01 学問の意義(知的好奇心) (20190602)

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学問の意義は(哲学であれ、自然科学であれ、人文社会科学であれ)、知的好奇心を満たすこと、および有用性にあるだろう。

知的好奇心とは、「・・・を知りたい」という欲望である。しかし、「長生きするための方法を知りたい」とか「お金儲けの方法を知りたい」というのは、普通は知的な好奇心とはいわない。なぜなら、それは「長生きしたい」とか「お金を儲けたい」という欲望から生じる欲望であり、「長生きしたい」とか「お金を儲けたい」という欲望を実現するのに有用だから、それを知りたいと思っているからである。知的な好奇心とは、単に知るという喜びのために、知を求めることであって、何かの実現のために何かを知ろうとする欲望ではない。

では、ドラマを見ていて「この後どうなるのか知りたい」と思う場合はどうだろうか。その後のストーリーを知っても何かの役に立つわけではない。では、このような欲望は、知的好奇心だといえるだろうか。普通は、このような欲望もまた、知的好奇心とは呼ばない。なぜなら、知的好奇心は、世界についての真理や事実を知りたいという欲望であるのに対して、ドラマは虚構であり、「この後どうなるのか」の答えを知っても、それは虚構の中の出来事についての知識だからである。

では、世界についての事実と虚構との中間であるように思われる、詰め将棋の答えや数独の答えを知りたいという欲望はどうだろうか。これらは知的好奇心だろうか。その答えは、将棋の世界や数の世界の中での真理である。将棋のルールや数学や論理学の規則は、私たちの取り決めによって構成されたものである。その限りにおいて、ドラマの中の出来事と同じである。自然科学もまた、構成されたものである。理論の内部でしか何が存在するか、何が真理であるか、何が事実であるか、を語れない。内部実在論(世界に何が存在するかは、一定の理論の内部でのみ語ることができる、とする立場)において、構成主義的に科学を理解するとき、ドラマに対する「この後どうなるのだろうか?」という好奇心も、科学的な好奇心も、原理的に区別できないことになる。このように考えるとき、ドラマについて「この後どうなるのか知りたい」という欲望もまた、知的好奇心の一種だといえるかもしれない。

知的好奇心がこのようなものであるとして、このような知的好奇心はなぜ生じるのだろうか。あるいは、そのような知的好奇心は、本当に存在するのだろうか。フロイトは真理への愛というようなものを否定した。そこには隠された欲望が働いているということになるだろう。フロイトならば、知的好奇心を満たすことが哲学の意義であるという主張を否定するだろう。

もし学問の意義の一つが、知的好奇心を満たすことだと考えようとするならば、「知的好奇心があるのかどうか」、「あるとすれば、それはなぜあるのか」、「それはどのようなときに生じるのか」などに答えなければならない。しかし、これらに答えるにはまだ準備が足りないので、とりあえずは、学問のもう一つの意義だと思われる「学問の有用性」のほうから考えることにしよう。「学問の有用性とは何だろうか?」