04 非合理性とは何か? (20200515)

[カテゴリー:日々是哲学]

 哲学でも、「非合理性」が議論されることがしばしばありますが、非常に多様な仕方で語られます。それは行為の非合理性であったり、決定の非合理性であったり、感情の非合理性であったりします。それらの多様な非合理性をまとめて共通要素を取り出して扱うことができるのか、それとも多様な非合理性のそれぞれについて区別して分析すべきものなのか、曖昧なことが多いです。

 そこで、ここではまず次を提案したいと思います。

  <合理性/非合理性は、問いに対する答えがもつ性質である>

現代の真理論では、真理の担い手(truth bearer)と真理の作り手(truth maker)を区別して議論されます。真理の担い手とは、「…は真である」という述語が述定される対象のことあり、命題や発話が真理の担い手とされることが多いとおもいます。真理の作り手とは、真理の担い手に真とならせるものものであり、対応や整合性などが考えられることがあります。真理論については、別途論じることにして、ここでは、この担い手と作り手の区別を「合理性/非合理性」に当てはめて考えたいと思います。

  <合理性/非合理性の担い手は、問いに対する答えである>

 問いの答えは、合理的であったり、非合理であったりするということです。信念、行為、感情、欲求などについて、非合理であると言われることがありますが、その理由は、これらが問いに対する答えとなるからだと思われます。(これらは、問いの答えとして、合理的なものである場合もありえます。)

 これらは、人間の反応や振る舞いの一種ですが、これらとは異質なものである「制度」についも、制度が合理的とか、制度が非合理とか言われることがあります。制度が合理的なものや非合理なものであるのは、制度が問題の解決(問いの答え)であるからである。(社会制度(社会組織と社会規範)が社会問題の解決策であるということについては、カテゴリー「問答としての社会」で論じています。)

 ちなみに「自然は合理的である」と言うことができる。このように語ることができる理由は、自然が問いに対する答えであるからではなくて、自然についての真なる記述が、つねに問いに対する答えとして合理的だからだといえるだろう。

 (問いもまた、それの問い自体が上位の問いの答えであるときには、合理性/非合理性の担い手となりうる。つまり「合理的な問い」や「非合理な問い」がありうる。)

 合理性/非合理性の作り手について、つぎに考えてみます。

03 プラトンと龍樹から (20200512)

前回の知の成立を説明する上での難問に対するプラトンの答え、より正確には対話篇のなかでのソクラテスの答えは、少し長いですが、次の通りです。

「魂は不死なるものであり、すでにいくたびとなく生まれ変わってきたものであるから、そして、この世のものたるとハデスの国のものたるとを問わず、いっさいのありとあらゆるものを見てきているのであるから、魂がすでに学んでしまっていないようなものは、何一つとしてないのである。だから、徳についても、その他いろいろの事柄についても、いやしくも以前にもまた知っていたところのものである以上、魂がそれらのものを想い起すことができるのは、何も不思議なことではない。なぜなら、事物の本性というものは、すべて互いに親近なつながりをもっていて、しかも魂はあらゆるものをすでに学んでしまっているのだから、もし人が勇気を持ち、探求に倦むことがなければ、ある一つのことを想い起したこと――このことを人間たちは「学ぶ」と呼んでいるわけだが――その想起がきっかけとなって、おのずから他の全てのものを発見するということも、充分にありうるのだ。それはつまり、探求するとか学ぶということは、じつは全体として、想起するということにほかならないからだ。」

(『メノン』藤澤訳、81C-D)

彼は想起によって知の成立を説明します。これが有名なプラトンの「想起説」です。

ところで、龍樹もまたこれとほぼ同じ論証をしています。

「認識されたもの、あるいは認識されていないものについて疑惑を抱くことはない。(前者はすでに)存在し、(後者はいまだ)存在しないからである。

 このばあい人は、すでに認識された対象か、いまだ認識されていない対象か、あるいは現に認識されつつある対象について疑惑をもつのであるが、すでに認識されおわった対象について疑惑をもつことはありえない。まだ認識されていない対象についても疑惑をもつことはありえない。そして(以上の二つと別に現在)認識されつつあると言われるような、第三の対象も存在しないのである。したがって、疑惑は存在しないのである。」(龍樹「ヴァイダルヤ論」118a、梶山雄一訳(『大乗仏典14』中公文庫)p.208-209)

この「疑惑」を「問い」と置き換えてもよいでしょう。<認識されている対象ついてはもはや問う必要はないし、認識されていないものについては問いを抱くこともできない。したがって、「問い」というものは存在しない>というのがここでの龍樹の主張です。

この主張に対して、龍樹は次のような反論を予想しています。

遠くに、杭であるのか人であるのかはっきりとしない対象が見える時、「あれは杭であるのか、人であるのか?」という問いが生じる。「(対象の)特殊性(についての認識)が欠けているために(起こるの)である」(p.209)

この反論に対する龍樹の応答はこうである。

「もし真知の特徴が欠けているならば、それは無知であって、疑惑ではない。」

「特殊性を見て、知識となり、特殊性を見ない場合には無知が生ずるのである。頭をめぐらしたり、手を動かしたりすることなどを見れば、疑惑が生じることはない(で真知となる)のであり、特殊性がない時には無知にほかならない。すなわち、こうなる。特殊性があれば知識となるし、それがなければ無知である。特殊性(の存在)と特殊性の無存在とが同時にあるような第三の場合はないのであるから、疑惑があるとはいえない。」p. 210f)

この反論には納得行きません。なぜなら「頭をめぐらしたり、手を動かしたりすることなどを見れば、疑惑が生じることはない」ということを認めるとしても、それではなぜ「「頭をめぐらしたり、手を動かしたりする」のでしょうか、それは疑惑(問い)が生じるからではないでしょうか。(疑惑)問いがなければ、これらの行為を説明できないでしょう。

私は、龍樹が想定している「対論者」の主張が正しいように思います。対象について、一部は知っており、一部は知らないので、その知らない部分についての疑惑(問い)が生じるというのが、対論者の主張です。これに対する龍樹の反論は、対象を部分に分けるとしても、それぞれの部分については、知か無知しかなく、それゆえに疑惑(問い)はない、というものになるのだと思います。

 このような反論を回避するため次のような問いを考えてみたいとおもいます。

  「xさんの車はどれですか?」

この問いは、「xさんの車」がどの車を指示するのかを尋ねています。

フレーゲは固有名(一つの対象を指示する語句)についてSinn(意味)とBedeutung(指示対象)を区別しました(通常は’Sinn’を「意義」、’Bedeutung’を「意味」と訳しますが、わかりにくいのでこのように訳します)。フレーゲは「意味」とは「指示対象の与えられ方」であると考えます。この問いを問う者は、「xさんの車」の意味を理解しています。しかし、その指示対象を知りません。問われた人が、「xさんの車は、あの赤い車です」と答える時、答える人は、「あの赤い車」の意味と指示対象を分かっています。返答者は、相手が「あの赤い車」の意味を理解し、その指示対象に辿りつけるだろうと想定して、この表現を答えに選んでいます。

 質問者が「あの赤い車」の指示対象にたどりつくとき、それが「xさんの車」の指示対象でもあるということです。「あの赤い車」と「xさんの車」はおなじ対象を指示する表現「共指示表現」です。

 問いを問う者は、意味と指示対象の区別にもとづいて問いを設定することができるのではないでしょうか。「その肺炎の原因は何ですか?」と問うことができるのは、「その肺炎の原因」の意味と指示対象を区別しているからです。

02 プラトン曰く (20200511)

「人間は自分が知っているものも知らないものも、これを探求することはできない。というのは、まず、知っているものを探求するということはありえないだろう。なぜなら、知っている以上、その人には探求の必要はないわけだから。また、知らないものを探求するということもあり得ないだろう。なぜならその場合は、何を探求すべきかということも知らないはずだから」(プラトン『メノン』藤澤令夫訳、80E)

皆さんは、これについてどう考えますか?

プラトンの答えと、龍樹の答えと、私の答えを、次回にupします。

01 「どうやって問いを立てたらよいのか?」(20200501)

 【このカテゴリーは、前に「身辺雑記」というカテゴリー(書庫)であったもののタイトルを換えて、カテゴリーリストの先頭に移したものです。

ここでは日々徒然なるままに考えたことを書き記したいとおもいます。徒然なる哲学日記のようなものです。「日日是問問)」(日々問いを問う)にしようかとも思いましたが、わかりにくいのでこのタイトルにしました。日々の哲学的断想を書き記します。】

 問いは答えの半製品であり、答えよりも問いがより重要であるということを、以前から主張してきました。最近ときどき、問題設定の重要性が語られるようになってきました。そのときによく語られることは「では、どうやって問いを立てたらよいのでしょうか?」という問いです。

 これにどう答えるかは、各人それぞれの目的に依存します。お金を儲けるため、成績を上げるため、より有意義な人生を送るため、世界をよりよく認識するため、などの目的によって、答えは異なってくるでしょう。ただし、どのような目的をもっていても、いつも役に立つ助言の一つは、「より深くより広い問いを立ててください」ということです。(ところで、私は哲学を「より深くより広く問うこと」と定義することを提案しています。したがってこの助言は「哲学してください」と言い換えることができます。)

 より深い問い、より広い問いに対する答えが見つからないとしても、それの答えを見つけようとするなかで、当初の曖昧な目的のためのより適切な問題設定が可能になるだろうと思います。そして、しっかりした問題設定のためには、こうしたことを考える時間が必要であり、気持ちの余裕が必要だろうと思います。

ピッツバーグ便り

10年ぶりにPittsburghに来ています。3か月弱の滞在予定です。
和辻の話が途中で止まっていて、続きは来年になりそうです。
Pittsburghは、非常に寒くなるだろうと思いますが、今のところは大阪より少し寒い程度です。
最高温度が15度前後です。メイプルの紅葉が始まっています。
この間家の近くでリスをみました。こちらにはリスが多いことを思い出しました。
なぜ日本にはリスが少ないのでしょうか。天敵がいるのでしょうか。

フィヒテの没後200年に

 
 
 
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フィヒテの没後200年に (20140130
昨日は、ドイツ観念論の哲学者Johann Gottlieb FichteMay 19, 1762 -January 29, 1814)の200回目の命日でした。フィヒテは、この日の午前5時になくなっています。Wikipediaの日本語ページと英語ページには、1月27日死亡と書いてありますが、それは間違いです。最近までドイツ語ページもまちがって27日死亡と書いてありましたが、本日確認すると、29日死亡に修正されていました。この間違いは、ヘーゲルが『哲学史』のなかで、フィヒテが1814年1月27日死亡したと間違って書いている事によるのだろうと思います。ヘーゲルがなぜ間違えたのは、調べていません。
 
というわけで、ことしは、没後200年の企画が世界中でいろいろと企画されています。
 
 

 

 
 

資本主義の暗い未来

                                     
 
 
資本主義の暗い未来
 
・経済のグローバル化によって資本の移動が用意になり、資本は安い労働力を求めて、中国やインドや東南アジアに移動しています(いずれは、アフリカへ)。そのために、そこでの労働力への需要は高まり、賃金は上昇しています。先進国の労働力への需要は減少し、賃金は下降しています。この動きは、最終的には、世界の賃金が均一化するまで続くでしょう。経済外的要因がそれを押しとどめようとしても、資本家は政治家に働きかけて、その要因をなくしてゆくでしょう。
・現在、資本は国境を超えて移動し、外国に工場を作ったりしますが、労働者は国境を超えて自由に移動できません。労働者が国境を越えて自由に移動できるようになったとき、国家の三要素(領土、主権、国民)の中の国民という概念がなくなります。
・日本経済は外国人労働者を受け入れない限り、活性化することはないように思います。もし1990年代に外国人労働者を受け入れていれば、日本経済は活性化していただろうと推測します。移民を受け入れることは、労働者が国境を越えて自由に移動することとは、異なりますが、そのための前段階だと言えます。
 
・他方で、技術の発達により、人間労働が機械によって代替されつつあります。物をつくる労働は、おそらくすべて機械に置き換わるでしょう。ロボットの能力は人間の能力を追い抜いて、人間よりもよりよい物を作れるようになるし、ロボットの価格には下限がありえないのに対して、人間労働の価格には、人間労働の再生産を可能にするための下限があるからです。
・かつて私が少年であった頃には、いずれロボットが生産してくれて、人間は労働から解放されるのではないかと夢想しました。しかし、今やロボットがどんなに発達して人間の労働に置き換わったとしても、人間の生活は楽にはならないことが分かりました。なぜなら、私たちが生活するにはお金がいるのですが、ロボットによって私たちの賃金は下がり、職場は少なくなるからです。
 
・現在インターネットの普及によって、流通の中抜きが進んでいます。生産者が直接に消費者に売るのです。例えば、本も、作家がつくった作品のデータを直接に読者に売るようになるでしょう。音楽もそうです。ニュースもそうなるかもしれません。そのときに、編集という仕事が重要なものに成るかもしれません。もう一つ重要なのは、宣伝です。
・重要な人間労働として残るのは、商品開発と宣伝になるかもしれません。宣伝は商品の良さを宣伝するので、最も重要なのは、商品開発です。よい商品を作ることです。
 
・私たちはどうしたらよいでしょうか。ロボットにできない高度な職業人、自営業者、資本家になれればよいでしょう。高度な職業人と自営業者はアッパ・ミドルを形成し、資本家は富裕層を形成し、その他の人々は、ロボットの価格と競争する低賃金労働者になるでしょう。
 
・これがグローバル資本主義の暗い未来です。
 
 

 

ユーロ危機の原因

Bolognaのパスタです。スパゲッティでなくて、別の名前でしたが忘れてしましました。
この食べ物も、グローバルな食べ物だと言えそうです。
 
ユーロ危機の原因は何か? (20121012)
 
2日前に、ユーロ危機についてのオランダ人の講演を聞きました。
その時に違和感を持ったので、それについて書くことにします。
その講演者は、ユーロ危機の原因は、産業構造の変化にあるのだというのです。つまり、
農業から工業への変化があり、現在工業からサービスへの産業の変化の時期であるから
危機が起きているのだというのです。そこで、それへの対処法としては、イノヴェーションを起こして
生産性を高めるしかない。そしてそのためには、高等教育の強化が必要だ。
後で思ったのですが、これがおそらく新自由主義者の理解なのでしょう。
 
ヨーロッパの財政危機は、日本やアメリカと同様に、富裕層と法人への減税のためなのではないでしょうか。したがって、この原因を取り除く必要があります、つまり富裕層と法人への税率を1980年ころの水準に戻すことです。新自由主義者は、この原因をすり替えて、さらに格差を広げようとしています。それが、富裕層や大企業にとっての最適の生き残り策なのでしょう。(財政学者がそれを指摘しないのはなぜでしょうか。御用学者は、原子力研究者だけではない、と考えざるを得ません。)
 
これで、もしロムニーが勝つと、世界はどうなってしまうのでしょう。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

正月に感じたこと

お雑煮です。
 
おめでとうございます。
この正月に感じたことを二つ記します。
 
(1)東アジア文化経済共同体?
久しぶりにvideoを借りに行くと、韓流映画のコーナーだけでなく、華流映画のコーナーもありました。日韓合作ドラマ、日中合作映画、中韓合作映画もたくさんあるようです。映画やTVドラマやポピュラー音楽の分野では、東アジア域内の交流がどんどん進んでいます。このまま進むと文化の領域では、アジアの共通市場ができそうです。文化と経済の面では、東アジア共通市場ができそうです。
 
(2)もう一つは、民主主義がうまく機能していないという言説と、様々な制度が民主的になっていないという言説が目についたことです。人々は、個々の問題のだけでなく、現在の政治システムそのものがうまく機能していないと感じているようです。つまり、原発や財政や年金など個別の問題ではなくて、これらの問題を解決する能力一般を現在の政治システムが持っていないということが明らかになっているように思われます。しかも、そのことに多くの人が気づいているのにもかかわらず、政治システムを修正するメカニズムが働いていないのです。政治制度は、社会問題を解決するものとして創設され、そのようなものとして正当性をもちます。社会問題を解決する能力を持たない政治制度は正当性を持ちません。それを変える必要があります。社会問題を確定して、その解決方法を決定し、それを実行するシステムを作り上げなければなりません。(さて、どうしたらよいのでしょうか。これについては、いずれ(人格論に区切りがつけば)書庫を立ち上げて考えたいとおもいます。)
 
今年もよろしくお願いします。