04 安保法制に反対する三つの理由

04 安保法制に反対する三つの理由 (20150616)
1,集団的自衛権は、憲法9条に反している。
これについては、説明の必要はないでしょう。小学生でも憲法を読めば、そう考えるでしょう。
「安保法制は、憲法に反しているかもしれなが、しかし現状ではそれが必要であり、憲法を簡単に変えることが出来ないので、とりあえず安保法制で対応するしかない」と考えている人は、立憲主義を否定するものであり、その考え自体も憲法違反です。
2,現実的な政治選択として間違っている。
「憲法との関係を横に置くとすると、現在の国際情勢の中で、日本の取るべき政策を考えるとき、安保法制は必要である」 これは現実政治の政策として間違っている。それについて、03で「囚人のジレンマ」ゲームを用いて説明したので、繰り返しません。
3、現国会は違憲状態であり、その国会で安保法制を審議することは、間違っている。
現国会(衆議院)は2013年11月20日に最高裁大法廷で「違憲状態」だという判決が出ている(参照、「一票の格差」 in Wikipedia)。
安保法制のような重要な法案を、違憲状態の国会で審議すること自体が違憲である。

03 憲法9条と「囚人のディレンマ」ゲーム

03 憲法9条と「囚人のディレンマ」ゲーム (20150505)

囚人のディレンマ」ゲームとは、互いにコミュニケーションできない人たちが、自己の利益が最大になるように合理的に考えて行為するとき、全体としては最悪の状態になることを示すゲームである。これは、これまでも米ソの軍拡競争の愚かさを示すことなど、政治の分析に使われてきた。現在、安倍自民党政権がやろうとしている政策は、近隣国との相互不信を前提にするならば、自国の利益を最大にする合理的な選択であるのかもしれない。そしてその政策は、近隣国にも、同様に合理的に考えて同様の政策をとることを促す結果になるだろう。そして、地域全体としては最悪の状態を選択することになってしまうだろう。

これを回避するには、当事者たちがコミュニケーションを図り、相互信頼を醸成することによって、全体として見たときの最善の状態に到達すべく協力することが必要である。米ソが軍縮に成功したのは、まさにこの対話路線をとったことによる。

したがって、安倍政権が相互不信を前提にした「合理的」選択をしようとしていることは、大きな間違いなのである。そもそも相互不信を招いた最大の原因は、安部政権が、15年戦争について中国や韓国に対して「お詫び」する必要はないと「解釈」していることにある。安倍政権が近隣諸国との間に相互不信を招き、その相互不信を前提に「合理的」な選択をするという愚かな方向に日本と近隣諸国を向かわせている。

ハト派や護憲派の戦略は、リアリティのない無責任な考えではない。「囚人のディレンマ」ゲームを踏まえた、リアリティのある説得力のある選択なのである。タカ派の戦略は、「囚人のティレンマ」ゲームを理解しない、あるいは過去のその経験から学習しない、愚かな選択である。

安全保障機能の遷移

きりたんぽの続編です。
 
 前回次のように書きました。
「国家がある限り、対話不可能な侵略国家はありうるので、防衛のための正義の戦争はありうる。また対話不可能な国内で人権侵害をする国家はありうるので、人道的な介入のための正義の戦争はありうる。」
 
 おそらくガンジーのような徹底的な平和主義者は、「国家がある限り、対話不可能な侵略国家はありうるので、防衛のための正義の戦争はありうる」を認めないだろう。ガンジーのような人ならば、たとえ侵略されても、非暴力、無抵抗の態度をとるだろう。しかし彼は他の人にもそれを勧めるのだろうか?彼はそれが正しいことを論証できるのだろうか?おそらく、それは難しいだろう。
 もちろん、我々はガンジーのような人を尊敬するかもしれない。したがって、ガンジーのような国家があれば、その国家は尊敬されるかもしれない。しかし、国家についてもそのようにあるべきことを論証することは難しいだろう。そのような絶対的平和主義は、個人や共同体の決定にゆだねられるべき善構想であって、それを正義として論証することは難しいように思われる。
 
一般的にいって、社会制度や社会運動は、何らかの社会問題を解決するためのものであり、そのようなものとしてのみ正当化される(入江幸男「社会問題とコミュニケーション」(入江・霜田編『コミュニケーション理論の射程』ナカニシヤ出版、所収))を参照してもらえるとうれしいです)。国家制度を正当化する社会問題のなかでも、中心的なものの一つが、いかにして安全を確保するかという問題であった。自然状態では、つねに他者から攻撃される可能性があるので、平和な生活を確保するために、自由に活動する権利の制限を受け入れるとともに、お互いの権利を承認しあって、集団を作って互いの権利と安全を確保しようとする。この集団は、安全保障他のための集団である。このような機能を持つ集団として、家族や村を考えることもできるが、それだけでは不十分なことから、国家が作られたのである。少なくともそのように考えられて、国家制度は正当化されてきた。
この安全保障の機能は、とりわけ近代以後、家族、村、都市などから、国家への集中を強めてきた。(我々は様々な社会問題の解決を国家に集中させすぎたのかもしれない。システムによる「生活世界の植民地化」(ハーバマス)も起こってきた。)ただし、国家間の戦争の経験を経て、現代では諸国家が互いの安全保障のための集団(集団的安全保障)を形成しつつあり、安全保障の機能は国家からNATOやEUや国連などへ移りつつある。かつて国家への安全保障機能の集中によって、国家内部での平和がより確実なものになったように、世界全体での平和の実現のためには、安全保障機能を世界全体へ集中させることが、望ましいようにおもわれる。
 
A国がB国を侵略したときに、B国の国民にとって、それは国家として取り組まなければ解決できない問題であるだろう。外国の軍隊の侵略行為から国民を守るために、軍隊を準備しておいて軍隊で戦うことは、人々が国家を作った時の目的の一つに含まれているだろう。ただし現代では、このような問題は、B国だけで解決できる問題ではない。安全保障は、グローバルに取り組む必要のある問題になっている。その理由は、経済活動がグローバルに展開しており、そのために利害関係もグローバルに広がっていることにある。
 
 
 
  
 

平和を実現するための方法について

2011年1月10日の哲学ワークショップのあと、「きりたんぽパーティ」をしました。とてもおいしかったです。前にも書きましたが、一つの火と鍋を囲んで食事することは、おそらく最も原初的な食事の形態だとおもいます。もし縄文土器が鍋としても使われていたとすると、そのころから続いてきた歴史をもつのだとおもいます。それとも縄文土器は、鍋には使われていなかったのでしょうか。
 
さて、その若手哲学ワークショップは二部構成で、第一部のテーマは「平和を実現するにはどうするか」でした。それを聞いていて、つぎのように考えました。
・ガルトクングにならって、戦争のような暴力と構造的暴力を区別して、それぞれが無い場合を、「消極的平和」と「積極的平和」に区別する。
・戦争状態を、熱い戦争と冷たい戦争に区別する。
 
・まとめると次のようになります。
1、消極的平和:戦争状態でないこと
  ①熱い戦争がないこと
  ②冷たい戦争もないこと
2、積極的平和:貧困、飢え、などがないこと
 
国家の廃絶は、消極的平和には役立つが、積極的平和に役立つとはかぎらない。
 
「正義の戦争はあるのか?」
国家がある限り、対話不可能な侵略国家もまたありうるので、防衛のための正義の戦争はありうる。また国内で人権侵害をしている対話不可能な国家もまたありうるので、人道的な介入のための正義の戦争はありうる。ゆえに、国家がある限り、正義の戦争はありうる。
ゆえに、正義の戦争をなくするには、国家を廃棄して、世界共和国を作るしかない。
・次善の策は、世界の全ての国家の連合によって、正義の戦争だと認めた戦争のみの遂行を許可することである。(この許可の仕方については、さらに多くの議論が必要になると思われる。)
 
・「構造的暴力をなくすにはどうするか?」
貧困と飢えをなくすには、世界的な規模での再分配をおこなうしかない。
 
以上が、消極的平和と積極的平和を実現するための方法です。
 
これだけでは、机上の空論かもしれません。これを実現するための方策を考えることが難問なのかもしれませんが、しかしまずはこの空論が正しいかどうかについて、ご意見を伺いたいとおもいます。
 
是非、ご批判をお願いします。