4 分人主義は、日本的な発想か、先端的な発想か (20140516)
分人主義は、<同調圧力の強い社会の中で、社会や他者との対立葛藤を避るために、自分の主張や慾望を抑制して、自己内に矛盾を抱え込む>という特徴をもつのだろうか。
平野氏によると、「分人は、相手との反復的なコミュニケーションを通じて、自分の中に形成されてゆく、パターンとしての人格である。」(p. 7) 彼の考える分人は、個人主義の個人のように社会から分離・独立したものではなくて、相手とのコミュニケーションの中で成立するものである。もしそうならば、集団主義的な日本人(?)と同じく、分人もまた、相手との関係において対立を避けるために、自己を抑制することになるだろう。分人は、相手との関係において対立を避けるために抑圧した自己を、別の人や集団を相手にする別の分人において解放するのかもしれない。それによって、自己矛盾を解決しようとするのかもしれない。しかし、それなら、会社員が会社で押さえ込んだ不満を、飲み屋で解消しようとすることとかわらない。違いがあるとすれば、この会社員が本音と建前の区別として理解していることを、どちらも本音である二つの分人として理解することである。
もし分人主義をこのように理解するのならば、それは旧来の本音と建前の自我論とは異なるにしても、やはり<同調圧力の強い社会の中で、社会や他者との対立葛藤を避けるために、自分の主張や慾望を抑制して、自己内に矛盾を抱え込む>という日本的な(?)自我論の一種となる。
では、分人主義を、日本に限らず多元化が進む現代世界に必要とされる自我論だと理解しようとするとどうなるだろうか。現代社会では、私たちが生活する上で付き合う人々や集団は以前より多様になっている。インターネットや携帯電話などの新しいコミュニケーションのチャンネル増えたこと、国際化が進んで多様な文化の人々との交流が増えていること、などの理由が考えられる。それらの多様な相手に、一様な仕方で対応することは困難である。そこで、それぞれの場面で、パーソナリティを切り替えることが必要になる。職場で、家庭で、ネットで、親類の集まりで、分人を使い分けることになる。
これは従来の役割論とどう異なるのだろうか。従来の役割論は、一人の個人が複数の役割を引き受けていることを認める。例えばその役割の一つに「夫」があるといえるだろう。しかし、「夫」の有り様は、夫によって千差万別である。役割論は、そうした社会的な役割カテゴリーの束として個人を捉えるのだろう。しかし、分人は、社会的なカテゴリーとは別である。妻を相手にしているときの分人は、人によって様々である。それらの分人を「夫」分人として分類することに意味は無い。私が複数の分人の束だとしても、それは社会的なカテゴリーの束ではない。一つ一つの分人は、一般的なカテゴリーなのではなくて、一つ一つの分人は、個人が固有性を持つの同様に、固有性を持っている。
分人の一つ一つが固有性をもつということ、分人の一つ一つが本当の自分であるということ、これらが従来の自我論と異なるところである。それに加えて、平野氏は、次のように、分人同士が矛盾することを積極的に評価する。
「一人の同じ人間が、まったく思想的立場の異なるコミュニティーに参加しているとする。個人として考えるなら、それは矛盾であり、裏切りだ。…しかし分人の観点からは、これが可能となる。それぞれのコミュニティには、異なる分人で参加しているからだ。そして、むしろまったく矛盾するコミュニティに参加することこそが、今日では重要なのだ。」「私たちは、一人一人の内部を通じて、対立するコミュニティに融和をもたらしうるのかもしれない。」(p. 173)
平野氏は、分人同士が矛盾するのは、ある分人として我慢したことを、他の分人として発散するという文脈ではなく、「対立するコミュニティ」に属するそれぞれの分人が矛盾するのだと考える。そのような矛盾する分人を抱える人によって、むしろ対立するコミュニティの融和の可能性を探ろうとする。
自己のうちに矛盾を抱えるのは、弱さの現れであり、状況から圧力のせいであるとかんがえる限りは、平野氏のこのような文脈での矛盾の説明にも関わらず、分人主義は、日本的な態度の現代版であると言えそうにも見える。
ただし、自己のうちに矛盾や葛藤を抱えるということが、単に社会の同調圧力の結果という意味だけでなく、自己のうちの矛盾に関してはもう少し複雑な事態が在るかもしれない。