53 二つの数学と二つの論理学(20211106)

[カテゴリー:問答の観点からの認識]

#二つの数学

前回述べたように、アインシュタインとカルナップは、公理的幾何学と実用幾何学を区別しています。カルナップは、(幾何学を除く)数学については、公理的数学しか認めていないだろうとおもいます。しかし、アインシュタインは、数学についても公理的数学と実用的数学の区別を認めています。

 この二つの数学は次のように区別可能でしょう。公理的数学は、論理学の公理の集合をLとし、数学の公理の集合をMとするとき、L+Mの公理からなる公理体系であり、それらの語彙はヒルベルトのいう無定義術語ですが、その使用法は、その公理によって与えられています。物理学の公理の集合をPとするとき、物理学の理論は、L+M+Pの公理をからなる公理体系であり、その中での実用的数学の語彙の使用法は、L+M+Pの公理によって与えられています。

 L+Mでの数学の語彙は、実在に関わりませんが、L+M+Pでの数学的語彙は、実在に関わっています。たしかに、L+Mでの数学の定理は、L+M+Pのなかでも変化しません。その定理は増えもしないし減りもしません。しかし、Pの中にも数学的語彙が使用されているために、数学的語彙は実在に関わっているのです。L+Mで実在と関係しない数学的概念や数式が、L+M+Pでは、実在に関わり、数式は、実在について妥当するように見えます。これはどうしてでしょうか。

 数を数えるという行為は、特定の対象、例えばリンゴを数えなくても可能です。しかし、リンゴを数えるという行為は、数を数えるという行為なしには不可能です。リンゴを数えるという行為は、数を数えるという行為をいわば「内包」しているように見えます。それは、日常のものを数える行為から、数を数える行為が抽象されたためでしょう。これは、土地を測量する行為から、幾何学が抽象されたのと同様です。つまり、私たちがL+Mを獲得したあとに、Pを加えて、L+M+Pを獲得したのではなく、(当初は未分化の)L+M+Pから抽象によって、L+Mを獲得したのだと考えることによって、L+Mの数学概念や数式が、L+M+Pで、実在に関わり妥当するのかを説明できます。

  発生的には Q1「リンゴ5個に7個を足せばいくつになりますか?」のような問いがまず生じ、そのような個数を問う多くの問答をかさねるなかで、Q2「5+7はいくつですか?」というような抽象化された問いが成立したのではないでしょうか。

 これと同じことが論理学にも言えるでしょう。

#二つの論理学

二つの幾何学や二つの数学の区別と同様の区別が、論理学についても言えるでしょう。つまり、公理や推論規則を規約して、それらの意味論的規則によって真となる命題の体系、および妥当となる推論の体系を「公理的論理学」あるいは「純粋な形式論理学」とよび、他方で、現実の世界(自然や社会)で成り立っている論理的な関係の体系を「実用論理学」あるいは「実質論理学」として区別できるように思えます。

 論理体系の公理の集合をLとし、数学の公理の集合をMとし、物理学の公理の集合をPとするとき、純粋な形式論理学の語彙の意味(使用法)は、Lによって与えられており、実質論理学の論理的語彙の意味(使用法)は、L+M+Pによって与えられています。

 形式論理が現実世界で成り立つことは、幾何学や数論の場合と同様に、次のように説明できるでしょう。まずは日常生活での推論があり、その中での論理的語彙の使用があります(これブランダムが「実質推論」と読んだものに当たります)。形式論理は、現実世界(日常生活や科学)で成立しているこのような論理的な関係から抽象して作られたものであるから、現実世界で成立するのです。

  ところで、論理体系には様々なものがあり、互いに両立しないものもあります。しかし私達は科学理論を考えるときにL+M+Pの中のLとして、ある特定の論理体系の公理の集合を選択しています。この選択がどのように行われるのかを、次に考えたいと思います。

52 宇宙はユークリッド空間か非ユークリッド空間か?(20211105)

[カテゴリー:問答の観点からの認識]

 ポワンカレは、『科学と仮説』で<ユークリッド空間を維持しながら、理論の方を複雑化することによって、現象を説明する>という可能性と、<非ユークリッド空間を採用して、理論を簡単にする>という可能性の二つの可能性があることを主張しました。

(参照、カルナップ『自然科学の哲学的基礎』「第15章 ポアンカレ対アインシュタイン」。私はポアンカレの『科学と仮説』(岩波文庫訳)を持っているはずなのですが、今見つからないので、ここでの話はカルナップのポワンカレ論に基づいています。)

 アインシュタインもまたポワンカレの二つの可能性の指摘を認めます。

「幾何学Gは実在の物の関係に就いて何も云うものでなく、唯之と物理学的法則の総概念Pと一緒になって初めてそれを云いあらわすのです。記号的に之を述べればG+Pなる和のみが経験の支配に対応するのです。つまりGは勝手に選ぶことができるので、またPの部分もやはりそうなのであって、これらはみな規約なのです。ただ矛盾がおこらないためにはGと全体のPとが一緒になって経験にかなう様にPの残りを選ぶ必要があるだけです。…私の考えではポアンカレの斯ような見解は本来正しいと思われます。」(アインシュタイン「幾何学と経験」石原純訳、4)

しかし、アインシュタインは、<非ユークリッド空間を作用して、理論を単純なものにすること>を選択します。その理由は、ユークリッド空間を維持したまま、理論を複雑化することによって、現象を説明しようとするとき、理論の複雑化の負担が大きすぎると考えたからです。カルナップもまたアインシュタインのこの方針に賛成しています。観察データと一致する<幾何学+理論>には、複数の可能性があってその選択は、全体としてより単純な方を選択するということが行われています。相対性理論についてのこのような理解によれば、相対性理論の正しさは、帰納に基づいていることになります。

「数学の定理が実在に関するならそれは確実のものではありません。またそれが確実であるなら実在に関係しはしません。」(アインシュタイン「幾何学と経験」石原純訳、p.1)

「それ(実用幾何学)の叙述は本質的に経験からの帰納に依存するのであって決して単に論理的の帰結に依るものではありません。」(同訳3)

  

アインシュタインによれば、公理的幾何学(数学的幾何学)は、確実なものであるが、実在には関係せず、実用幾何学(物理的幾何学)は、実在に関係するが、確実なものではなく帰納に基づくものなのです。したがって、一般相対性理論もまた確実なものではなく、帰納にもとづくものであることになります。したがって、科学理論の公理は、帰納に基づくことになります。

 科学理論の公理が、帰納に基づいているとすれば、それは単に現象を記述している全称命題ではなく、それ以上の<必然性>を帰納にもとづいて主張しているといえますが、しかしその<必然性>は演繹されたものではありません。自然科学の法則は、またその法則による説明は、究極的には帰納によって想定されるもの以上のものではないのです。

アインシュタインは、公理幾何学と実用幾何学の区別と同様の区別が、数学全体に関してもなりたつと考えています。上の引用がそのしょうことなります。それを再度引用しましょう。

「数学の定理が実在に関するならそれは確実のものではありません。またそれが確実であるなら実在に関係しはしません。」(アインシュタイン「幾何学と経験」石原純訳、p.1)

したがって、アインシュタインは、公理的数学と実用数学という二種類の数学を区別していたといえるでしょう。

 このことは『論考』のウィトゲンシュタインやカルナップが、論理学と数学を共に、実在には関係しないものと考えていたことは異なります。私は、アインシュタインと同様に、幾何学について公理的幾何学と実用幾何学を分けるのならば、数学についてもこの区別が可能だと考えます。

 ただし、アインシュタインが論理学についてもこの区別が可能と考えていたかどうかは、よくわかりません。次回は、数学と同様に、論理学についても、(実在に関わらない)公理的論理学と(実在に関わる)実用論理学を区別できるのかどうかを、検討したいとおもいます。

51 科学理論の公理はどのようにして法則になるのか?(20211103)

[カテゴリー:問答の観点からの認識]

前回つぎのように述べました。

全称命題は、それが成り立つ原因の説明を伴う時に、法則とみなされます。そして、経験法則を法則にするもの、つまり経験法則の原因を説明する命題は、理論法則です。そして、理論法則を法則にするものは、より上位の理論法則です。では、より上位の法則を持たない最上位の理論法則は、どのようにして法則になりうるのでしょうか? これが前回述べた次のような問題でした。

「科学理論の公理体系の場合に、公理となる理論法則の場合はどうだろうか。その理論法則は、より上位の法則を持たない。これは、それに用いられる理論的語彙の意味論的規則によって法則となるのだろうか。それとも、それを法則とするのは、帰納法や自然の斉一性原理のようなものだろうか。(これについて、次回考えたいと思います。)」

さて、科学理論の公理体系は、論理学の公理と数学の公理に科学理論の公理を加えたものと推論規則からなります。あるいは、数学の公理と科学理論の公理と論理学の自然推論系の基本推論規則を加えたものからなります。(数学の公理と推論規則は、それ自体が規約として成立します。あるいは、数学の公理や推論規則で用いられています。数学的語彙や論理的語彙の意味論的規則を規約することに基づいています。)この科学理論の公理は、なぜ法則となりうるのでしょうか。これは、公理なので、より上位の法則を持ちません。

 では、科学理論の公理を法則とするのは、「自然の斉一性原理」でしょうか。確かにあらゆる自然法則は、「自然の斉一性原理」を前提としている、あるいは内含していると言えるでしょう。しかし、仮に「自然の斉一性原理」を認めるとしても、それだけでは、科学理論を導出するには、不十分です。

 もし科学理論の公理を導出できる法則が他にあれば、それがその科学理論の公理となり、それまで公理とみなされていたものは定理であることになります。したがって、科学理論の公理が公理の資格を持つ限り、それを導出する法則はありえません。

 では、科学理論の公理が単なる全称命題ではなく、法則とみなされるのは、規約によるのでしょうか。(数学や論理学の公理と同様に)そこに用いられる理論的語彙の意味論的規則の規約によって法則となるのでしょうか。しかし、もしそうならば、この法則と事実との一致や対応は、(たとえこれらを見かけ上のものだと見なすとしても)、どのようにして説明可能になるのでしょうか。

 ここで数学と自然科学の境界にある「幾何学」について考えてみましょう。ヒルベルトの『幾何学の基礎』では、幾何学の用語は、無定義術語であり、その意味は、公理において示されたその使用の仕方であると考えられます。そのようなヒルベルトの幾何学は、現実の物理世界とは無関係なものです。カルナップは、幾何学を、数学的幾何学と物理的幾何学に区別し、前者は分析的でアプリオリであり、後者は綜合的でアポステリオリであると考えました。この後者の物理的幾何学は物理学の一部であり、その公理は物理学の公理の一部となります。

 しかし、この二つの幾何学は、同一の公理から成る同一の公理体系である。違いは、物理的幾何学の幾何学用語は無定義術語ではなく物理世界の対象を指示しており、公理や定理は、物理世界の事実に対応している、とい

これとどうような区別をアインシュタインも説明しています。アインシュタインは、講演「幾何学と経験」(1921)(石原純訳、http://fomalhautpsa.sakura.ne.jp/Science/Einstein/kikagaku-keiken.pdf)において、幾何学を「純粋の公理幾何学」と「実用幾何学」に分けています。そして「公理幾何学」がなぜ自然に妥当するのか、なぜ「実用幾何学」になりうるのかを、次のように説明します。

「幾何学はその単純な論理的形式的な性質を虚脱してしまって,公理主義的に立てられた空虚な概念様式に対し更に実在の経験的対象(体験)を相当させなくてはなりません。之を実行するためには私達は次の律則(proposition)を附け足せばいいのです。

固体はその位置配列の可能性に関して丁度三次元のユークリッド幾何学の立体の通りの関係をもっています>

斯うなれば即ちユークリッド幾何学の諸定理は実際上の剛体の関係を云いあらわすようになります。」(同訳3)

この「律則」は、数学的概念と自然科学の概念を結びつける規則です。これは「対応規則」(つまり自然科学内部で、観察語と理論語を結びつける規則)に似ています。対応規則によって、理論は観察と結びつくのですが、ここでは、この「律則」によって公理幾何学(数学)の概念と実用幾何学(自然科学)の概念を結びつけるのです。アインシュタインは、この「実用幾何学」は、物理学の基礎的な部分であり、それは経験からの帰納によって正当化されている、と述べています。

「斯様に補足された幾何学は,明らかに一つの自然科学であります。私たちはそれをあたか恰 も物理学の最も原始的な分科として見なすことが出来ます。それの叙述は本質的に経験からの帰納に依存するのであって決して単に論理的の帰結に依るものではありません。」(同訳3)

時間と距離は、多くの物理法則における重要な変数ですが、これらは実用幾何学に概念です。

「物理学上のすべての長さの測定はこの意味に於ける実用幾何学です。測地学や天文学上の長さの測定もこれと同様であって,そこではな尚お手段として,光が直線,但し実用幾何学で意味する直線に進むと云う経験的法則を用いるまでのことです。」(同訳3)

では、公理幾何学と実用幾何学はどこが異なるのでしょうか。公理的幾何学と物理的幾何学の間には、体系としては違いはないでしょう。公理も定理も同じです。ただし、実用幾何学は、論理学と(幾何学を除く)数学の公理に、(物理学の公理としての)幾何学の公理が加わったものに、さらに物理学のその他の公理が加わった物理学の公理体系の一部分を構成することになります。これによって、「点」「線」「面」「長さ」などの概念の意味は、幾何学の公理によって規定されるだけでなく、物理学の他の諸公理によってもまた規定されます。それによって、公理的幾何学の概念は、自然現象と結びつくことが可能になるのです。これにたいして、公理幾何学の概念の意味は、論理学の公理と幾何学の公理とその他の数学の公理からなる公理体系によって、あたえられることになります。この点で、実用幾何学の概念の意味とは区別されます。

 次に、この実用幾何学の理解は、「この宇宙は、ユークリッド空間なのか、非ユークリッド空間なのか」という問題とどう関係するのかを説明します。この問題は、自然科学における公理が、どうして法則になりうるのか、という問題と関係しています。

50 経験法則と理論法則の関係について (2021103)

[カテゴリー:問答の観点からの認識]

前回の最後に、次を説明すると予告しました

<法則は、経験法則と理論法則に区別可能であるが、経験法則は、他の全称命題を導出してもそれを法則とすることはないが、理論法則は、他の全称命題を法則にすることが可能である。>

しかし、これが成立しないことがわかりましたので、まずそのことを確認しておきたいとおもいます(サクサクと進まなくてすみません)。

この冒頭部分について。

  <法則は、経験法則と理論法則に区別可能である>

カルナップも言うように、厳密には、経験法則と理論法則を区別することはできないのですが、しかしこの区別をとりあえずは受け入れておきます。次に残りの部分

<経験法則は、他の全称命題を導出してもそれを法則とすることはないが、理論法則は、他の全称命題を法則にすることが可能である。>

この部分を次のように書き換えるべきだと考えます。

<全称命題は、それだけでは法則となるには不十分である。(論理法則の場合を除いて)法則は、常に他の法則から導出されている必要がある。>

#経験法則の場合

<経験的全称命題が経験法則になるためには、他の法則(経験法則ないし理論法則)から導出される必要がある。経験法則は、最終的には理論法則によって、法則として導出される。>

#理論法則の場合

理論法則もまた他の理論法則から導出されることによって法則になるだろう。では、科学理論の公理体系の場合に、公理となる理論法則の場合はどうだろうか。その理論法則は、より上位の法則を持たない。これは、それに用いられる理論的語彙の意味論的規則によって法則となるのだろうか。それとも、それを法則とするのは、帰納法や自然の斉一性原理のようなものだろうか。(これについて、次回考えたいと思います。)

ちなみに論理法則については、次のように考えられると思います。

#論理法則の場合

論理法則の場合は、事情が異なる。論理体系の定理が法則となるのは、それが公理から導出されることによる(論理体系の定理と公理は、全称命題に書き換え可能である)。そして、公理は、他の法則から導出されなくても、法則である。なぜなら、公理が法則であることは、論理的語彙の意味論的規則(の規約)に基づくからである。


 [入江1]

 

49「法則」とは何か、問答の観点から (20211026)

[カテゴリー:問答の観点からの認識]

#法則と「なぜ」の問いの関係

提案:<全称命題pが、法則となるのは、それについての「何故pなのか?」という問いに答えがある時です、言い換えると、pの原因がある時です。>

(注1:ただし、この「何故pなのか?」という問いは、「p」の原因を問うものであって、「p」の根拠を問うものであってはなりません。では、原因を問う「なぜ」と根拠を問う「なぜ」をどのようにして区別したらよいでしょうか、これは宿題にさせてください。)

(注2:全称命題pは原因を持つことによって、法則になる、つまり必然性を持ちます。(この「必然的に成立する」というのは、全ての可能世界で成立するということではありません。なぜなら、自然法則はあらゆる可能世界で成り立つものではないからです。では、この「必然的に成立する」はどのような意味になるのか、これを説明する必要がありますが、これもまた宿題にさせてください。)

#原因についての「なぜ」の問いに答える時には、常に法則を前提とする推論が答えとなる。

ある事実pの原因を問う「なぜ」に答える時には、明示的であれ、暗黙的であれ、何らかの法則を前提としている。たしかに、一見するところでは前提に法則を含まない推論の場合があるが、その場合でもその背後には暗黙的に法則が前提とされている。例えば次である。

 「なぜリンゴがテーブルにあるのですか?」「なぜなら、私が買ってきたからです」

ここでは、テーブルに置いたリンゴはひとりでに移動したりしない、と言うことが前提になっており、この前提は、慣性の法則に基づいている。したがって、ここでも隠された法則が働いている。このように、「なぜ」の問いに答える時には、常に何らかの因果法則が前提になっている。

 法則pについて「なぜ法則pが成立するのか?」と問うとき、これの答えとなる推論も、明示的ないし暗黙的に別の法則を前提としている。

#次の説明を次回に行います(今日は時間がないので)。

<法則は、経験法則と理論法則に区別可能であるが、経験法則は、他の全称命題を導出してもそれを法則とすることはないが、理論法則は、他の全称命題を法則にすることが可能である。>

48 法則による説明、法則とは何か?(20211023)

[カテゴリー:問答の観点からの認識]

説明は、二つに分かれるように思われます。

 ①説明対象が何から構成されているかを説明すること

 ②説明対象が他のものとどのような関係にあるかを説明すること

前回述べた「還元による説明」は①に含まれます。今回述べようと思う「法則による説明」は②に含まれます。

#法則による「説明」

あることを説明するとは、それを<他のことと関係づけて>説明することです。その場合の一つのやり方が、それを<多くの類似の事例の中の一つとして>説明することである。例えばXをYと関係づけて説明することは、Xに似たものとYに似たものがあれば、両者の間に似た関係が成立するだろうということを含んでいる。つまり、ここでのXとYの関係は、Xに似たものとYに似たものの間に法則が成立することを含んでいます。したがって、<あることを説明するとは、それをある法則の一事例として記述することです>。

#「法則」とは何か

では、「法則」とは何でしょうか。文法的な形式としては、「全称条件文」です。そしてそれは真である必要があります。では、

 「法則=真なる全称条件文」

と言えるでしょうか。残念ながら、これだけでは不十分です。たとえばヘンペルが例に挙げるように

  「この籠の中の梨は、みな甘い」

これが真であるとしても、これは法則ではありません。仮に「この籠の中の梨は、みな甘い」が真であるとしても、それは「もしこの梨がその籠の中にあるとすれば、これは甘い」と主張する根拠とはならないでしょう。したがって、「法則=真なる全称条件文」とは言えないのです。法則は、それに含まれる事例の真理性を保証するものだからです。

 ヘンペルは、次の提案をします。

  「法則は、反事実的条件言明および、仮想法的条件言明(subjunctive statement)を成立させることができるのに対し、非法則はできない。」(ヘンペル『科学的説明の諸問題』長坂源一郎訳、岩波書店、1973年、9。ちなみに、ヘンペルの論文集Aspects of Scientific Explanation,1965、Free Pressの最後の章、第12章を訳したのが、この翻訳ですが、他の論文も興味深いです。)

 これは、次の提案に言い換えられます。

 「法則=反事実的条件言明を成立させることができる真なる全称条件文」

しかし、反事実的条件法の真理性は証明できないので、この定義を用いてある全称条件文が法則であることを証明することは出来ません。次にヘンペルが挙げるのは次の提案です。

 「これらの非法則文は、いずれも有限個の個体的事象または、事例にのみ適用するということである。一般法則は無限に多くの事例をふくむものと考えられなければならないであろうか。」9

これを言い換えると、次になります。

 「法則=無限に多くの事例を含む真なる全称条件文」

しかし、もしトキが数羽しか生存していないとしても、トキについての全称文はトキについての法則となり得えます。

 ヘンペルは、ある全称条件文が法則であるための必要十分条件は何か、という問題を設定しましたが、それに対する解答を与えることができませんでした。

 次に、「法則とは何か」に問答の観点からアプローチしたいと思います。

47 説明するとは何をすることか(20211020)

[カテゴリー:問答の観点からの認識]

前回カルナップから引用したところを再掲します。

説明と記述とのあいだに実質的な対立はなにもない。[…] より一般的な法則のコンテクストの中に現象を位置させるような記述が、現象に対して可能な唯一の説明の型を与える」(『物理学の哲学的基礎』沢田充茂、中山浩二郎、持丸悦朗訳、岩波書店、1968年(原著1966)、251。原著が出て2年後に翻訳が出るということは当時の人気ぶりをうかがわせます。)

 ここでの「説明」の説明は、カール・ヘンペルが主張した「科学的説明」の「被覆法則モデル」に似ています。このような説明の定義だけであれば、「経験法則」であっても、「理論法則」であっても、「説明」能力を持つことは同じであり、理論法則の説明能力が明確になるわけではありません。

論理的語彙の説明能力、理論語の説明能力、観察語の説明能力を考察するために、「科学的説明」に限定せず、「説明」一般について考えてみたいと思います。

#最も広い意味では、<あることを説明するとは、それについての問いに答えることです>

例えば、べジマイトについての問いは、どのような問いであっても、べジマイトの説明になるのではないでしょうか。

 「べジマイトとは何ですか」

 「べジマイトの素材は何ですか」

 「べジマイトは、どのようにして食べるものですか」

 「べジマイトはなぜ黒いのですか」

 「べジマイトは、苦いですか」

これらの問いへ答えは、「べジマイト」一般についての説明になりますが、個別のべジマイトについての問いに答えることも、次のように説明になります。

 「このべジマイトはどうしたのですか」「友達にもらったのです」

 「このべジマイトは、古いものですか」「いいえ、新しいものです」

このように見てくると、問いに答えることは、常に説明することであり、どのような問いであっても、問いは、常に説明を求めることだと言えそうです。

 Xについて何かを問うということは、Xについて何かを求めているのです。それは、Xを何かに関係づけて語ることです。したがって、説明することを次のように定義できそうです。

#あるものを説明するとは、それがどのような他のものとどのような関係をもつかを語ることです

 あることを説明するとき、私たちは、それを他のことと関係づけて語ります。しかし、他のこととの<関係>に焦点があるのではなく、他のこととの関係における<あるもの>に焦点があるのです。したがって、<あるものを説明するとは、それがどのような他のものとどのような関係をもつかを語ることです>。

 例えば、ある人物を説明するとき、私たちは、その人がどのような人とどのような人間関係を持っているかを語ることによって、説明する場合があります。例えば、リンゴの木を説明するとき、それがバラ科であり、バラ科の他の木とどのような共通性を持つかを語ることによって、説明する場合があります。

 ここで「語ること」は、記述することには限りません。例えば、会社の営業目標を説明するとき、それを従来の営業目標と比較して違いを語ることがあるかもしれません。それを「記述」だと言えるかもしれませんが、狭い意味の「事実の記述」ではありません。例えば、道徳規範を説明するときにも、それと他の道徳規範との違いを語ることで説明しようとする場合もあるでしょう。それもまた「記述」だと言えるかもしれませんが、狭い意味の「事実の記述」ではありません。つまり、答えが真理値を持たない実践的問いに答えることもまた、説明であると言えるのではないかと思います(これについては、もう少し考察が必要かもしれません)。

#還元による説明

 上記の定義での「他のもの」は、上記の例では、当の対象の外部にあるものでしたが、当の対象を構成するものである場合もあります。この場合は、あるものを説明するとは、それが何に還元可能であるかを語ることです。サールは、還元を次の5つに区別しているので、それらを5種類の還元による説明として確認したいとおもいます。

1,存在論的還元 

「ある種の対象が別の種類の対象以外の何ものでもないことが示されうるという形態の還元である。」(サール『ディスカバー・マインド』宮原勇訳、筑摩書房、178)

 例えば、椅子は分子の集合以外の何物でもない。物資的対象は、一般に、分子の集合以外の何ものでもない。遺伝子とは、DNA分子以外の何物でもない。

 

2,属性の存在論的還元

「これは存在論的還元の一形態なのだが、属性に関わるものである。」(同訳178)例えば、熱(気体の熱のように)は、分子運動の中程度の運動エネルギー以外のなにものでもない。「「熱」や「光」はものの属性に対する理論上の用語であるが、そのような属性を[他の現象に]還元することは、しばしば理論的概念の結果である。」(同訳178)

 この還元による説明は、観察語による述定を理論語による述定に換えることです。

3,理論的還元

「理論的還元は文献の中で理論家たちが好むところであるが、実際上、科学の実践ではかなりまれであるとわたしには思われる。」(同訳178)

「理論的還元は第一義的には、理論と理論との関係であり、還元される理論の法則は、(程度の差はあれ)還元する理論の法則から演繹されうるのだ。このことは、還元される理論は、還元する理論の特別なケース以外のなにものでもないことを証明するものである。」「普通、教科書に書かれている古典的事例は、気体の法則を統計熱力学の法則に還元するというものである。」(同訳179)

 この還元は、経験法則を理論法則に還元することですが、言い換えると、経験法則の説明を、経験法則を理論法則から構成されたものとして語ることです。

4、論理的、定義的還元

この還元は「語や文の間での関係であり、その関係の中で、ある種の存在者を指示している語なり、文なりは、他の種類の存在者を指示する語なり、文なりにくまなく翻訳されうるというもの」(同訳179)例えば「バークレーの平均的な配管工についての文は、バークレーの一人一人個別的な配管工についての文へと還元されうる。」(同所)「数についての文は、ある理論によれば、集合についての文へと翻訳可能であり、従ってそのような文へと還元可能である。」(同所)「語や文は「論理的に、あるいは定義的に」還元可能である。語や文によって支持されていて、それに対応する存在者は、「存在論的に」還元可能なのだ。たとえば、数は集合の集合以外のなにものでもないのだ」(同所)

 この還元は、ある表現を定義によって他の表現に置換することです。例えば、観察語を理論語に還元したり、またその逆のように。意味の検証主義は、文の意味を、その文を観察報告に還元することによって説明することです。(これに対して、推論的意味論は、発話の意味を、それを構成するものとの関係によってではなく、それと他の発話との関係(推論関係)によって説明するものです。)

5 因果的還元

「これは、それぞれ因果力を持つ二つの種類のものの間で関係であり、この場合、還元される存在物の存在は言うに及ばず、その因果力はなおさら、還元する方の現象の因果力によってすべて説明されうることが示されるのだ。」(同訳180)

たとえば、「いくつかの対象は固体であり、これは因果的結果を有し、固体の対象は他の物体によって透過されることはない。それらは圧力に対して抵抗を示している、等である。」(同訳180)「しかし、これらの因果的力は、格子構造にある分子の振動運動の有する因果力によって因果的に説明されうるのだ。」(同所)

「還元」は、この5つ以外にもあるかもしれませんし、これとは異なる還元の分類が可能であるかもしれませんが、いずれにせよ、「還元」とは、あるものをそれの部分や構成要素によって説明することです。そして、この場合の説明は、次のような問答になるしょう。「Xは何から出てきているのですか?」「Xは…からできています」

次に法則による「説明」について考察したいと思います。

46 経験法則と理論法則の関係 (20211017)

[カテゴリー:問答の観点からの認識]

「経験法則」は現象の一般化であるのにたいして、「理論法則」は現象の原因を説明するもの、経験法則がなぜ成立するのかを説明するものです。

 ただし、「理論法則」は、一つの経験法則を説明するだけでなく、複数の経験法則を説明し、それまで無関係であると考えられていた複数の経験法則を同じメカニズムから説明するものです。この点では、「理論法則」はある経験法則を説明する仕方の<一般化>だと言えそうです。しかし、ある経験法則の説明において「理論法則」は成立しており、それが他の経験法則の説明にも適用可能であることが分かるということは、「理論法則」を得た後のプロセスになります。

 カルナップが挙げている例は、マクスウェル方程式です。それは電磁気の現象を説明するために仮定された法則ですが、その後光の説明にも適用可能であると分かったのです。それによって、電磁気と光を含む現象の説明理論へと一般化されたのです。このことは、説明する現象の一般化ともいえるし、理論法則の適用の一般化ともいえます。

 つまり、「経験法則」も「理論法則」も一般化と関係を持ちますが、「経験法則」は現象を一般化することによって成立する法則であるのに対して、「理論法則」は、ある経験法則を説明するために仮定されたあとで、その適用が他の経験法則へ一般化されることがあるという点で異なっています。

 事例(個別命題)を集めて、それをもとに一般法則(全称命題)を作るという一般化(これを「上向きの一般化」と呼ぶことにします)が通常の一般化であり、これによって「経験法則」が創られます。これに対して、法則を適用する事例を増やしていって、多くの事例がその法則に支配されていることを発見していくという一般化(これを「下向きの一般化」と呼ぶことにします)がありえます。これが「理論法則」がかかわる一般化です。これは、既に知られている法則がより一般的な法則であることを発見する過程です。

 <「経験法則」が現象の記述を行い、「理論法則」が経験法則の説明を行う、あるいは経験法則が記述している現象の説明を行う>と理解したいところですが、カルナップは、記述と説明をこのように峻別することに批判的です。

「説明と記述とのあいだに実質的な対立はなにもない。[…] より一般的な法則のコンテクストの中に現象を位置させるような記述が、現象に対して可能な唯一の説明の型を与える」(『物理学の哲学的基礎』沢田充茂、中山浩二郎、持丸悦朗訳、岩波書店、1968年、251)

 カルナップによれば、記述と説明は峻別できず、科学的な説明とは、ある種の記述であるということです。これと関係するとおもわれるのですが、カルナップは、「経験法則」と「理論法則」を原理的には、分けられないとも述べています。

「科学の法則を検討したときに、観察可能なものを扱う経験法則を、観察不可能なものに関わる理論法則から区別するが便利である、と思われた。観察可能なものを、観察不可能なものから区別する、はっきりとした線はなく、したがって経験法則を、理論法則から区別するはっきりした線もないのである。それにも関わらずこの区別は有益であることがわかった。」(同訳、285)

 理論法則を明らかにするために、次に、その「説明」の機能について考えたいと思います。

45 観察文と理論文の区別の困難 (20211015)

[カテゴリー:問答の観点からの認識]

観察語/理論語、観察文/理論文、経験法則/理論法則、これらの区別は、それほど簡単ではありません。

まず、観察語/理論語の区別の難しさについて、説明します。

カルナップは、観察語と理論語の境界は曖昧であるといいます。(同訳「第23章 理論と観察不可能なもの」)。カルナップによれば、科学者は、哲学者が用いるのよりもはるかに広い意味で「観察可能なもの」を理解しており、観察から簡単に推論できるものもまた、「観察可能なもの」に含めています。例えば、哲学者は「摂氏80度」の温度とか、93.5ポンドの重さとかを、観察可能なものには含めません(なぜなら、それは見たり持ち上げたりするだけではわからないからです。それは、温度計や測りによってわかることであり、厳密にいえば、計測器具についての知識にもとづく、推論によってわかることだからです)。しかし、科学者はこれらを観察可能なものとみなします。科学者は「観察されたことから推論された」ものも「観察可能なもの」に含めるのです(同訳231)。したがって、科学者は、「摂氏80度」を観察語と考え、哲学者は理論語と考えるということになります。

 

観察語と理論語の境界がこのように連続的だとすると、その区別に基づいている観察文と理論文の境界もまた連続的であることになり、理論文の中の混合文と純粋理論文の境界も連続的であることになります。しかし、カルナップはこの点が大きな問題になるとは考えていません。

「「観察可能」と「観察不可能」という概念は連続的なのであるから、はっきりと定義できない、と言うことは本当である。とはいっても実際の使用上では、二つの概念の相違はふつう十分に大きいので、議論の余地はありそうもない。すべての物理学者は、たとえば、気体の圧力、体積および温度を関係づける法則は経験法則である、と一致して考えるであろう。…すべての物理学者は、一つ一つの分子のふるまいについての法則が理論法則である、ということに同意するであろう。このような法則は、簡単かつ直接的測定で一般化を基礎づけることのできない、ミクロ過程に関与するのである。」234

この引用からすると、カルナップは、「観測可能」と「観察不可能」が連続的であるとしても、物理学者が、「観測可能」と「観察不可能」の区別に困ることはないと考えているのです。

では、「経験的法則」と「理論的法則」の区別についてはどうでしょうか。この区別もまた連続的なのでしょうか、それともこの二つは異質な法則なのでしょうか。

経験的法則は、観察語で記述される観察文(例えば「このカラスは黒い」「この水は一気圧100度で沸騰する」「この鉄棒は、熱っされると、膨張する」)を一般化して出来る全称命題(例えば「すべてのカラスは黒い」「すべての水は一気圧100度で沸騰する」「すべての金属は、熱っされると、膨張する」)ですが、理論法則は、この一般化をさらに一般化することによって得られる法則ではないからです。

理論法則は、経験法則がなりたつ原因を説明する法則です。例えば「なぜすべてのカラスは黒いのですか」「なぜすべての水は一気圧100度で沸騰するのですか」「なぜすべての金属は、熱っされると、膨張するのですか」に答えるときに、前提となる法則です。

「なぜpですか?」という原因の問いへの答えは推論となりますが、例えば、その推論が「r、s┣p」であり、rが法則命題であり、sがその法則の適用を限定する条件であって、経験法則pが帰結する、という関係にある時、法則命題rは、経験法則pの原因を説明する「理論法則」になります。

(ここで、次の反論があるかもしれません。曰く<経験法則も、個別観察文の原因を問う「なぜ」の答えとなるのではないか。たとえば「なぜこのカラスは黒いのか」という問いに「なぜなら、全てのカラスは黒いからです」と答えることができるのではないか>という批判があるかもしれません。

これに対しては、<その場合の「なぜ」は個別現象の原因を問う「なぜ」ではなく、個別現象の主張の根拠を問う「なぜ」になっています。個別事例がなぜ生じるのかを説明するのに、全称命題で答えるのは、単称命題の根拠を示すことであって、単称命題が表現する出来事の原因を示すことではないのです>と答えられます。)

「経験法則」は、経験の一般化であり、経験の「記述」であって「説明」ではありません。これに対して、現象の説明をするのは、経験法則の説明をする「理論法則」です。「理論法則」は現象の記述ではなく、説明です。このように考える時、「経験法則」と「理論法則」の区別は明確であり、両者は異質な法則であるように見えます。

 「経験法則」と「理論法則」の関係をもう少し考えたいと思います。

44 観察文と理論文の区別について (20211013)

[カテゴリー:問答の観点からの認識]

カルナップは、『物理学の哲学的基礎』沢田充茂、中山浩二郎、持丸悦朗訳、岩波書店、1968年(原書、1966)で科学言語の用語を次の3つに分ける。

  1 論理語 (純粋数学の全ての用語もこれに含める)

  2、観察語、(O語)

  3 理論語、(T語)

ただし、カルナップは、観察語と理論語をハッキリと区別する境界がないことを認めている。(同訳、264f)

観察語には、「青い」「硬い」「冷たい」のような性質を表す言葉と「より暖かい」「より重い」「より明るい」などの関係を表す言葉があり、理論語には、「電荷」「陽子」「電磁場」などであり、「比較的単純で直接的な方法では観察できない存在者」をさす語が当てはまるといいます(参照、同訳265)。

カルナップは、この語の区別を用いて、科学的言語の文を次の3つに分けます。

 1 論理文、これは論理的語彙だけから成る。

 2 観察文、これは論理的語彙と観察語だけを含む。

 3 理論文、これは次の二種に分かれる。 

    a、混合文、これは観察語と理論語の両方を含む。

    b、純粋理論文、これは理論語を含むが、観察語を含まない。

次にカルナップは、経験法則」と「理論法則」の区別を導入します(参照、同訳、231-233)。

「経験法則」とは、観察からの一般化によって得られる法則です。カルナップをこれを二種類に分けます。一つは、「質的法則」であり、例えば「すべてのカラスは黒い」がそれにあたります。もう一つは、「量的法則」であり、例えばボイルシャルルの法則:(P×V)/T=R(圧力×体積/絶対温度=一定)や、オームの法則:E(V)=R(Ω)×I(A)(電圧=抵抗×電流)です。

「理論法則」とは、経験の一般化によっては得られない法則です。「理論法則」は、経験法則を説明するために仮説として設定される法則です。「分子」という理論語は、観察の結果ないしその一般化によっては、決して得られない概念です。

「観察からの一般化をいくら重ねても、ついに分子過程の理論は生み出されないであろう。このような理論は、別の仕方で引き出されねばならない。すなわち、事実の一般化としてではなく、仮説として述べられるのである。ついでその仮説は、経験法則のテストにある意味で類似した仕方でテストされる。仮説からある経験法則が導出され、次にこれらの経験法則が事実の観察によってテストされる。」236

「理論法則から導出された経験法則の験証は、理論法則の間接的験証を与えるのである。」237

「経験法則の場合には、験証はより直接的である。ところが理論法則の験証は間接的である。」237

カルナップによる観察語/理論語、観察文/理論文、経験法則/理論法則、などの区別は、一見すると明晰判明であるように見えるのですが、じつはそれほど単純明瞭ではありません。次にそれを検討したいと思います。