02 「疑う」の多義性  (20200718)

[カテゴリー:問答と懐疑]

 前回述べたことは、〈疑う〉ことは、命題の真理性について問うことであるということである。ただし、〈疑う〉ことには、命題の真理性を問うことに加えて、その問いに、真ではないかもしれない/真ではない/偽であるであるかもしれない/おそらく偽である/偽である、などと答える(信じたり、主張したりする)ことも含まれる。

 たとえば、「刑事がある人物を犯人ではないか疑う」という場合がある。これは、「ある人物は犯人でない」という命題の真理性を問い、その問いに「おそらく偽である」と答えることである。(英語ではdoubtではなくsuspectをもちいる。suspectは、「嫌疑をかける」「罪があると思う」などの訳語があるように、悪いことがらを想定する場合に用いられるようだ。日本語の場合には、どちらも「疑う」を用いる。)

 日常での「疑う」の使用では、命題の真理性を問うだけでなく、それに対して何らかのネガティヴな答えを考えることが多いだろう。

(今日は短くてすみません。今から丸亀に帰省します。)

06 #前回の再検討 (20200614)

[カテゴリー:問答の観点からの権利論]

 前回は、すべての権利と義務を、問答に関する権利に還元できるだろうと考えて、例えば、次のように説明した。

①<Aする権利がある>とは、Aを自由に行えるということである。言い換えると、誰かに「Aしてもよいですか?」と問う義務がなく、かつ、他者からの「何故Aするのですか」という問いに答える義務がないことである

ここでの「義務」は法的なものである。ゆえに精確にいうと、次のようになる。

①<Aする法的権利がある>とは、Aを自由に行えるということである。言い換えると、誰かに「Aしてもよいですか?」と問う法的義務がなく、かつ、他者からの「何故Aするのですか」という問いに答える法的義務がないことである。

前回の②も同様に精確に言い直すと次のようになる。

②<Aする法的義務がある>とは、Aすることに関する問い(「なぜAしなければならないのですか?」とか「どうしてもAしなければならないのか?」など)への法的権利がない(つまり、それらの問いへの答えが得られなくても、また答えに不満があっても、行為しなければならない)ということである。

この①と②が成り立つとするとき、法的な権利・義務一般を、問答に関する法的な権利・義務に還元できるのだろうか?

①によって、<Aする法的権利がある>の下流推論が明示されている。

Aする法的権利がある。┣ 誰かに「Aしてもよいですか?」と問う法的義務がなく、かつ、他者からの「何故Aするのですか」という問いに答える法的義務がない

②によって、<Aする法的義務がある>の下流推論が明示されている。

Aする法的義務がある。┣ Aすることに関する問い(「なぜAしなければならないのですか?」とか「どうしてもAしなければならないのか?」など)への法的権利がない。

これらの下流推論はこれらだけはないだろう。それゆえに、権利や義務一般を、この下流推論を用いた言い換えに還元できないだろう。なぜなら、pの下流推論がp┣rとp┣sの二つあるとするとき、s┣rとなるとはかぎらない。つまり、sをrをもちいて言い換えられるとは限らない。したがって、rという表現を導入したとしても、pという表現が不要になるわけではないからである。

物に対する権利は、行為に対する権利に還元できるだろう。このカテゴリーでは、行為に対する権利をさらに、問答に関する権利・義務に還元できなるのではないかと探求している。その発想の根っこは、権利関係が、言語的コミュニケーションによって構成され調整されているのだとすれば、それを分析すれば最終的には問答に関する権利・義務になるだろう、という予測にある。もしこの還元ができないのだとすると、その原因・理由を明確にすることによって、権利関係についての認識が深まるだろう。

 次回は、アプローチを変えて取り組むことにしたい。

05 権利と義務を、問答に関する権利に還元できるだろうか? (20200609)

[カテゴリー:問答の観点からの権利論]

#権利・義務・禁止について

 <Aする権利がある>とは、Aすることが自由であるということである。つまり、Aすることもしないこともできる。それゆえに、Aをする権利がないときには、Aをする義務があるか、Aすることが禁止されているか、のどちらかである。従って、ここに3つの場合がある。

   Aする権利がある

   Aする義務がある

   Aすることが禁止されている。

ただし、Aすることが禁止されているとは、Aしない義務があるということと同じである。

#すべての権利と義務を、問答に関する権利に還元できるだろうか?

①<Aする権利がある>とは、Aを自由に行えるということである。言い換えると、誰かに「Aしてもよいですか?」と問う義務がなく、かつ、他者からの「何故Aするのですか」という問いに答える義務がないことである。(言い換えるとAに関する問答から解放されているということ、さらに言い換えると、Aに関して問答無用である。)

②<Aする義務がある>とは、Aすることに関する問い(「なぜAしなければならないのですか?」とか「どうしてもAしなければならないのか?」など)への権利がない(つまり、それらの問いへの答えが得られなくても、また答えに不満があっても、行為しなければならない)ということである。(言い換えると、問答無用でAしなければならない、ということである。)

権利一般ではなく、特定の個人間の権利や義務については、次のようになる。

③<Xは、Yに対してAする権利がある>=<Yは、XがYに対してAすることを受け入れる義務がある>

 XはYに「Aしてもよいですか?」と問う必要がない。XはYの「なぜAするのですか?」という問いに答える必要がない。Yは「なぜXの行為Aを引き受けなければならないのですか?」という問いへの答えを得られなくても、またその答えに不満があってもAを行わなければならない。

④<Xは、Yに対してAしてもらう権利がある>=<Yは、Xに対してAする義務がある>

もしXさんが望めば、YはXに対してAを行わなければならない。<Aする義務がある>とは、「Aをしなければなりませんか?」とか「なぜAをしなければならないのですか?」などと問うことができない、ということである。

以上の説明は、<…する権利がある>や<…する義務がある>から、問答に関して何が帰結するかを述べているものである。つまり、<Aする権利がある>や<Aする義務がある>の下流推論を述べており、上流推論については何も述べていない。しかし、上記の下流推論があれば、ある権利を問答の権利に還元できるのではないだろうか。

この点を明確にするために、次に問答の権利と義務について考えてみよう。

04 他者の行為を禁止するとはどういうことか? (20200608)

[カテゴリー:問答の観点からの権利論] 

ある対象Xを所有することは、少なくとも次の3つを含む(あるいは、次の3つを結論とする3つの下流推論をもつ。)

  ①Xを自由に使用できる。

  ②Xを自由に処分(加工、売却、廃棄、破壊、など)できる。

  ③他者がXを使用したり処分したりすることは、禁止されている。

この中の最後の部分についても、問答の権利として説明できるのかどうかを検討しよう。

 (所有権の場合に限らず)権利があれば、その権利を侵害してはならないという義務が発生している。そして、(道徳的な義務の場合はさておき)法的な義務の場合には、義務違反に対して法的な罰が与えられる(法的に禁止されている)。ところで、他者がXを使用したり処分したりすることは、①と②の権利の侵害である。ゆえに、他者がXを使用したり処分したりすることは、義務違反であり、法的な罰が与えられる(法的に禁止されている)。ここで、禁止したり、禁止できたりするのは、私ではなく、社会である。それゆえに③は、私がする行為ではない。私がすること、あるいはできることは、他者が①や②を侵害したときに、警察や裁判所に訴えることである。③は、①と②の権利命題から帰結する。

 仮に警察や裁判所がない社会であるとしても、権利が成立している社会であれば、その侵害が生じたときに、侵害した者を罰っしたり、保障したりする何らかの仕組みがあるはずである。もしそれがないのならば、その社会で、その権利があるとは言えないだろう。例えば、Xの所有権をもつということが、たんにXをある時点で占有しているということと同じことになってしまう。

 Xについての所有権の侵害が発生している可能性がある時には、所有権を持つ者は、「Xをどうするのか?」「なぜそうするのか?」という問う権利(同じことだが、問いかつその答えを求める権利)をもつ。所有権の侵害が明白であるときには、Xの返還や保障を求める権利が発生する(この権利についても、問答の権利として説明できるが、それについては後にする。)

 以上によって、プライバシーへの権利と所有権を問答の権利に還元できると言いたいのだが、もう少し明確にするためにも、次に、これらの議論を権利一般についての議論へ拡張したい。

08 なぜ、推論によって文の意味を明示化できるのか? (20200430)

「なぜ推論によって文の意味を明示化できるのか?」への答えは、ブランダムによれば「推論が文の意味やそれに含まれる語の意味を変えないからである」となる。

 この答えを説明しよう。推論は、論理的な語彙「かつ (∧)」「あるいは (∨)」「もし…ならば、… (→)」などによって行われるものであり、これらの語彙の使用規則に従った文の書き換えが、推論だといえる。論理的な語彙の使用規則とは、ゲンツェンが明示した導入規則と除去規則である。

  p、r┣p∧r ∧の導入規則 

  p∧r┣p   ∧の除去規則

  p∧r┣r   ∧の除去規則

  p┣p∨r   ∨の導入規則

  p∨r、p→s、r→s┣ s  ∨の除去規則

  p、p→r┣r         →の除去規則

  p┣r ならば ┣p→r    →の導入規則

  p→⊥┣¬p          ¬の導入規則

  ¬¬p┣p           ¬の除去規則

 もしある論理的語彙の導入規則と除去規則を連続して適用したときの結果が、その論理的語彙を使用しないで推論できるものであるとすれば、その論理的語彙は、その他の語彙や文の意味を変更していないということである。たとえば、論理的語彙の導入規則と除去規則を連続して適用したときの結果がpであったとしよう。そしてそのpの導出に用いられた前提がΓ(命題の列)だとしよう。つまり、Γ┣pが成り立つのだとしよう。この推論Γ┣pが、当該の論理的語彙を使用しないでも成立する推論であるとすれば、Γ┣pという推論を導出するにあたって、当該の論理的語彙およびその導入規則と除去規則の連続適用は、その他の語彙や文の意味、その他の推論規則に影響を与えていないことになる。ヌエル・ベルナップは、このような導入規則と除去規則を「調和」していると呼んで、論理的な規則の設定の恣意性を制限しようとした。(そうしないとPriorの”TONK”のような奇妙な規則を許してしまうことになる。これについては、N. Belnap, Tonk, Plonk, and Plink, Analysis 22 (1962): 130-134, commenting on A. N. Prior’s “Runabout Inference Ticket” Analysis 21 (1960-1961): 38-39を参照。)

 逆に、もしある論理的語彙の導入規則と除去規則を連続して適用したときに結果が、その他の論理的語彙やその規則だけでは推論できなかったものだとすれば、Γ┣pにおいて、語彙や文やその他の推論規則の意味が変わってしまっていることになる。

 このような意味で「調和」した論理的語彙の導入規則と除去規則を適用しても、表現の意味を変えないのだとしたら、それらを用いた推論において、表現の意味は維持されていることになる。つまり、推論関係は、表現の意味を変えるのではなく、それを明示化することになる。

 通常の正しい論理的推論において、そこで使用される語彙や文の意味が変わることはない。これはいわば自明のことであるが、しかしこの自明のことゆえに、推論よる文の書き換えによって、表現の意味が明示化されることになる。 

(いつもながら、話がややこしくてすみません。しかし、厳密に論証しておくことが重要なので仕方ありません。)

 次回は、論理的語彙に関するこの議論を、疑問表現の語彙に拡張します。

05 哲学の意義(20190713)

先日、植木屋さんのおかげで大変きれいになりました。

05 哲学の意義(20190713

残念ながら「ノイラートの船」の議論が有効で有る限り、私たちたちは、自然科学も人文社会科学も基礎づけることはできないし、その第一の有効性も第二の有効性も基礎づけることはできない。

今言えそうなことは次の二つである。

一つは、学問の基礎付けにかんする懐疑論や懐疑論批判の議論は、哲学の仕事であるということである。学問の意義に関するこうした原理的な議論は、哲学の仕事であり、それに意義があるとすれば、それは哲学研究の意義の一つである。

 二つ目は、(第二の有効性についての議論に限らず)原理的な基礎付けができず、かと言って、全面的な懐疑に身を委ねることもできないとしたら、とりあえず試みるべきことは、個別的な提案の正当化であろう。

「書庫(カテゴリー)」の説明文で次のように述べた。

「哲学とは、普通よりもより深くより広く問うことだとすると、普通よりもより深くより広く問うことの意義はなにだろうか?たとえば、哲学研究では、「世界には何か存在するのか?」「知識とはなにか?」「価値とはなにか?」などを問うが、これらの問いを問うことの意義は何だろうか。」

これらの問いを問うことは、どんな目的のためなのだろうか。カントならば、「人間とは何か」を知ることが哲学の目的だと言うかもしれない。そして、「人間とは何か」を問う目的は、「人間は何のために存在するのか」を知ることかもしれない。

私の現時点の暫定的な提案:

<哲学の(あるいは哲学を含めた人文社会科学の)意義は、「人間とは何か」と「人間は何のために存在するのか」という問いを問うこと、およびその答えを得ることにある>

これらの問いの答えを得ることに意義があるだろう。そして仮にこれらの問いの答えが見つかっていないとしても、その答えが見つかる可能性があるかぎり、これらの問いを問うことにも意義があるだろう。

この提案の正当化

私個人としては、「人間とは何か」や「人間は何のために存在するのか」を知ることに劣らず、「世界には何か存在するのか?」「知識とはなにか?」「価値とはなにか?」を問うことそのものにも意義があると考える。しかし、人々の税金を使用して哲学研究することの意義を説得しようとするならば、たとえば「「知識とは何か?」を問うことになぜ税金を使用するのか?」と問われたとき、うまく答えることができない。しかし、「人間は何のために存在するのか?」を問うことであれば例えば、次のように説明できるだろう。

<あなたは何のために税金を払うのでしょうか?それは、あなたの住む国家や地方公共団体が、あなたの生活を守り、幸せに生活することや、よく生きることに役立つようにするためでしょう。その目的を実現するためには、「人間は何のために存在するのか」に答える必要があります。>

科学技術研究によって生活が便利になったり経済発展したりするならば、それに税金を使うことを国民は支持するだろう。人文社会学研究によって、社会がより民主的、自由、平等、になるならば、それに税金を使うことを国民は支持するだろう。これと同様に、

哲学によって、「人間とは何か」や「人間が存在する意味は何か」(この問いは、「人生の意味は何か」「人類の存在の意味は何か」などの問いに書き換えることもできる)に答えられるならば、それに税金を使うことを国民は支持するだろう。

04 学問の意義(「ノイラートの船」人文社会科学バージョン)(20190701)

先日、キュウリとトマトを植えました。楽しみです。

#前回の復習

前回のupは曖昧だったので、整理しておきたい。学問の有用性は、ある目的を実現することに役立つという第一の有用性と、その目的を理解し正当化を行うという第二の有用性に分けられることを前々回指摘した。これを受けて、前回は第二の有用性について説明しようとしていた。しかし、その過程で、自然科学ではこの二つの有用性を簡単に区別できるが、人文社会科学ではこの二つの区別が曖昧になることに気づいた。その理由をとりあえず2点あげることができる。

第一に、自然科学の研究対象は、自然科学研究とは独立に存在しているのに対して、人文社会科学の研究対象(社会、文化など)は、人文社会科学とは独立に存在していない。人文科学研究がなければ、現在の社会、文化などは成立していないということである。たとえば、民主主義は、民主主義についての思想から独立には成立し得ない。たとえば、貨幣制度は、狭い意味の経済学が学問領域として成立する以前から成立しているが、貨幣制度は、交換的正義の思想から独立には成立しない。交換的正義に関する研究は、経済学の発生以前から、哲学や伝統的な宗教の中にもあった。

第二に、自然は、目的や価値なしに成立している(これは近代科学的な自然理解であるが、いまはこれを採用しておく)が、社会や文化は、目的や価値判断を不可欠な要素として成立しているということである。人文社会科学は、社会や文化を構成する目的や価値判断もその研究対象とする。たとえば、ある社会学研究が持続可能な社会の実現のために有用であるとしよう。このとき、その目標(持続可能な社会)が、社会の目標でもあるとき、この社会の目標は、社会学の研究対象となる。

(この第一の理由と第二の理由は、密接に関連していて、その区別は曖昧であるかもしれない。)

#「ノイラートの船」の人文社会学バージョン

社会が、学問によって構成されているとすると、学問は社会の一部である。したがって、社会の目標について検討し、その正当化を行おうとするとき、私たちは社会の外に出て、それらを行うことはできない。

ここで、科学哲学で議論される「ノイラートの船」が思い出される。ノイラートは、プロトコル言明による科学の基礎付けを批判して次のように言った。「決定的に確立された、純粋なプロトコル言明を科学の出発点とすることはできない。ターブラ・ラサは存在しない。公海上で船を造り直さなければならない船員と同じように、それをドックのなかで解体したり、最良の材料を用いて新たに建造したりすることは決してできないのである。」(ノイラート「プロトコル言明」竹尾治一郎訳(『現代哲学基本論文集 I 』(坂本百大編、勁草書房)p. 169)観察報告のような言明も、他の言明に依存しており理論負荷的である。それゆえに、「ターブラ・ラサ(白紙)」の状態から出発することはできない。

これは、科学の基礎づけないし正当化を巡る議論であるが、これと同じことが、人文社会科学についても言えるだろう。社会の目標について検討し、それを批判したり、正当化したりしようとしても、私たちは、社会という船の外に出て、船をチェックしたり修理したりすることはできない。

 では、学問にとって第二の有効性は可能なのだろうか? あるいは、どうしたら可能なのか?

03 学問の意義(第二の有用性)(20190619)

前回述べたように、学問は、ある目的を実現するという有用性(第一の有用性)だけでなく、その目的を理解し正当化するという有用性(第二の有用性)をもつだろう。そして、人文社会科学は、自然科学より以上に、この第二の有用性にかかわっている。

学問研究は、多様な目的の実現に役立つ。自然科学は、例えばロケットを作ることにも役立つ。そしてロケットを作ることは、より上位の様々な目的をもつ。それはミサイルを作ること、人工衛星をあげること、宇宙基地を作ること、月にゆくこと、など無数にあるだろう。ある自然科学研究が一つの目的にしか役立たないということはあり得ない。自然科学と工学によって何かが実現したとすると、それは多くの他の目的の実現にも役立つ。自然科学の成果は、汎用性を持っている。

ある自然科学研究の成果は、他の自然科学研究にも役立つ。物理学の研究は、化学の研究や生物学の研究にも役立つだろう。さらに、自然科学の成果は、社会科学、人文学の研究にも役立つだろう(例えば、炭素の同位元素による年代確定が、考古学に役立つ)。

学問研究の成果は、一方では他の学問研究に役立ち、他方では学問研究以外の目的にも役立つ。これは、社会科学にも、人文学にも成り立つだろう。

歴史学は、領土問題や戦争責任問題の解決に役立つだろう。女性史研究は性差別の撤廃に役立つだろう。制度史死や思想史は、現在の制度を理解し、改良するのに役立つだろう。「人権」や「プライバシー」の概念やそれにかかわる制度がいつどのように成立したのかを知ることは、人権やプライバシーに関する問題を解決するのに役立つだろう。学校制度の歴史を知ることは、現在の学校制度を理解し、改良するのに役立つだろう。

漱石の研究は、西洋文明にであった非西洋の知識人の反応の研究に役立つだろう、また非西洋における西洋文学の受容、生産の研究に役立つだろう。日本の近代史の研究に役立つだろう。現代小説の理解にも役立つだろう。このように人文学研究もまた汎用性を持つ。

人文学研究は、他の人文学研究に役立つことが多く、学問外の利用は自然科学に比べて少ないと思われているかもしれないが、そうではない。私たちの日常生活は、歴史的社会的に形成されたものであり、経済システムや政治システムや学校制度などは、私たちにとって常識となっている人文社会学的な知識によって構成されている。民主主義や試験制度や免許制度や選挙制度などについての常識的な知識なくして、日常生活はなりたたない。そして、日常生活への信頼は、常識的な人文社会学的知識の吟味によって正当化されている。それゆえに、日常生活を維持し、理解し、修正し、正当化するために、人文社会学は不可欠である。

人文社会科学が社会の役に立たないと思っている人がいるとすれば、その人は、社会についての常識的な理解が、(この理解によって社会が構成されているのだから)つまりは社会そのものが、人文社会科学の成果によって構成されていることに気づいていないのである。例えば、西洋近代に登場した民主義の理論や憲法の理論や国家論などがなければ、現在の社会はなりたたない。それは、電気の理論がなければ、現在の電化生活が成り立たないのと同様である。

最後に述べた人文社会科学の第一の有用性が、このようなものであるとすれば、第一の有用性と第二の有用性の区別は、自然科学では明確であるが、人文社会科学ではそれほど明確ではない。例えば、民主主義の研究は、社会をより民主的なものにするという目的の実現に役立つだろう。しかし、「民主的な社会とはどのような社会なのか」に答えなければ、この目的を実現できない。そして、この問いに答えることは、「民主主義とはなにか」「それをどう正当化するか」「それをどう評価するか」という問いに答えることと密接に関係している。民主主義の研究に関しては、第一の有用性と第二の有用性を明確に区別することが難しい。

人文社会科学研究では、その研究対象が政治システムであれ、経済システムであれ、文化システムであれ、研究対象そのものが価値判断で構成されていることがおおく、事実認識と価値判断を明確に区別することが困難な場合がおおい。

この二つの有用性の区別が難しいと言うことが、自然科学に関しては、科学と技術が区別されることが多いのに対して、人文社会科学ではそれに対応する区別がほとんどなされないことに表れている。政治学と政策学、経済学と経営学、などの区別は曖昧で或る。(原理的には、自然科学においても、科学と技術の区別は困難である。)

02 学問の意義(有用性)(20190612)

(6月12日にupしたつもりでしたが、されていなかったので、upします。)

学問の有用性とは何だろうか?

第一に、それは学問が何かの目的を実現するのに役立つということである。

自然科学は、例えばより便利な道具を作るという目的に役立つ。医学は、例えば病気を治すという目的に役立つ。経済学は、経済活動の予見やコントロールという目的に役立つ。法学は、法制度の研究とそれに基づく改訂を通して、公正な社会の実現という目的に役立つ。歴史学は、現在の社会の成立過程の研究を通して、未来社会の予見とコントロールに役立つ。芸術研究は、芸術の歴史研究をつうじて、未来の芸術の創造とコントロールに役立つ。哲学は、これらの諸学問の基礎的な概念の分析や方法を分析して、諸学問の改訂や正当化に役立つだろう。

 多くの場合、目的はより上位の目的をもつ。哲学がこれらの諸学問の目的に役立つとするとき、諸学問の目的はさらにより上位の目的を持つだろう。自然科学が、たとえば便利な道具を作るという目的をもつとき、便利な道具をつくることは、生活をより快適にするというより上位の目的を持つだろう。生活をより快適するというその目的はさらにより上位の目的をもつだろう。

学問を有用なものとするこれらの目的のより上位位の目的を遡っていけば、何に行き着くのだろうか。おそらくは、社会が存続する目的、人間が生きる目的、人類が存在する目的などに行き着くだろう。では、社会や人間や人類は、何のために存在するのだろうか。学問もまた、究極的にはこの目的のために有用なのである。

 「社会や人間や人類は、何のために存在するのだろうか」というこの問いは哲学的な問いである。なぜなら、この問いは、学問の有用性を考えるときに普通に考える問いより深く広い問いだからである。従って、この問いに答えることは、哲学の仕事である。

この問いに答えることもまた、有用性をもつだろう。たとえば「社会が存続する目的は何か」に答えられたならば、その答えは社会の存続に役立つだろう。「人間が生きる目的は何か」に答えられたならば、その答えは人間が生きることに役立つだろう。「人類が存在する目的は何か」に答えられたならば、その答えは人類の存在に役立つだろう。なぜなら、これらの目的がわからなければ、社会の存続や、人間が生きることや、人類が存在することのための活動の意味や動機が失われるからである。

しかしこの有用性は、ある目的の実現に役立つという通常の意味の有用性とは異なっている。この有用性は、社会や人間や人類の活動や存在を理解し正当化するに役立つという有用性である。目的の実現に役立つという有用性ではなく、目的を理解し、目的の実現を正当化するのに役立つという有用性である。

学問には、このような意味の有用性もある。次にこの第二の意味の有用性について考えよう。

01 学問の意義(知的好奇心) (20190602)

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学問の意義は(哲学であれ、自然科学であれ、人文社会科学であれ)、知的好奇心を満たすこと、および有用性にあるだろう。

知的好奇心とは、「・・・を知りたい」という欲望である。しかし、「長生きするための方法を知りたい」とか「お金儲けの方法を知りたい」というのは、普通は知的な好奇心とはいわない。なぜなら、それは「長生きしたい」とか「お金を儲けたい」という欲望から生じる欲望であり、「長生きしたい」とか「お金を儲けたい」という欲望を実現するのに有用だから、それを知りたいと思っているからである。知的な好奇心とは、単に知るという喜びのために、知を求めることであって、何かの実現のために何かを知ろうとする欲望ではない。

では、ドラマを見ていて「この後どうなるのか知りたい」と思う場合はどうだろうか。その後のストーリーを知っても何かの役に立つわけではない。では、このような欲望は、知的好奇心だといえるだろうか。普通は、このような欲望もまた、知的好奇心とは呼ばない。なぜなら、知的好奇心は、世界についての真理や事実を知りたいという欲望であるのに対して、ドラマは虚構であり、「この後どうなるのか」の答えを知っても、それは虚構の中の出来事についての知識だからである。

では、世界についての事実と虚構との中間であるように思われる、詰め将棋の答えや数独の答えを知りたいという欲望はどうだろうか。これらは知的好奇心だろうか。その答えは、将棋の世界や数の世界の中での真理である。将棋のルールや数学や論理学の規則は、私たちの取り決めによって構成されたものである。その限りにおいて、ドラマの中の出来事と同じである。自然科学もまた、構成されたものである。理論の内部でしか何が存在するか、何が真理であるか、何が事実であるか、を語れない。内部実在論(世界に何が存在するかは、一定の理論の内部でのみ語ることができる、とする立場)において、構成主義的に科学を理解するとき、ドラマに対する「この後どうなるのだろうか?」という好奇心も、科学的な好奇心も、原理的に区別できないことになる。このように考えるとき、ドラマについて「この後どうなるのか知りたい」という欲望もまた、知的好奇心の一種だといえるかもしれない。

知的好奇心がこのようなものであるとして、このような知的好奇心はなぜ生じるのだろうか。あるいは、そのような知的好奇心は、本当に存在するのだろうか。フロイトは真理への愛というようなものを否定した。そこには隠された欲望が働いているということになるだろう。フロイトならば、知的好奇心を満たすことが哲学の意義であるという主張を否定するだろう。

もし学問の意義の一つが、知的好奇心を満たすことだと考えようとするならば、「知的好奇心があるのかどうか」、「あるとすれば、それはなぜあるのか」、「それはどのようなときに生じるのか」などに答えなければならない。しかし、これらに答えるにはまだ準備が足りないので、とりあえずは、学問のもう一つの意義だと思われる「学問の有用性」のほうから考えることにしよう。「学問の有用性とは何だろうか?」