制度)である。個人では解けない問題を解決しようとする活動が、社会運動である。社会制度や社会運動はそのようなものとしてのみ正当化されうる」
 
このように考えた時に「言語は、社会制度なのかどうか」という問いにはどう答えることになるのだろうか。これに対する答えには、肯定と否定の答えが可能であり、アンチノミーになりそうだ、と前回のべた。
 
しかし、この問いに対しては、とりあえず、次のように答えることにしたい。
<言語は、個人では解けない問題を解決するために作られたものである。それゆえに、社会制度であるように見える。しかし、言語によってはじめて解決される個人では解けない問題は、当事者が言語で考えている問題ではない。したがって、「言語は、個人では解けない問題を解決するために作られた」と言えるとしても、それは当の個人による理解ではなくて、記述する者が「個人では解けない問題」であると記述しているにすぎない。>
 
では、「言語を生み出すことになった、個人では解けない問題とは何であったのだろうか?」
これに対して、以下で提案したい答えは、次のとおりである。
「言語が成立するには、共有知の成立が前提となるだろう。そして、その共有知の成立が、個人では解けない問題を生み出したのだろう。」
 
(もし、類人猿は共有知を持たないとすると、言語を生み出すことになった、個人では解けない問題を解いたのが人間であり、解けなかったのが類人猿であったとは言えないことになる。つまり、言語を生み出すことになった、個人では解けない問題は、そもそも類人猿には生じなかったのだ、と言うことになる。このように考えるとき、「言語ではなくて、共有知が、動物の群れと人間社会を分けるものだといえるのではないか」という疑問が生じる。これについては後で考えよう。)
 
まずは、共有知によって生じた個人では解けない問題とは何であったのかを、推測してみよう。
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言語の発生や学習において、発話の意味を理解するよりも、次の①や②の理解が先行するだろう。(Davidsonは発話の意味の理解よりも、主張という発語行為の理解が先行すると考えた。ところで、発話は主張型発話には限らない。命令、警告、依頼、約束等々のその他の発語内行為もある。命令と警告の区別や、依頼と約束の区別などは、発話の意味の理解ないし想定なしには大変難しいだろう。主張しているのか、約束しているのかの区別についても、発話の意味の理解なしには難しいのではないだろうか。しかし、より曖昧な仕方でのつぎのような理解は、発話の意味の理解や、発語内行為の理解に先行して可能なのではないだろうか。)
 
①何かを伝えようとしていることの理解
②何かに注意を向けようとしていることの理解
 
例えば、外国人が何かを伝えようとしているが、何を伝えようとしているのか、わからないということがあるかもしれない。たとえば、質問しているのか、何かを依頼しているのかわからないことがあるだろう。そのときでも、彼女が何かを伝えようとしていることはわかるだろう。例えば、誰かが何かを指さして、大声を出しているとすると、何を指示しようとしているのかはわからないとしても、何かに注意を向けようとしていることがわかるだろう。
 
ところで、私たちは、次の二つの理解を区別できる。
 
(1)内容はわからないが、相手が何かを伝えようとしていることを理解すること
(2)相手が伝えようとしている内容を理解すること
 
この(2)が成立しなくても、(1)は成立しうる。(ところで、(2)が成立するときには、(1)が必ず成立していると言えるかどうかについては、ここでは未確定にしておきたい。)
 
この(1)と(2)の各々について、共有知が成立しうる。
(1)の理解についての共有知は、(2)の理解や(2)の理解の共有知がなくても成立しえる。
((2)の理解の共有知が成立するときには、(1)の理解の共有知が必ず成立するかどうかは、ここでは未確定にしておきたい。)
 
共有知とは何かを説明してから、それが生み出す個人では解けない問題を説明しよう。
 
 

群れをつくる理由

 第二次大戦中に日本軍が放った風船爆弾は、ここOmahaで爆発しました。しかし、けが人は出なかったそうです。 このあたりは、Omahaのビバリーヒルズとよばれているところです。
 
04 群れをつくる理由 (20120509)
 
Wikipediaで調べると、動物が群れを作る理由としては、次のようなものが指摘されているようだ。
  ・他の種の動物から身を守るために集団でいた方が有利。
  ・餌をとるのに、集団の方が有利
  ・過酷な環境に耐えるのに、集団でいた方が有利
  ・生殖相手を見つけるのが容易
群れを作るデメリットとしては、次が考えられているようだ。
   ・仲間から攻撃を受ける可能性がある
 
さて、人類の祖先の動物が群れを作ったとき、上記のような理由であったとすると。個体では解決できない問題を解決するために群れを作った、といえる。また、森の中からサバンナへと群れとして移動したのだとすると、それもまた、個体では解決できない問題を群れで解決したといえる。
 
このような群れが、次の仮説「社会の規則や組織などは、一人では解決できず集団で取り組まなければ解決できない問題(社会問題)を解決するために作られたものであり、またそのようなものとしてのみ正当化される」を前提するときに、「社会」だと言えるかどうかは、「問題を解決するために作られた」をどのように解釈するかに依存する。
 
たとえば、チンパンジーが、固いクルミの実をとるために、石をつかって、殻を壊しているとしよう。「チンパンジーは、石を使うことによって、「どうやってクルミの実を取り出すか」という問題を解決したのだ」と語ることができる。しかし、そのように語るのは人間である。チンパンジー自身が「どうやってクルミの実をとりだすか」という問いを立て、それに答えたのではない。「問題を解決する」によって、<言葉にして問いを立て、それに答えること>を意味するなら、このような意味で社会を作るのは、言語を持つものだけである。このような意味で「社会」を理解するなら、社会が登場するのは、言語の発生の後である。
 
オーストラろピテクスが、霊長類のなかで出現するまえから、人類の祖先は群れで生活していたかもしれない。もしそうだとすると、群れを作った時に、言語を持っていなかったことは確実である。 言語は、群れの生活の中で出現したのだといえる。
 
言語そのものは、社会制度だと言えるだろうか。先の仮説を採用するとき、言語は社会制度になるのだろうか。言い換えると、言語は、個人では解けない問題を解決するために作られたものだといえるだろうか?「そのとおり」と答えたくなる。
しかし、他方では、言語が何かの問題解決のために作られたとしても、その問題はまだ言語化されていないはずである。したがって、この仮説によれば、言語は社会制度ではないことになる。
 
これをどう考えたらよいだろうか。